To be continued

単純な日記です。

だから結局、小説を書けばいい

鬱みたいな感じになってきた。つまりそれは、「それをやって何になる」みたいな状態で何をするにしてもくだらないと思って終着点ばかり見てるみたいな感じ。最近は、あまり運動もしてないのでやる気〜体力みたいのも減って来てるんだと思う。朝起きてから,もしかしたら自分は、昔から入れられてきた壺にまた入れられていたのかもしれない。そういう「またか」みたいな感じはあったんだけどでもやりたくない…自分の中の電気見たいのが消えてしまったみたいな気分。それで、たまたま会った人から色んなことを教えてもらって,その人は友情〜家族から恋愛から色々考えてるらしかった。僕も,それについては考えてみたけどはっきり言ってわからない。本当に正直に言うと,自分は元から構造みたいなのを決めてそこに勝手にあれこれ当てはめていってるだけだったのかもしれない。でもそういう「わけ」の方は,自分の頭で考えたのかもしれないけど直感で思ってるだけのことを他人にどう話せばいいかわからなかった。それは、「何でわからないの?」みたいな感じだったんだけど自分は、多分それは、お互いに見てきたものと思ってることをいっぱい持ってきて,分かる部分だけで話してる時点で相手のことを自分なりの型にはめて質問しまくってるだけなのかもなと思った。どっちでもいいでしょ?」みたいな感じ。自分も議論自体は別に嫌いじゃないので適当に話してても良かったんだけどあとで困るだろうなとも思ったんですよね。

「へ〜」と思ったこと

あまり関係ないけど最近食欲が出てきたのでご飯3食食べる以外にも間食とか色々していて、それでもまた急激にお腹が減ってきたりするのであっちこっち歩く時にも食べ物を携帯して歩いてる事が増えました。そう考える本当に何回も言ったんだけど人=食べること=生きる事、なんだなあ〜って改めて思った。で,それに対してそういう事してると自分に対して「また、食べるんだ」みたいな意識がどうしても出てきたりして、自分はいま自分のことがそんなに好きじゃないんだなって鬱の状態で考えてたらふと、そういえば実家で父親がこんな風にいったい、何をしてるのかわからないような暮らしをしてる中でもなんか食べ物いつも食べてるとか別に誰とも話したりしないんだけどでも、お腹はすくんだみたいのをずっと子ども心に見てきてて、そうやって年寄りが腹を空かせてるみたいなのが別に嫌いなわけじゃないけど結構強固に「年取ってる癖にご飯は食べるんだ」みたいなのが自分の中ではあったんだなって思ったんですよね。これは父が自分では全くご飯を作れない「くせに」っていうのと別に偉くもないのに家の中で威張っては母親から手伝いを受けまくってる「くせに」っていうのが人を見る目としてやっぱりあったみたいです。

本当に小沢健二とかを聞いてリラックスしてても良いような時間でも鬱の方から忍び寄られてる間はそんな風に→自分が好き←っていう感じさえなくなって最後全ての終着点でそんなことやらなきゃよかったっていう結論に1秒くらいで達してしまうみたいである。

運動に関してもここ数年くらいずっとやっていたミドルマラソンみたいのもぱったりやめてしまって、今は「それをやって何になる」みたいな意思もかなりでかく鎮座してるみたいな感じ。何でこんな風になっちゃったかというと単純に、歩いてるのが嫌いになったからです。だからそれをやって何が楽しい?何になる?自分も鬱なのでその辺を歩いてる自分のことイメージするだけでキモチワルッてなんか感じてるみたいで歩くのさえ今日はしようとも思わなかった。そういうことって皆さんありますか?これは、接客業とかをやってると外に向かってフルマラソンで飛び出して行っても全然大丈夫なくらいもうウォームアップされた状態に常になってるんだけどもう、日常的に過酷な圧自体から解放されたらどこの筋肉も「行こう」って言わなくなってたみたいな感じ。停滞してんねん…で,自分は壺に入れ込まれてる間それを払拭するための論理を一ミリも持たなくなった。もうこれに関しておじいちゃん的視点からいったら確かに,諫山先生が心配するほど「とりあえず恋愛とかしてみればいいのかもしれない」ってなるのかもなって思う。僕も今初めてそのことに気がつきました。とりあえず外,でよう。とりあえずバイトはじめてみよう。このクソ重い精神は、とりあえず動いてみなきゃ終着が全部クソゴミだと感じてるみたいである。

ていうかそもそも時間が空いたら小説を書こうとかポエムを整理しようっていうのもあったんだけど何も出来ませんでした。これは、何回も書いたけど訳があって書こうと思う日に限ってムキムキ筋肉くんが自分の家に半日くらい止まって,男性ホルモンの論理をめちゃくちゃ振り撒いてくるので自分ももう流石に嫌になりました。本当にコイツと気が合わないんだなって。もしかすると今日の鬱もそういうのに原因があるのかもしれないんですが自分も、この年になって本当に一緒にいる人間に影響されて小説書く気を削がれるみたいなことなんてあるんだな〜っていうのは情けなくなりますね。

まあそれで、皆と集まる会みたいのをℹ︎さんが開いてくれてたのは良かったって思いました。ここ一年間の過酷過ぎるデタラメな集まりもここにつながってくるんだな〜っていうのと、なんか意外と、女性的な視点なんだなって自分は感じましたね。男の人の書く小説って結構もっと断罪的なの多いし、女性について書く時とかも自分の好み以外盲目になってる事多いんですよね。俺が王様で〜から始まるような小説を読んできた自分はそう感じてましたし結構マゾでもあるんだなって。

「つらみ」の部分については色々あるけど皆それぞれ大変だったんだなあって思いました。自分もたまに描いたりすることあるけど一応言っとくけど皆が忘れないようにワカますパンチしておいてるだけだからね。

テーマのこと

セックスについて〜自分も考えることはあるけどやっぱり前も書いたけど外にあるものが自分向けじゃないから自分に分かるよう描き直してるっていうのはあるのかもしれない。これは、不可能って言うよりも不快から来てるものだと思う。やっぱ個人的体験が他人と共有出来ないっていうのは当たり前にあって,別に言ってくれても全然いいんですよ。で、でもエロ小説とか読んで,100%満足するっていうこと自体自我を持ちうる大人があり得るか?みたいな感じもある。満足するわけがない。自分は、ファンタジーでAとBが共同体ってこと聞いてからもしかしたらそろそろ◯◯してみてもいいんじゃないかなって考えたりしてました。それが最近自分の中ではまあまあたのしい想像力ではあった。けど本当に最近はそんな風に仮定」「可能性」の時点でとどまってるようなことばかりになってきて,なんかそういうのも寝て起きたあとで急に気分が変わったらまた別人格になってるみたいな感じもあるのかなって感じてしまってるんですよね。確かな感覚ってなんだったかな…て、きっとこういうのが我慢し続けた後で急激に尖り始めてるみたいなのがCみたいな人なのかもしれないし自分も、iさんKさんみたいに他人の存在に自分の全身を重ね合わせてかんじだすみたいなのも「やってたな」って思う。けど本当に,ストーリーもの一本すら書けないような奴なんてクソでしか無い。みたいな→←否定もいっぱい入って来る時,僕はあまりその場にいても楽にはなれないみたいだ。なんか自分て「らくち〜ん」ってなってる時間が一番好きだったみたいなんですよね。この間それを友人に言った後で自分の、居間にいるときの精神状態を話してどうする?!と思って笑っちゃったんだけどそういう時間に達するためだけに、いっぱい運動していっぱい働いて、1時間だけめちゃくちゃ楽な時間を作るみたいのが生活の中にあるのが一番良かったのかもしれないって日本人の僕は思った。本当にポンピーみたいにつまらなくなってきてしまった…で、とにかく「何?」みたいに日常的にわからなくなって来たからやっぱり自分が塊みたいになって書くしかないのかもしれない。一人きりで色々考えて書いたり直したり,色んなことに囲まれながらそういう時間自体なんかモヤってるせいで取れてなくていっつもいる隣の人の感覚を半分くらい感じつつ生活の中にとどまってるみたいのが多く、な〜んか別にいいんだけどさ…ていう感じ。最近。