To be continued

単純な日記です。

アラウンドフォーティー越え

最近の創作案件

 

何をするべきか分からないで毎日ぼーっとして過ごしている。先週くらいに色々と書くことがあったのでそれを書いたりしたけど、その時は久しぶりに書けるなと思って楽しかったのが、それが過ぎ去ればもうすぐにそれが当たり前のものに見えて来る。自分はそういう感情みたいなのが一体何なんだろうなと思った。そういう渦中の中にはずっといられない。いられるはずがないんだど、またその再来を待っていたりする。いったいこれ、どこで満足するんだろう?たとえば、今日の朝ふと思ったんだけどもし、永遠に創作が湧き出て来る泉みたいになるか、それか本当に欲しいものをひとつ手に入れられるとしたら自分はどっちを選ぶのだろう・・・と考えたりした。自分ももしちょっと前(2ー3年前)だったら前者を選んでいただろうなと思うけど、今はそうでもなかったりする。多分、何度も嫌なことを繰り返して、もしかするとそれは良いことなのかもしれないけど・・・多分創作界隈の人なら7割くらい前者を取るんだろうなと思う。あの時期、入れても入れても底から即抜けていく入れ物を持っているみたいにガリガリに痩せていて、あんなにいろんなことを感じたり書いたりしていた(ような気もする)けど結構他人事みたいに思えることもある。最近も、目標も掘りたい場所も見失っているし、悩みしかないけど鬱うつとしているのもかなり短時間で、あの時に比べると風邪までも行かない本当にくしゃみくらいの時点。

この間、Jくんに会ったんだけど、彼も同じようなことを言っていた。彼も、量産型のタイプの人なんだけど、「自分は自信がないからつい量産してしまっている」とつぶやいていたのでハッとしたのだった。自分もそうだった。なんでそれを続けるのかみたいなことを考えてみるに、楽しいから・・・生きがいだから・・・とかいうことより、続けることに対して見出す喜びの部分が、自己を更新して、ある気持ち悪さを払拭すること(抜け出すこと)に多分あって、彼が「それしかない」と言っていたことに対して自分はそれ以外もあると言っていたけど、今はそれしかないかもしれないと思えてきている。そういうの、もしかすると自己嫌悪の感情もけっこうあるんじゃないかと思う。

色々な変化が起こるとしてもそれが根拠もなく一瞬でしかないことなんだよなあ・・・と思うと何に対してもやる気が起きない。皆が嘘をついていて、その先にあるのは膨大な利益や利権のありかってこと、もうあらかじめわかっている。ここまでくれば、そこから抜け出すまでの時間も早くなるけど、翌日になればまた同じところまで戻っている。だから、何をするべき人間で、それが本当にやりたい人間だからこそすると自分で思えない限り、自分は何もしない。でも自分は、だから他人から失敗とか言われていることを失敗とは思っていない・・・けど他人からの声が本当に物凄い増えた。ものすごい巨大なホイホイみたいになった。そういう毎日の中で、ゴミまみれで、本当に「やりたい」と思えることが、こういうことなのかもしれないけど、本当にそれが泥沼で泳ぎ回るみたいで、見るものと言えば自分や誰かがやっとの思いで紡いだもので、思い出してみて、そうだ、自分は他人というかひとをたどって歩んで来たじゃないかと思ったりする。そういう他人に対して一体どういう感情を当てはめる??そう考えてみて、自分の手持ちの少なさにびっくりするのである。

 

 

ポエムーー

思いの純度を高めること

それで忘れられないようになる筈だった

けど記憶は飽きられ、朽ちていく

忘れられないようにしたい

…思いの純度を高めておけば

皆が完璧に忘れ去ったその後で

まったく知らない人がそれをみて、別の意味で驚く

思いの純度を高めておけば、、、

だから忘れてもいい

手放してもいい

 

 

 

 

アラウンドフィフティー越え

 

本当にこれは書こうかずっと迷っていたんだけど、何度も繰り返される集まりで、数年間それを見せられていてこれは、メンバーを入れ替えただけでやっていること同じやんけとある時思ったんですよね。

3年前・・・そのせいでいろんな大問題が起きた。あれを焼き畑として、おんなじような要件が繰り返されるようになった。それで、「変わったな」と思うのが、けっこう40歳以降の人たちがすごい増えたなということで、自分はそれがずっと不可解でならなかった。あの時、参加するメンバーは10代とか年取ってても30歳とかくらいで、そういうさなかに塗れて青春を謳歌していてもいいのは若い人たちだけで、大人たちはそれを後ろから見て体系立てるか、アドバイスしたりするかみたいなのが暗黙の了解としてあったと思う。だからそれに対して大変だった大人たちが存在しているのは知っているけど自分は特に迷惑をかけたなとも思っていなくて、それが今は4050台くらいも普通に参加してワイワイやっているっていう事実がすごく不思議だった。こういうのは始めの時点ではごく手探りでやってはいるから、慎重な人たちはあまり出てこないけど、それが社会的に認知されるほど慎重だった人達も遊びに来るもんなのかあと思った。でも、ちょっと待てよ・・・と思うのには、この人たちは一体何を経験してきているのかなということで、この人たちのアクセルとブレーキは一体何なのだろうと自分はふと、立ち止まって考えてみたくなった。「みんながやるからやる」それは第一段階の理由でしかなくて、たとえば自分やJくんみたいに二度と引っ込めなくなる経験をしたらそれ以外の自分の属性とかどうしても参加すべき理由がないとどう考えてもヘンでしかない。だから、目の前にただ見えているから言いたくなったことを言いに来るんだとしたらテレビを見ているだけの人と変わりがない気がするんですよね。そこには明確に責任みたいなものが存在するべきで、4050くらいの人だったとしたら創作で見る夢以外の経験上でそういう痛みを理解していないとおかしいと、何か不自然がすぎると自分は感覚的に思ってしまったのである。

 

Aさん→変態だから

このせいで、変態とか、悦楽の感情が膨大に増えてしまった。

自分はやはり、若いころに苦労はするべきだと思った。やっぱり10代ー20代のときはアイデンティティの有無みたいなものに苦しむ時期だったのかなと思うし、それは結局は大したものではなかったっていうあきらめみたいなものはあるんですよね。けどそれでもまだ生き続けるんだとしたら・・・4050くらいに成れば多分その時点での、余命みたいな理由の中で生きているんだなあと思った。

 

自分はそこで、40代以降の青春群像みたいなものをたくさん見せられた。そこにあったのはあきらめ・・・自虐・・・羞恥の込み入った恋愛・・・若い者に対する認識、ナドナド。でも、ブルーノマーズも35歳で未だにジャージを着ていたりするから、自分も死ぬほど真面目にやることこそが最早、エモみだと思う。自分はそういう立ち位置。だからそれに対する文句が山ほど出てきていることは知っているけど、自分はそういう銃弾を四方八方から浴びながらもゴールにラッシュするような精神状態でいるべきだと思った。

 

 

 

 

 

新しく、かつ不可解で快活なオレ

 

で、そういうことをしている人たちはやっぱり何を求めているって共感以外の何者でもないと思う。共感…といってもなかなか難しく、人は、新しく、不可解でありつつ、絶対にそれは全許容をモチベーションに舞台にあがらざるをえない。これは、ヘンだけど事実です。けどそれをしながら、ふと思うにこの構造だとどうしても他人の体ややってることを借りつつ同じ場所でちょっと違うけどほとんど同じようなことを何回も擦り直し続けるような事になってしまい、結局そうなるとひとつの狭い場所で物凄く多くの人がせまい共感の取り合いをする…みたいな形になってしまう。これがすごく不自然。はっきり言ってそれの何が楽しいのかと思いながら、結局おおくは、参加する以前にそれをやっている人を見る、見守るみたいな時間になってくる。何が楽しいのか…??自分の言いたいのは、既にある蟻の巣を微妙に違う経路で掘る事に対する意味みたいなものだと思う。以前自分は「こういうことは誰にでも出来るから、教養としてあってもいい」みたいな事をたしかに言うには言ったけど、それはそれを持って皆で賞レースをして欲しいという意味なんかじゃもちろんなく、それで自己治癒なり趣味なり教養を高めて人生に生かせる可能性もあるんじゃないのという意味で言ってたので、今の全SNS化、全YouTuber化みたいな現象を見るだに驚きでしかない。何故人は他人の言うことを全都合よくとるのか、、、そもそもで全員がタレントになって目立ったり褒められたいと思っているわけがない。そもそもでそれに参加したいと思う人たちは、その内容がどれほどつまらなくてもスーパーマリオの中に自分が入っているのであればなんでもいいみたいな脳みそを本当に持っているのか自分は疑問でしかなかった。