To be continued

単純な日記です。

AさんB子さんCさんから手紙が届いた。いろいろなことが書かれていておもしろかった。自分では気づかないようなことも色々書いてあった。こうやって、他人の心の様子というか形みたいなものを知るのは面白いなと思う。それから、自分の人生とか過去みたいなものを思い浮かべてみて、何か偽物みたいな、嘘くさい感じがまあまあして来ていた。それか、病気なのか、自分が信じている部分と、表にある部分があれど、皆が言う事と未だその部分が重ならないような気はして来ていて、嘘くさい感じはしてきていた。こういう生き方をしていて、プライバシーのことを考えるのは大半を占めていたりするけど、もしかすると別に今のように見たくないものをわざわざ見ながら,文句を言いながら,しなくても良いことを必要だとしやっていかなくても生きていけるんじゃないかと思った。例えばこうやって,写真や思ったこと,考えなんかを見られたり盗られたりすることをわあわあ騒いだりもしてるが、猫なんかみたいにその瞬間感じた事だけがあると信じ込んで生きていけば良いんじゃないかみたいな感じにたまになり、二十四時間をそれで埋め尽くせば良いんだと思う。そんな風に考えれば、ずっと昔はプライバシーなんてなかったのかも知れない。この間読んだ雑誌にも書いてあったが,仮想通貨や電脳世界が今はある世界にいて,その中で自分が主に何をやってて周りの人が何をしてるのかを考えたりしていた。わたしも趣味のことや,ファッションなんかを見ていて,真似をしたりする。それで、皆に見せたり教えたりしたくなるのかも知れず,それ自体,言葉の発祥と同じように,同じものとしてあるはずだった概念を、別の人の別の側面から作り出し,それを交換しようとする…それが通貨とか言葉の交換の働きみたいに思えた。自分はそれが発見だと思った。皆が同じだと信じ込んでいる、というか、そういう定義をしたあとで皆やっと、わあわあと関係のない争いをやめてイチから話し合いや思想を交換するようになる、そんなふうに無理のある定義が、こころの形を無理しているのがいまで、それは画一的に悪だとは言えないが,人ってやっぱりおかしな生きものではあるなと思った。自分も猫を見ていて,こんなふうに黙って暮らすだけで良いような気もしたけど、やっぱり仕事の合間や息抜きとして色んなものを見たり,情報を得て,自分の考えをもっと突き詰めたいときなんかは、そういうネットに触れてみたりする。けどそこはやっぱり定義されながらも定義されたがらない人が無茶をしていたりして,自分もその事に気づかないで入り込んでたりしている。

思春期的病のこと

自分が関わってる人とか期待してる相手のことを皆が見ていて,自分がそんなに不安に感じてるように見えてるのかと思った。ゲームや、未来に対する希望を込めているというより、いまも自分は病気にさせられているんだからという考えが強固にあるみたいで,だからそれを治してくれる相手,もしくは実現してくれる相手なんだと何処かで思ってはいると思う。だからその役割に対して向こうからどう感じているのかは知らないが,わたしは「医者」として相手がどれだけの能力を持っているのかをずっと見ている。自分は病気ではなくて思い込んでるだけなんじゃないかとか,あまり周りからの圧力がない時は,その辺も思い出せなくなっていたりする。けどわたしも、医者を査定したりする。わたしが怒り狂ってるときにうんざりし,誰も何もやって来てはいないのに、ただ悪意のない相手に怒っているわたしが全て悪いから、それ以上しゃべると,もっともっと悪いことが起こって,それだけで自分を損なうというのがこれまでの教育で、中盤は,それをめちゃくちゃなピンク色に染めながら、じゃあ、また金曜日に、とか言うのがお決まりだった。わたしは相手がいつまでいるつもりなのかも見ているし、嘘をつくならそれが何のためなのかも見ているし、そもそも,なぜこのこと自体を肯定も否定もしないで突っ立っていられるのか,その事についてわたしが怒りをぶつけたらどんなリアクションをするのか、全部見て,相手が未だそこにいても良いのかを検査している。すべて病気と,その裏にある家族がもしなければ,そのすべてを明日にでも忘れ去って,自由に生きてるのかもしれないが、わたしはやっぱりそこをたどって生きていかなきゃならない。わたし達は対等ではなく、年老いた動物と、しろうとのような医者がそこで対峙していて,その限られた空間にどれだけの興味が保たれてるのか、それが結局自分が生きてるときの空間でしかないんじゃないかと思う。

界隈と自分

劣等感について色々感じるが,いちばんは、自分のしてることに何の意味があるのかという事だと思う。

服を決めてそれを着て外に出て,また考えて、そういうのはどこまで失敗か,よく出来たのかも分かりやすいし,選ぶのも全部自分だから面白い。けどそもそも、自分がつくるものは自分と近過ぎるのと、結局自分をあまりわかっていないと感じる。数年後いまの自分を見れば,たくさん分かることがあるのかもしれないが,わたしはわからない。わかってないことにも驚いたし、他人事みたいに何か皆が皆素直に歌を歌っているのを見ていた。

自分はただの事象なんだと思う。誰が喜ぶのか、得をしたり損をしたりするのか知らないが,そのことを知った後で、あんなに全く知らないような人間が、意地悪をしながらもでも、興味はあるんだよみたいな無理ある訳の分からない態度を山ほどして来てくれていた理由はそれかと思った。「山」だったんだと思い,そこにほんとうの自分はいるのか…と聞かれて,別にないような気はした。これが、自分がそもそもばかばかしいと思う理由だった。そこに気持ちも入らないし,そもそも何かを得たり興味があったりするのではないのに、人だけは大勢こっちを見ていて,痴態を散々に披露してえばって行っている。自分が何かを作るのに夢中になっていた頃あったように、正直,相手が誰であろうとそんなの知らないっていうか、作れさえすれば良いと思っていて、ゴチャゴチャ言ってくんなとさえ思ってたと思う。そういうとき、中にいる人なんて気にしてはいないし,そういうとこの先に自分はいつもいて、だから平気で無視もできるし、二枚舌みたいなことを言いながらテレビでは、ブリッコみたいな服を着て出ていっても自己の矛盾と酷さにたいしては精神が崩壊しないでいられるんだなあと思う。けど、自分もそうだったからわかることで、だから創作は結局、もちろん非情な気持ちから行われてることは沢山あるんだろうし、いまさらそこに感情移入するとはいったいどういうことかを考えたりする。

ここ最近はそういう、これまでにあって来た実際の関係者のクールをよそおうというばかばかしい態度を思い出しては,そんなふうに考えていた。自分こそが史上で、そこに知らん動物がのっかっているみたいな。けどわたしも、知らない人のことなんてどうでも良いとずっと思って生きていた。とにかくつくるとは、そもそも大半はそういうものだと思う。そうでないならただ全員馬鹿みたいに涙だけそこで流している筈。ひとさじの自分勝手で作り出して,その後は嘘をこきたおし自分の身を守っていく。だから界隈には当然クズが多い。






詩①許さないはキモチイイ」

よってたかってああだこうだ

いろんなことを吹き込んでは

うそばっかりついた

まだなんもわかってない相手にあれこれ

ふきこんでどうリアクションをするのか

コソコソ見てて

うしろで吐き出したりしてたのしんでた

それがおとなとこどもの違い

それが大人と子どもの違い

いま、大人になって用意されたものを見るに

わたしはこう思っていた

「だ  ま   さ   れ   て  た」

「だ   ま   さ   れ   て   た」

わたしは許すか許さないかを考える。

わかんないようにされてたがきんちょとはちがって、

大人にはその権利があるから

年老いたババアとクソジジイを見て

よぼよぼのうたをみる。

なんで

わたしのこと、

だましたの?

って、

し   ぬ   ま  で

その理由をきいてまわるんたょ。







詩②

こころってたしかに天気予報図みたい

晴れている時は幾らでも優しく出来るのに

土砂降りのときは晴れ間を探して彷徨ってる

分断に分断を重ねた地図帳の上、

それを治してくれた人が…いまはどこへ?

分断に分断を重ねたわたしの地図帳の上、

そこがまだ雨だらけで何も見えない

何も見えない なにもみえない

何も見えない なにもみえない

晴れている間はいくらでも適当なこと言えるのに

土砂降りになるといくらでも、あのときのわたしとして掘り下がっていく

もっともっと深いところへ

もっともっとほんとうに一人の場所へ

わたしはかなしみにはふれない

それはたった一人では触れてはいけない琴線だから

それを治してくれた人…いまはどこへ?

彼は、分断に分断を重ねた人たちと仲良くして、

いまもわたしの悪口を言ってたのしんでいる。

わたしはいまも土砂降りの中にいる

だから何も見えない なにもみえない

なにも見えない 何も見えない