To be continued

単純な日記です。

謎の建物が増える原因

反射的にうごく

前の店、無くなったところでビデオ試写室が営業していた。駅前っていうのもあるけど前からこの辺はへんな風俗店が多い。自分の地元もこういう店が多くなってきていて、帰るごとにどんとんさびれていってる印象があります。
学生の頃は数件だったのがいまは里帰りすると目にする看板はパチンコ店…ビデオ試写室…ドンキホーテ…ドラッグストア…ビデオ試写室…そんなのばかり建っている。自分が記憶してるとこからいったら、まず初めに建ったのが普通のレンタルビデオ店の跡地に入ったドンキホーテで、そこからじょじょにこういう低所得者向けというか娯楽の店が増えてきてる気がする。近くには学校もあるのに、その通学路にこういう店が看板を掲げて建ってたりするのは、単純に目が行き届いてないってことなんだろうか?見かけるたび、温床みたいに、ひとつあればもうひとつあってもいいっていう気持ちがどんどん伝染してってるんだろうなと思う。一件ができて、それは目立つけど、二件目、三件目となるともう誰も気づかない。で、膨大になってきて、「なんか、ヤダなー」って思ったころにはもう片付けるのも困難な手にあまる程膨大な数になっていたりする。でもその頃に責任とかを持ち出してももうどこにあるのかすら分からない。雰囲気で…ただそれだけなのにこういうのは細菌的に増えていくんだなあって見ていて思った。
人の人格って習慣がイコールのようなものだと思った。日々、何にも考えないで選択すること、人前でやることは以外の見えてない部分、人生の多くの方を埋め尽くしてる日々無意識でやっているほうに自分がいるんだと思う。そういう意味で自分は生活者だといつも思う。生活=自分だし、文章を書いてイライラしてたりするのも自分ではあるけどそれが君か?と言い張られてもたぶん違うって言い逃れし出すと思う。何かばりばりに働いてて交友関係がよくてもそういう膨大な部分をひとに任せている人を自分はもともとあまり信用していなくて、結局そういう人って変に情緒が不安定だったりするし内にいるとき妙に子供っぽかったりする。やっぱり生活って大事だと思う。
そう書いてて、どこまで自分は偉そうなんだと思いましたが、、、

やっぱ文で書いてるとザ 独りよがりみたいになって良くないですね。ほんとに、外出て来いよって思いました。で、まだつづくんだけどそういう部分で、あたまを働かせて居ないでいるせいで自分の人格のおよぶ部分で、膨大にゴミ、汚さを積み上げるのにそれさえも別にして居ない事になっていたりするひともいる。人間は、見たいものだけ見て、やりたい事を自分の体感でなす生き物だったんだなと思って、それが不思議に思えた。やっぱり人って、知性と思いやりが無いと、それ以外のものを完璧に持ってたとしてもバカに見えるんじゃ無いかと思った。



昨日の鬱について深掘りしようと思って居たんだけど周りの人が急激に意味不明に優しくなってきたので特に浮かばなくなって来た。自分も大概が気分でやっていると言われることが多いけど、周りこそが気分でやっていると思い、でもその状況を逐一記録してるわけでもなく、なぜなら、それはその当時それが当たり前のすべてだったりするからで、結構「こいつ、頭おかしくなりつつある」みたいなのって傍目からは見えないんだなと思った。