To be continued

単純な日記です。

他人の論理

考えたこととかを書いていったら色んな文章がちっちゃいまとまりで出来てたので、どうしようかなと思って、それを更新してみようかなと思ったりもしてたんだけど、ふと、でもこんな詩状態のものを立て続けに出して果たして、それを続けて読みたいと人は思うのだろうかと自分は考えた。ここに来て、レイアウトっていうか「出し方」みたいのを考えないで垂れ流す「詩」は面白くないだろうなと思って、ぜんぜん別のものを書いたりしていた。やっぱ自分の詩にはメロディも付いてなければ、もともとは挿入されてくるようなものだし、そればっかは読み続けられない。ネットだと、それがタテスクロール状になって出てくるから、多分かったるくなると思った。たぶんそれを入れ込むための段取りっていうかストーリーが必要なんじゃないかと思った。
それで夕方くらいになってふと、考えて、なんで自分はこんなことをやっているんだろうと思った。だいたい、それが何なんだって言う感じ。書いて、出して…それが何なんだっていうか、つまらなくなってきた。とにかく、一日が長い。一日にわたって自分の感情みたいのを観察してみて、ただ三食食べてガチャガチャ片付けしてるだけって考えいって、決算的にふつうに夜になると別に今死んでもいいような人生だなと思う。思うが、もし正しさを求めれば人は死んでもいいに行き着くと思う。人からの評価、自分が今までしてきたことや罪や罰の重さを正確に測りにかけて、恥や失敗の重さも幸福感と同様に毎時間で直視しなければ訴えられる構造に入れられるとしたら、それこそが「鬱」の病質そのものだし、キラキラがまったくない毎日におかれて、逃げ場もない、頼れる人もいないなら自分の心のうちだって少しも吐き出せない。けどそうじゃない人は「頑張ればできる」と思う。それは自分の場に水がたくさん満たされてることを知らない。だからネグレクトや◯◯ハラ、機能不全家族の問題とかも意識的に閉じ込められて孤立無援の人は何もかもを胸の内に全て、きっかり閉じ込めていくんだと思う。さもなければばらばらに家族や夫と絡み合った自己が流れ出してその人の精神自体が社会の暴力に侵されて死ぬと僕は思う。だから会社をやめてやっと自分も、そのとき起きたことを「へんだね」って言ってくれる人がいて初めて、色々言えるようになったけどいじめとか虐待の構造ってほんとそうなんですよ。逃げるように逃げるようにして、自分の水場を探すんだけど、獣からしたらそんな理屈なんてどうでもいい事なんですよね。だったら、文学ってなんなのって感じ。
自分は母親を憎んでいるわけではないが…
まあそれはいいとしてやれそうなことはあるけど、何か気分が乗らないとやりたくない。そうなるとどんどん「なんでこんなもの、作ってるんだっけ」の気持ちが強まって来る…
自分の書いてるものも、伝わってないのかもなと思ったりした。自分でも新しい考えや情報をけっこう噛み砕けてなかったりして、またいつもの堂々巡りになってるときがあるけど、他人を見ていても、結局言ったことじゃなくて受け取りたいように取って自分の考えを日々強化しているだけなんだよな。こう言う不理解、思考停止みたいのはありきのものなのかもしれないけど、自分みたいのは教育とかお願いしたりすること自体に疑問を感じてるし第一声にお前が間違えてるだろって言ってしまうので無理かもなーと思った。で、いったいそういう行き違いや停滞はいつ更新されるのかなーとか思った。「構造」っていうけど、それをハイと手渡されたらそれを人は、いつまでもいつまでも使ってそのテンプレで読みとくものなんだなと思った。だからいま、もうテレビの天下にいて、はいって手渡されればすぐパーティばっかりやっている。なんでかなと考えたけど、やっぱり上の人が民主主義で完璧に統治するのは無理だって考えているんだろうなと思った。だからこその弛緩剤で、宗教がない国の中で、いちばん働きのいいものを使ってるんだろうな。
天井界があるっていう話も笑ったけど、自分もそれは考えていた。どうして、ここまでひとつのことに凝り固まれるのか、エゴをむき出しに他人を方向修正してるのかって考えつづけたらそのひとらが、一様にどこかのゴールに向かってるようにしか僕には見えなかった。
いろいろな行き違い、ひと間違い、演説とか取り締まりみたいのもそうじゃないよと感じたりしてるんだけど、説明するのも別に仲が良いわけじゃなし、なんで自分がわざわざ教えてやって、嫌な役をかってでてその場の気持ちよさにすがるようなこと好き好んでやるんだとか色々考える。別にそのままでいいよ。赤の他人だし。