To be continued

単純な日記です。

わたしに向かって良い子だね、と吐いていき、未だにこれからもここには居るつもりみたいだった。わたしは、あなたよりも10歳も年上なのに?と思い,それがあなたが体裁を保つときにする態度なんだなと思う。大人が子どもから言われたくないことを言われたときにする仕草そっくり。だったら傷ついたって言えば良いのに。それがあなたがわたしのためにする事なのにと思うが、そんなふうに、不本意にも飼われてしまってはいるが,わたしも、これからは新しい生活がはじまるのだと何か期待して居た部分があると思う。けど、続いて居たのはこれまでと同じようなことの繰り返しで、それに小さなお盆に対してもっともっと山盛りに料理をよそうみたいなことだった。

自分はそんな言葉でコントロールされるようなつもりはさらさらなく,これまでの親同様に男は皆,相手がもっと複雑怪奇な心理を持っていることに気づいていないと思う。なぜって、それは選べるところに自分がいると思っているから。親,兄妹、他人,そういう本気で誰かを愛して煩わされたことがないから。知る必要が無いから。それは、動物だから。

わたしは最近自分らしい格好を厭わなくなってきたのも、客観的に見れば抑圧されてきたところからの解放にあたると思う。これまで、それは毎日言及をされてるわけじゃないが、何をして居なくても容姿や性別対する嫌がらせは当たり前としてあり、周りの女性や男性とずっと並べて比べられてきた。それがずっと当たり前になった。わたしはとにかく,手段もなければ思想や関係なんかに関して物凄く貧乏だったのである。いまはわたしから自由を選べるようになり,それで男達が、誰かの苦しみを見て、自分は永久的に食べ物を与えられるところにいてすくすく育ち自我を大きくさせていった反対側にいて、わたしの方がいまやっと育ってきたんだと思った。そんなふうに、バランスが全くおかしかった男と女としていたあとで、男と女のバランスが取れるようになり,世界はどんなふうに見えるようになるんだろうと思った。わたしの方から男の態度を無視して、衣服や娯楽なんかで抑圧から解放されるようになり、女からも今でも何かを言われたり,些細な欠点をあげられることもあるけど,何を言っているんだという感じ。わたしがわたしとしていれば良いと思っているとき、そうやって降り注がれる言葉は,親しい人間を装った負け惜しみにしか聞こえないと思う。わたしたちは親しくも無いんだから,見られる筋合いも無いし意見される筋合いも無いと思う。自分だって比べたら,猿みたいな顔をしてる癖にと思う。

何かを書くことに対して,義務も必要性も感じていない。けど相手に親しみを感じていれば、少ない材料で、楽しんでもらおうと思ってやる事もある。でもそれは強制される事じゃなく,かけと言われるから,ほら、こんなふうに本音をたくさん入り交ぜて書いてやっている。わたしは全然納得なんかしていないって事だ。

相手のことを見て,自分をわかってくれる事もあった。わたしも伝えるべき事を、年上とか経験者として言いたくなる事がある。皆、プロだから,普通の人よりなんでも出来るんだと思う。読みも書きも,それは当たり前に出来ると思う。けど、そこから相手を感動させることはやっぱり難しい。難しいことを創作家はそれでもやろうと思ってやる。演じる側はそれに乗っかってやる。どちらも難しいことかもしれないが,お互いのくるしみは分からない。分からないんだったら、子どもをあやすように適当な声をかけて来るなとも思う。そこが追い立てられていたら嫌になるところなんだと思う。もっともっと楽しみ以外の苦しみや言い訳なんかを見せて,自分も汚いんだと自覚すれば良い。それがまず一歩で、すべて責任を追ったあとの人間らしさをこちらから自然に愛させてくれればいいのにと思う。


ワーカホリックについて

わたしも以前はワーカホリックだった。どこかにみとめられるために書いていなければならないんだと思っていた。詩…それだけじゃだめで、小説を書かなきゃならない。短歌も、ひとつの形にしなきゃならない。けどそれを,どこかで見せて,認められる先があるからそれはやっている事で,その先々に苦しみしか無かった今はほとんどそれが去勢されている。でもワーカホリックでいる間は、止まっちゃいけないんだと思っていた。止まったら,自分の中からの、もっとやらなきゃ、もっと知って,書いて,良いものを作っていなきゃという声が出てきて,自分の中の負けん気がすごく苦しいと思っていた。だから自由を楽しむことなんてまったくできず,それからそういう精神状態でいれば、時速150メートルで走り続ける車みたいなものだから、おのずとゆっくりだったり、止まってるように見える人に対して「何をやってるの?」とも言いたくなる。色んなことに気づいて色んな意見を持っている間,ぼっとして自己満足をしている人を見るとバカなんじゃないかとも思っていた。

確かにそういう時は成長していたんだと思う。色んな事を書いて,感心してもらって、けどそれが幸せだったかと考えれば、二度と戻りたく無いと思う。生活も破綻していたし。けど今はそうじゃなく,もう病気と暴力、それから加齢、貧乏で何もできないんです。そうだそれでも、人を見て書いてきたんだから、良い人がいれば書ける気がする。けど、他にも色んな事をしていないと、やっぱり自分の体のバランスが保てない。何もかもが足りない,世界に対して何の期待もしなくなったいま、書けと言われている意味がまったくわからないでいる。自分も、他人も苦しめて,誰も感心しない。自分が問題と思っているのは、自分が作ったものをこころから楽しめなくなっていること。何かどこかうわついていて,今そこにあることに,感動し切れてない。書いたものがキラキラしてるように見えない。それは作品の出来不出来というより、心が乗ってない気がする。ここじゃ無いと思ってるのかもしれない。なぜか、考えるが、不本意というのが根っこにずっとあり、それはわざわざ皆で会わなきゃならない場で目を覚まされることもあるし、わたしがこんなに年上で,本当は教えたりする立場なのにこんな事をやって助けてもらってるように感じるというとこなのかもしれない。

もし自分のことを客観的に見れば,わたし自身はこんな集まりの中でからかわれるような場所にいるんでなく、専門的な知識を持ってる年配の人と沢山関わり,色んな事を学んだり,教えてもらったり,認めてもらったりするべきだと思う。自分と同じくらいの人と切磋琢磨したり、それがきっと幸せなんだと思うが,結局、権力から閉じ込められて、へんな男からずっと揶揄われてるのという不自然なとこにいる。だから溜まっていくのはひとはちがえどずっと同じような感情論ばかり。ずっと同じような事を繰り返してされているんだから当然と言えば当然だ。

おわり