To be continued

単純な日記です。

今日も仕事だった。年末、年始と移転に向けての作業でなかなか忙しかったりする。客層も年末ということで徐々に人の入り方が増えてきていて移転のことを聞かれたりする事も多くなった。
僕に関連していうことと言えば、この間店長とトラブルになった件がけっこう長引いていて、僕にだけ事務連絡が無かったり(いつものこと)いつもの仕事が出来ないように棚に鍵を掛けたり、水が飲めないようにドアの鍵を閉めておいたりなど、悪口を言われまくったせいで粘着質になるしかないクソババアみたいなことを毎日、それは毎日のようにしてこられている。僕はもう、最後だから、どうでもいいかなって、だいたいは流れるプールの一番強いとこで「ダダダだーっ」ってなる感覚で、無感覚でいてるんだけれど、今日はそのことをMさんとSくんに報告したりなどしていた。思うんだけど、こういうことを人が「鍵がかかっている。気のせいかな?」とでも感じると思っているんだろうか。思うわけねえだろと思うしお前が毎日朝一番に職場のトイレでウンコしてることだってこっちは毎回気付いてるぞと言いたくなる。が、大人なので言わない。何が悲しくて「水飲み場の鍵が掛かってます」みたいな事をいちいち、大の大人が大人に言わなければならないのだろうか。何が悲しくて「仕事することないのでシュレッターかけさせてください」みたいなことを懇願しに行かなきゃならないのだろうか。

こういうトラブルはあらゆる場所で沢山起こりうる。とにかく、絶対オカシイ→オカシイと言った時から嫌がらせがスタートするみたいな延々ループがある。当事者以外からのタレコミでおさまる場合はまだ燃焼度は小程度だと感じる。以前の職場のときは、職員、それから店長からの面接があったうえでも解決しなかった。書いていて、僕はどれだけの供物なのだろうと思う。今日はなぜか、僕がSさんと仲良くしているのを見ていて焦りを感じたのか、いつもならやらない掃除をしていた。なにか、「ばれた」と感じたのだと思う。いや、ちがう!「ばれた」じゃない!「千㌫バレていることをたまたま今日口から漏らしただけで、確信犯なのは一ミリも変わらない!!!」だから正直、意味が分からない!!!掃除なんかしても意味ない!!それは、反省になんか、映らない!!全員が全員…意識はまるで何も変わっていない!変わっているのは、僕に対して吹く風の強さでしかない!!!そもそもそれが見えていないから毎回こんなふうにしかならないんです!!!!!!!以前、僕が異性のお客さんと仲良くしていたときもこんなふうに急に焦りだすみたいなことが見られたけど、言いたいが、僕は好きで普段から喋ってないわけじゃない。つまらないから、不愉快極まりないから話したくなくて話さないを選んでるのである。わかってくれ。こういうことをいくら繰り返してもこれが治らないとき、相手は増長しまくっている最中にある。ターゲットの人は、針の筵になりつつも確実に刑事告訴出来るネタを探ることに神経をついやそう。僕はもう、ネタを数件手に入れている。だから決して、反撃してはいけない。何故なら、攻撃に意味がなければ反撃することにも意味がないからである。

ハラスメント被害者の皆さん、おとなしく…ねばり強く頑張りましょう。

けど、このことに関してMさんは大人なので僕に対して冷たい。Sくんは、身に覚えがあるからか結構親身になって聞いてくれている。僕も、アルバイトの経験があまり豊富なわけではないけれどとにかくこのほうれんそうがない職場というのは基本的に下の職員のことを馬鹿にしていると僕は感じている。こっちは全て、忘れたりなんかしていない。
言いたいことは色々とあるが、どれもこれも全て、言ったってどうしようもないことだ。まず根本的に、この場所で仕事することを人生や生活のベースではなく遊びだと感じているみたいな人に、何を言ったってこちらの疲労にしかならない。
けど僕の友達は皆「反吐が出そうな人と場所だね」と言ってくれているのでそれがなによりもうれしい。


あとは来年からどんなふうに暮らそうかとか、もうすぐ三十代になるためにどんな意識でいようかみたいなことが気になっていたりする。
アルバイトについて、僕自身も正直言って文芸で生きていけるだろうなくらいに甘い考えを持っているわけじゃない。仮に、まあ仮にだけどひとつがレベルがそこに載っかったとしても、人生それだけで泳ぎ切れるだろうみたくは考えていない。そもそも、僕の作品だけで例えば、一日何も食べなくて済むほどの喝をいやせるのかと考えると、ちょっとそれは無理だと思う。しかし「思想」というのは本来そういうものじゃないかとも思う。大いなる思想、そういうのに触れると、人生が百八十度とまではいかなくても、少しくらいか角度が変わるような感覚がある。あれは、すばらしいと思う。一日、ご飯を抜くような価値があると思う、そういうものってやはりある。
先日、イワンのバカという話を見た。内容を今まで知らなかったけれど、芸術を流布したり、政治をして何かを起こそうとことと、土に足をつけ、食物を作り暮らすことの乖離についての話みたいだった。昔の文芸作品というのは、こういう、「文芸について」そもそもそれがどのように身を壊し、どのような意味合いを持つのかという事を深掘りしている事柄もわりに多く、太宰なんかはもろにそうだと思う。あの辺は、人間関係があるからこそ面白味が増す部分なのだろう。日本だけではなく、この再生産のための生産については、世界中で傾向があるみたいだ。それから、カフカの変身も見た。アンデルセンも見た。この人たちの体感と、芸術の関連についても考えたりした。それは、人生全体を表現するものでもあるし、また壊すものでもあるのかもしれない。僕は、こっちの人たちの方がなぜか好きだと思った。北原白秋のやわさが好きで、太宰のようにそれを売りにしちゃってるようなのはちょっとうーん、面白いかもしれないけれど僕はあまり救われない。何もかもが出来て、思想家として周りと和をなし、それから滞る事なく思想を生み出し続ける…それが理想なのかもしれないが、なかなか難しい。何かこの、思想のための思想を作るみたいな部分は、市民にはなかなか届きにくいんじゃないかと一瞬思ったりもしたが、そんなこともないだろうか。
僕自身も、けどそんな状態になってくることがある。吸収し、再生産する…そんななかにいると普通の生活を見失っていることがある。文芸作品の中でも、そんなときに普通の生活に実直なものがあったりすると僕は「はっ」とするのである。何かこういうことが僕は、あまり出来ないような気がする。
前も書いたかな。

というわけで仕事は続けて行きたい。けど、そうなると文芸へ注ぎ込む時間が取れない。
それからそもそも、モチベーションが続かない。