To be continued

単純な日記です。

2021/12/11めちゃ長いポエム書いた

猫のワールドを想像する

猫って、大人になってからも人間の布団の上だとかで足をふみふみして母親のおっぱいを飲んでいた頃の動作をしたりするらしい。YouTubeの動画で見ていたんだけどそれがなぜそんなことをするのかというと、猫が母猫のいるときのことを思い出して、心地よかったっていうことを思い返してやるらしい。これをYouTubeの中で猫が入り込んでやっているのを見てて自分は想像してみたんだけど、例えば自分が友人みたいに猫を飼っていたとして、猫が自分の寝室にそれをしに来て、自分の横でずっとふみふみしているとしたら…そうしたら自分は、寝たふりをして猫が満足するまで、そうするのを見ていると思う。そういう時は自分は母猫になったみたいな気持ちになってるのかなと思った。自分はそこで子猫の気持ちを想像してみたのだけど、小さい頃ブリーダーの家で、自分の家族の母猫や兄妹がいて、そこで暖かい布団で毎日寝ていて、母乳とかの匂いもしてたりする場所で、猫が子猫の役を担ってるのが心地よかったんだろうなと考えてて、そんなふうに、誰かや自分が、猫のためにあるストーリーの世界の中に入って、それに寄り添ってあげるのって何故かわからないけど心地いいことなんだなと思った。それで、自分は考えていたんだけど人間もこういうところはあると思って、相手や向こう側のもっている物語の中に、他人がその役として入り込むみたいな事、自分はまずそれが前も書いたけどテレビなんだよなと最近考えていた。自分は小さい頃から毎日ずっとテレビがつけっぱなしになってるみたいな家で育ったので、自分の頭の中には日本の歴史以前のテレビの中のタレントや俳優の事件、結婚とか事件みたいなこととか、社会事件が起きた時の世間のリアクション、位置付けみたいなテレビ史が、語るまでもなくぱんぱんに詰まっていると思うが、多分自分の周りの人もだいたいそうだと思う。テレビタレントになりたい人は、多分有名になりたいとか注目されたい以前に、あそこの中に入ってみたいと感じるんだろうなと思っていた。毎日それが放映されていて、ストーリー状であるものを見ていると、何かそれがずっとホンモノらしく見えて来てしまって、そっちの方に本当の人生があると考えてる人ももしかするといるのかもなと思う。それにそれらも最近なら、選りすぐられて自分らはここに来たっていうのをはんで押してくるのを忘れなくなった。バラエティなんかもそんなのが結構流行っていた。タレントとか、CMで山ほどみているから特に真新しさとかも無いんだけどやたら持ち上げてるなと感じるのって、自分がそれなりに歳を取ってるからなんだろうか。
そもそもはそれもはじめは人が作り出したものなんだろうけど、数人で作り上げた空間をその他の人が見てる」ってすごい作用があるんだなと思った。
例えば宗教もストーリーになっていて、それを日常の風景で担っていけば、自分もその一員であるっていう連帯感を持つ事が出来るんだと思う。宗教を持っていなくても、僕らも日本の文化みたいなものを行事でになっていって、自然とそれを請け負って繋いでいて、そのさなかにある感覚になる。戦争なんかも、その物語と物語の衝突っていう見方も出来るんだろうなと思った。これが良いという人が、もうひとつの物語の物語性を否定し、それが発現して来れないようにずっとし続ける。マクロでもミクロでもずっと当たり前に毎日、毎日起きていて、挨拶もなしに人は他人を侵攻していい。そこに想像力を遮断してしまえば相手の感じて来た事などべつにどうでもいいっていうことなるし、戦争もそういう性質なんだろうなと思った。
というか、思い返せば最近に至ってはけっこうずっと同じこと考えてますね………小さい頃からこの「テレビに関して」みたいな話はあったけど、考えていても外に流れていっちゃって忘れて生きてるみたいなんですよね。なんでこうも二十四時間後にまた、さらに無自覚になるみたいなふうになれるのかなってつくづく不思議に考えてました。
そのフィクションを自分が作り続けることの理由づけとか、お互いのフィクションに対する態度だとか、おんなじよーなことをえんえんと考えている。

◯マジょりんが大中小の魔法の威力を知ったあとの世界
自分がまだ疲れてない事について

あとは書くことがないのでまた同じような話です。
今日もまた、仕事をしてて夕方くらいになってから自然とまた体が動かなくなってきた。だるい…というか「やりたくない」みたいな。これは、だいたい夕方五時前くらいから起きてくるいつものことで自分はとりあえず疲れてるのかなと考えてみた。が、考えるに自分は昨日と一昨日とその前と同じようなことしかしていないじゃ無いかと思った。別に大層な仕事をしたり走ったりして来たわけでも無い。だから瞬時に「じゃあ、なぜ疲れるのだ」と自分は思い、物凄くダラダラしていたわけではなく普通に立ち仕事とかもしているしストレスもあるとは思う。でも普通に「でも毎日やってる同じような事に対して新たな疲れとストレスを人は感じるのか」と考えていた。自分は、よくわかっていないんだと思った。◯+◯+◯=まだ疲れてない、じゃあどこからが本格的に休んでいい疲れなんだみたいな。皆さんはどういう基準で自分を休ませて甘やかせてますか?て、自分はそこまで考えてて「身体が疲れてもいいメソッド」みたいを見失ってしまったのである。そうして、「疲れてもいいメソッド」を無くした自分は、自分がなぜ「布団に横になりたい」と考えてるのかわからなくなってしまった。むしろ何もみたく無い。
こういうのが自分の月曜日から金曜日くらいまでの流れで毎回あり、自分は自分で考え出したはずの論理にがんじがらめになっていてそれを客観視出来てないせいで本当に、突如存在させられているわけでもくずううううっと続いている事に対して「とりあえずの答え」みたいのを持ち合わせない限り、自分がいつまでもいつまでも同じ場所をグルグル回り続けるんじゃないかなーと思うんですよね。これまではそういうことを他人に言ってもしょうがないし、例えば大変だねとか評価されたりすればどうにかなるのかなとも考えたりするけど、一人で尻拭いまでやらなきゃいけない事❌百万回ある事に対して俺が俺にみたいな感じでもってやっぱり多少は煮詰まって来てるっていう事なんですかね…

でも考えてみれば、「毎日同じことしかしていない」とストイック&恒常的な体力を保ちたい部分の自分は言ってるんだけど、実際本を読んだり文章を書いたりしてると、毎日台風みたいな感情の嵐を受けたりとかしますよね。それから、やっぱり頭が疲れてるんですよね。頭が。だから、多分実際に疲れてる時は疲れてるんだろうなと思った。



終わりです。













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※さらにそれを、ポエムに置き換えてみた!※




見上げてみると目覚めたばかりの空に薄い雨雲が覆い被さっている。
雲が雲に重なり合ってずっと形を変え続けている
国がたくさん浮かんでるみたいに見えた。
僕は行きずりのSEXのことを思い出した。
それは唐突な、愛っていう論理を欠いて出現してくるみたいに思えた
愛は与えたり奪ったりするものじゃないと言っている人が居た
僕はたしかに、愛をくださいと言われるとムカつくのはなぜだろうと考えた
当たり前のことを取ってつけたみたいな
それならそもそもの「愛」の定義自体はじめから間違えてるんじゃ無いかと思った
愛って何だ。考えてみたが、それは音楽に出来るんじゃ無いかと思った
※すみません、まだ続きます
新しい愛の定義として付け加えてみると
すべての愛が音楽に置き換わっていった
雲を見上げてみる。
お互いがお互いを侵攻し合い、
色を変えて形を変えてそこにあるものは音楽に置き換わってしまう。
それが愛なんだ。
僕は、雲を見上げながら考えていたが、
原始時代からの定義付けの時点でもしかすると愛の定義自体が間違えているんじゃ無いかと思った
家庭があって仲間がいて、
友人がいて、そこに仕事があって、
それら全体をなんとなくで覆う
音楽的なものや、繋がり
唐突なSEXにもし愛の論理があればそれは自然とものがたりになる
雲が雲を重ね続けていき、
人間は日常の細々としたことをつないでいくが、
愛に侵された人が歌うのを他の人は止める事が多分出来ない。
愛ある世界。
愛なんて言葉に囚われる前からお互いの論理をもっともっともっとはじめから形にしていればよかった。
そうすればそれの対義語みたいな戦争も消えてくるのに。
そして雲が形を変えながらそれが音楽に置き換わって行く本来の世界を思い浮かべていた。