To be continued

単純な日記です。

かなり偏った日本人感のこと

おはようございます。こちらは、思い付いたことをそのまんまでまとめておくと言う趣旨で書いているものです。

ふと、感じたのが日本企業の根底にあるもの」でした。それは、あるいみで奴隷としてそこに従属する…自己犠牲を持ってるのが美とされているとこだと感じました。例えば過労死っていうのが日本語でしか存在しないっていいますが、それひとつだけでなくてあらゆる場面で◯◯に対する忠誠、我慢を強いるのが当然で、それをやっているがための仲間意識がある、みたいな風土がありますよね。自己犠牲は気持ちいいとこもありますし、たとえばそれがふつうの人間関係だったら「もう休んでも良いよ。ありがとう」ってなるとこが、ならなくても死ぬまで持続できるみたいなのが日本人の強みなのかなとも思います。実際は上の人だけ楽してるみたいなことも多いですが、古き体育会系を非難するってよりこれが根本的にあたりまえに文化や日常にも、さまざまなかたちであらわれてあったのがいままでだったのかなと思いました。なので結局これがないところっていうと自分で会社を立てた人とかフリーで働いていてそういう意味のない部分への我慢に疑問を感じてる人のとこだったりします。なにがちがうっていうと、男性の種類が違いますよね。ふつうに女性に対してジョークが言える人、それに対して企業体質だとオッサンがセクハラと親父ギャグをコミュニケーションだと感じてやり続けてくる&それがエエ関係だと一方だけ感じてるって感じなんですよね。この違いには実際びっくりします。で、こういった新しい体制のとこに対してももはや体感の時点での疑問やこきおろしみたいなのもたまに出てくるという印象で、それは単純に変わることへの不安からくる文句というか、特に経験もないとこへ発されてくる文句みたいに、知覚されない時点であるなって思います。なので組織に疑問を感じている人、もの、場所…こういうのを疑問視し奴隷、やってくれなくてもいいよって場はそこ以外ではありませんでした。いや、ないとこもあったんじゃ無い?と思うかもしれないですが、いいえです。どこででもそれはありました。空気を読む、女は男の機嫌をとる、上の人がおいしいもんを食べててもむしろ「見えない」…なんで見えねーんだと思うかもしれませんがわたしにも見えてませんでした。これらは、とってもちっちゃい声ですが出来ない限り悪口とかスポイルとして現れてきますよね。まあそれは、ある意味アジア圏ではどこででもあるのかもしれないですが…あと苦しいものになってくると例えば年功序列で、上の人の番が終わるのを特に意味もなく待ってたり、行事みたいなので上の人の話をいつもみたいに聞き終わるのを待ってたり。何、これ?みたいなのは沢山あって、それはだいたい上の人が好きだからやってるみまいな部分であります。男性に対する我慢とかも同じですよね。あちこちにある女性蔑視だったり、単におっさんが気持ち良くなるだけの宴会、ギャグとかもここにずっぽりはまっててもはや疑問も感じないがゆえに垂れ流されてくる精神論の成れの果てだったなと思います。わたしはそれに組みしない女性の方が多いってこと、今は知ってますがそれになんの疑問も感じないで入ってきて担ってた女性も多くいたじゃんとは感じてました。多くはそれしかない、正しいからやってるというより、それでいいとこにいた、自分は苦しい思いをしてこなかったからこそ無自覚だったんだなと思います。結局、仕事の良し悪しでなくてそういう川の流れは入るのがウマいタイプのワニみたいのがいたらそれが採用され、オッサンとかからも好かれてすかれてどうしようもないみたいのが文化でした。根底に平等では無く奴隷として従属して、特に意味もなく忠誠を誓う。それは上に立ってるもの&先にあるものに後から来たものが従う…これが裏を返せば効率っていうことなのかもしれないですね。例えば幕府みたいなのも上の人への忠誠を誓うみたいなのがありつつそれがエネルギーの流動においていちばん力を発揮できる部分として、民族性としてあり、裏表の表現力で裏では超ビンボーでさつまいものヒゲしか食べることができなかったとしても、「イイトコ」そこだけばばばっと進ませるみたいなことに疑問など感じずに一致団結できるというのが日本人の強みだったのかもしれません。はっきり言ってこれは、ここまでで証明されていると思います。日本人には裏表があります。だから、心は泣いてても表では笑ってて、それがやさしさなんだと思います。だから鬱なんだと思います。わたしは根本的に日本人の精神構造が武士なんだと思ってるんですが、それが企業の上下関係みたいのにすっぽり当て嵌められてそれを悪用されると、途端に悪い方向へ進んでいってしまうところがあるのかなあと思いました。だからこそこれまでのように甲に何かを強制して、はやく何かをしろっていう山内さんみたいなやり方自体も容認されてきたし、それにおいていじめられ続ける人を見てもある意味で当然で、それ以外見てる人らの疑問も我慢して当然、黙ってて当然と感じるのも同じ精神構造で「皆我慢してる部分はあるんだからそれはあたりまえ」でそれがむしろ鬱屈を発散させるための爆発要件としてもあったんだなと感じました。むしろ、言うと怒り出すみたいなのも同じ。わたしはその「そんなこといったらダメだよ」自体、無意識でやっているからわけを問うと答えられない部分にあると思ってましたが多分これは、別世界に行ったら1秒くらいで違うマインドに切り替わってくれる人たちなんだろうなと感じてます。切り替わりましたよね。はい。ほんとにだから、日本人は「自他ともに全員、奴隷になるのが好き」な構造にあるんだなって。

わたしは海外で仕事をするにあたってかんじつづけたこのすかすか感」は一体なんなのだと思うに、がんじがらめになっていた「〜なきゃならない」&勝手に必ず入る強制力にはまってたころ、それは自分の意思に関わらず下方であってもとりあえずの安定は感じていたっていうことでした。儀式や年功序列、死ぬほどある無駄な部分は「安定」のために存在するものだったのである。ただ、客観的に見て今の方が良いです。それでもってそれに対して疑問を感じつつ一時代を築いたという日本人の文化に対してもわたしは共感を感じていて、少しホームシックみたいになって来てます。思えば、自分は「疑問」「違和感」みたいなものをネタにしてやってきたのかもしれないな…みたいな。

でもわたしがこういう事に疑問を感じ続けてきたのも良い人格があるとかでなくある意味で拒食症で言葉があまりうまく使えてないとか意思、感情がないとき疑問を払拭させないと何もできないっていう部分にあったんだと思いますし、だから全て表裏一体で「だからよい」「だから悪い」「あたしはそこだけ欲しい」みたいなものないんだろうなとは思います。

長くなりましたが、本当に普通にサポートしていただけることに驚いてしまいました。

 

◯安定について

 

ふと、思い出しましたが人間の悪いところが現れてくるのって保守」に入った時からだなと思います。自分は曲がりなりにも良し悪しにかかわらず、とりあえず作り続けるのが仕事としてあるため、だから前作で言ってたことも次の作で壊したりしていかなければ存在として成り立っていかないってとこがありますよね。これが、いったん評価されると人って、それがやりたくなくなるんですね。一度評価されたのに新たに概念をゼロから作って、新人の頃みたいに批評されまくるところへもう二度と戻りたく無いってなります。これは、安定にしがみつき保守にまわった挙げ句、それを守るための理論を山ほど必要としはじめた時期でもあります。こういうのが今だに残っている支配層の精神構造なんだと思います。もうだから、彼ら、表に出てくることすら億劫でしかたないんだと思います。だから今まであるものを山ほど使って、同じ要件で同じことを繰り返してて、自分自身を守りつつ結局芸術家としてのアイデンティティをみずからで壊して行っているんだなとおもい、だからいま悪いことが起こるとすぐに「ーーがやったんだな」と見做されたりするまでになって来ましたけど、本当にそれが望む未来だったのかなとは思います。ムスカさんは「足元を見ていない」ことの代名詞としてこれからも存在しつづけそうです。わたしもいまも毎日苦しい苦しいしかないですが、数年前みたいに本気でビョーキのワーカホリックみたいな感じではなくなってきました。触れられただけでキレるみたいな。いまも調子は悪いですが。ヘタなりにも保守にだけは回らないように気をつけていっぱい休みながら頑張りたいです。ー終わりー