To be continued

単純な日記です。

痴人の愛のこと

先日、人と出かける機会があって時間がかかりそうなので本を持っていった。谷崎潤一郎の「痴人の愛」である。思った通り時間が有り余っていたので僕は、文庫カバーをつけたままで痴人の愛を読んでいたのだけど、結局は三分の一くらいの部分で読むのが止まってしまっている。この小説、初めの方はテンポがかなり遅く、「日記」と言っても正直差し支えがない。一時間あまり費やし、文字通り郷を煮やした僕は最後の方もちょっとだけチラ読みしてみた。…思うに、これは文学なのだけど変態行為というものを突き詰めたやつなのだと思った。
変態行為について書いてあるものは多分古今東西でいろいろあると思う。文学と言っても、例えば純文学であればある部分を深掘する性質は、あることはあり、かなりそれは視野が狭くなって個人的なエモーションを求めてやっていることだ。で、何か思ったのが自分の共感を持たない変態行為みたいの見てる気分ってこんな風な感じなのだなということだった。一体どういう心づもりで読めばいいのか僕は、決めかねながら、そうだ僕は、なんらかの愛着を求めていた。多分こういうのは実体験をもとにしてはいると思う。それから、その対象の人が存在してるのだと思う。そういうものに対して、その時感じたエモミを残しておきたいって思うこと…それが書き出そうと思う動機なのだろう、よく分かる、けど、興味を得ない部分の変態的行為を書かれている場合、始終感じてるのが(ヒマだな…)ということなんだなと思った。
何にしても共感は大事だ。

僕は年末とかもずっと引きこもって文学と相対しているだけだったんだけど、もうちょっと外の世界を見た方がいいな。他人の目線、気にした方がいいなと思った。

それから、髪の毛を久しぶりに切りに行った。
最近、数年くらいずっと同じ髪型にしていたのを変えてみた。今まで髪の毛に対してはこだわりなんてなくて、髪型に対して何か感じてるとか、似合うと思ってるみたいのは特に無くて、一度やってしまうとそれを保とうとする肯定力みたいのが無限に働いている状態みたいなのがあると思っていた。だからとにかく「説明するようなわけもないまま」同じ髪型にしていた。けど、わりとむさ苦しいと感じる人は多かったみたいで、例の人■ - 随時で忘れていきますからも突っ込みを毎日いただいたりとかして、それに対して答える部分のないままうっとおしさを感じつつ、今日それが極限まで達した為に結局やっと切るにいたった。切って良かったと思う。僕は、「人の目って、気にした方がいいよな」とやっと思った。

で、美容室、久しぶりに行ったんだけどそこで見た雑誌であったのが「アイドルの育成過程のビデオにはまる」みたいなやつだった。読んでて、僕自身そういう何かの沼にハマるみたいな行為まったくないままに生きているなと思った。

フィールドの話

このような世の中さまざまな場所に配置されたフィールドみたいなものが人生上にはたくさんあると思う。例えば、見知らぬ人と話すにしても年齢によって話すことは違う。三十を超えて、男だったりするとやたらと「体力」「白髪」「最近見た若い人」の話になりがちだったりする。僕はそこにある時「スポーツジムの話」みたいのが入りだすなと思った。例えば、子育てや過程の話は僕にとって未知ゾーンなため触れようがない。そのへんのフィールドはいますべて「未知」の色鉛筆で塗りたくられている状態なのだと言っていい。
僕が今日話してて質問されたのは「ジムとか、行かれてないんですか?」という話で、ああ、そうだな。たしかにジムとか、行ってないけど、去年は一年のうち十五回くらいは「ジムって何するところなんだろう」みたいなことを考えていた。これは、二年前の状況よりはかなり増していると言っていい。もはや「ジム行きたい予備軍」である僕は、ジムに関しての質問を、美容師さんにしてみた。
話によると、ジムに入ると、場所にもよるがトレーナーが付くコースみたいのがあるらしく、そういうのをしているといろいろとメニューを決めたり、筋肉の状況を相談したり、来年どんな体質になっていたいか、食べてもいいものと悪いものみたいな悩み相談もすることができるらしい。これについて考えてみたのだけど、実家に帰った時に母と姉が話していた妊娠初期の話とよく似ているのである。彼女らが、楽しそうに話している傍で終始「ふーんふーんふーん」と感じていた僕は、ここに可能性をひとつ見出した。僕みたいに、中途半端な大人&フリーターの人間に対して、話しかける時話題ってそれほどあまりない。もしかすると、いろんな人に気を使わせていたのかもしれない。常々、僕はこの「自分にとって未知のフィールド」にいる人たちの話を小耳に挟んではスルーしていたけれど、今日唐突に、ぼはそれは扉であると急に思ったのである。
今まで無関係と思っていた。例えば、禁煙とか喫煙みたいな話。剥げたとかリアップみたいな悩み。痛風、性欲の減退(逆に増える)それからジムに行って、何をして普段何を食べて、「あ〜トレーニングしてきたのに、バイキング行っちゃった!!!💦また😅あたしってほんとだめね…」「あ〜逆子の体操するの忘れてた!💦五ヶ月に入ってからは、お酒もちょっと飲み出して😅」「あ〜今日、定期検診なのに行くの忘れちゃった!💦ニコチンは大分抜けてるのに、父が会うたびタバコを蒸してて😅」みたいな話。

そういうのを僕は、もしかすると自分の選択の意思によって明日から唐突に入ってもいいんじゃないかなと感じたのだった。

で…みたいな話

まあそれはいいんだけど、最初に書いた遠出のことで僕は谷崎潤一郎の本を投げ出した後はずっとYouTubeを見ていた。その後は友達の車の中でずっと今時のうたを聴いていたんだけど、思うに、こういうかたわらから何気なく聞こえてくる「声」ってYouTubeであっても顔が見えないでいるときは不協和音でしかないけど、顔が見えてて、何しているのか、それから前後関係がわかっている場合は結構没入できるよなと思った。
僕は待っている間じゅうずっとYouTubeで漫才とか、コントとかを見まくっていたんだけど正直いって、楽しすぎて楽しすぎて、満腹し過ぎてそのまま成仏してしまうのじゃないかと思うくらいに充足してしまっていた。「充足メーター」みたいのがあるのだとしたら満タンになっていたと思う。YouTubeは楽しい。多分、YouTuberが提供する、一見くだらなく何の生産性もないように思えるやりとりも、こんなふうに充足感を提供しているのだろうなと感じた。僕はこれまで、YouTuberがYouTuberたるときの映像を見たことがなく、友人とかが傍で聞いている声を聞いてたのみだったがゆえに、だから死ぬほど不快だったのだと思った。
で、さらには、その後その集まりから帰るときに友人の車の中で歌を聞いたりもしていたのだけどやはり、知らない人の声や歌みたいのをすぐには飲み込めない自分がいたりした。僕は普通に、その助手席に座ったままで自分は、ここまま、意味不明のるつぼで溺れて狂うのじゃないかと感じていたのである。批判したい、比べたいみたいな気持ちは一切ない。むしろ、僕の方から「意味」の方を教えて欲しかった。
もしかするとそもそもで、僕は人の声みたいのが苦手なのかもしれないと思った。
僕は、家に帰ってから自分御用達のバンドの歌を聴きまくってしまった。

何かバンドだと聴けるんですよね。リズムがあるからなんでしょうか。リズムって安息ですよね。何か。