To be continued

単純な日記です。

色々と考えてはいたけど唐突に、それは「僕」が全てを決めるのでいいのじゃないかと思えて来ていて、自分がそう主張してこなかったのはどうしてかなと思った。すべてきめて、指図して、こうあるべきって言うのが結局おさまりがいいんじゃないか…て。会社の方は依然として値下げ交渉をするために僕の背中を昨日から、ぐいぐいと押してきていたのだけど思うに、この人たちははじめから全く関係なかったのじゃないかと思えていたんですよね。これをやってきたのは◯くん、それから◯くん、◯くん、それから海外の◯◯◯さんたちで、それがなければ存在しなかったと言ってもいいけど、その成れの果てで「こういうかたち」になぜかしらなってしまった今の件のなかにいて、この人たちが何か自分たちが困った時に何かをしてくれたかと自分に問いかけてみて、それは特になかったじゃんと思った。今ある世界は健全に見えているかもしれないがたったひと月前まで家の中に知らない男が押し入って大便をしていくみたいなのがごく当たり前としてあって、そういうときそれに「何してるの?」て声をかけられる勇気を持つのも自分の身の回りにごく僅かしかいなかった。「大丈夫?」さえもなかった。それが99%の当たり前としてあったのがひと月前で今になって、ふつうだった、よね?みたいな顔をしてこられることに自分は我慢がならないのであって、自分のことを支援してくれるひとら、この人たちも浮き沈みはしているけどごく、当たり前について来る人よりもその、わずかな人がいなければ存在しなかったという世界において、未だにその内輪での喧嘩とかこきおろしをやってくるみたいのは当然で萎えてるし、だからかはわからないが自分は何度も、何か駄目になりかけると直ぐに「だったら、何もかもどうでも良い」と思えてきていました。自分は根本的な愛着、信頼感がすっぽ抜けていると思った。悪い現実の中に良い思い出をつくってきたのは自分や、自分と関わった人らだけだった。自分が数ターンかとばして(だったら何もやらなくていい)に転じたくなるのもこれまでやって来たとき、自分が死にたかったときに誰も何もしてくれなかったのにいまになってYouTubeでもみているかのように好き勝手なことを言ってくることに対する疑問から出て来てるのだと思う。

で、だからこれこそが「やっていくしかない」案件なのかなと感じていました!

自分らの特徴として若くて、何も体験してきてないっていうところです。だから、これまでのことを気にせずに、というか、良いとこだけを学んでそこにいるってことも多分できるんだと思います。それも、それを許してくれている良い大人がまだ一定数残っているからで、その人たちがますコミュニケーションから配布されて来る感覚だけでなくきちんと自分の体で足場を築いて来た論理こそがいま、役に立つんじゃないかってことに気がついてくれればわたしはよいなと思ってました。自分のつくってきたのもそういうやつです。でも自分はやっぱりこれは、何も知らない世代として存在していて、あれこれ口出ししてくる親がいて、ていうとこにいても、若い自分たちはつねに「やっていくしかない」とこにいるんだなあって思わされた。やっていって、こっちの方が良いんだなって思えるようになるしかない。

で、それでそれを若い世代が見て「そういうことか。」って良い事を感じてくれればそれが役割をちゃんとこなしてるってことになるんじゃないかと思う。

 

 

 

◯差別でなくて無理解について

※これは、誰でもやりうる事なのでっていう意味です※

無理解ていうのは相手のことを見ないっていう

鉄の扉をこちら側から閉める事だと思った

そのかたくて冷たい扉は誰でも持っていて、相手が悪人でもなかった

わたしは、とくに傷ついたとも発せられないと思った。

なんでかというと相手は何もしていないから。

「理解しない」と思ってるだけだから。その

当然の中で自分のあたりまえが、ごくあたりまえに死なされるつめたさで、人はほんとうは冷たいんだと思った

戦争や虐待とはちがうけど、それみたいに

こんな冷たいことを人が、

さっきまで笑ってて、いい事をしようとして来る人が普通の素振りでできてしまった

それが人間だった前の世代だった

これまで何人もの人がこの、無理解に真実を訴えてこないのがなぜなのかわかった。

冷たいのはこわいと誰しも思う