To be continued

単純な日記です。

創作日記②猿を飼う

◯月●日
とりあえず今日は、まったく何もしていない。わたしは、机に向かってあれやこれやと掃除してみたり、はみ出て来た書類群をいるいらないとに分けてから新たな紙の束を作り出していた。そうして、わたしは机に向かって座り,膝をつき,ペンを持ち、考え事をしてみるが,とにかく,何もしてない日ほど「案」みたいなはまったく出てこないのである。あらゆる、空想ごと、それから誰の世界に通じるかのような詩を書く以前に,自分やネットニュースを毎日騒がせている,日常を取り巻いているものごとについてわたしは考えてみようかと思った。すなわちそれは、年老いた猿について考えるということで、わたしがそれについて読んだ時,それは実験的な行いで、何もかもが初めてで前例のない事で、トラブルの宝庫みたいに思えた。年老いた猿を取り囲んでいるものごと、それは何かを飼うという空想みたいな出来事だった。

わたしは、まず数字の面から考えてみることにした。記事を読むー年老いた猿に与えられるもの、それは一日バナナ6本と、キャベツひとつ、人参一本。それを書いてから、あとは遊び相手だろうなと思った。とりあえず文鳥が一匹。そうして猿を飼うのだが、その猿についてのスペックも書いてみる。猿は、A等B等から数えてみた群のなかで、C等に属する。Aくらいの猿は、動物園やアニマルセンターなどでショーをするか、金持ちの人間のプライベートな庭で飼われると決まっているため、その猿は実験的に優秀な成績を収めるために連れてこられたのではなく、ごくふつうのさるとして、さるの社会性と知能と感情を計測し蓄積する目的で来させられただけだったのである。

猿の感想→

猿ははじめ、すこしの戸惑いを見せる。それから、とくに餌やりの時に抵抗していたが、入れ替わり立ち替わりで人が着ていた前センターと比べて皆が同じ服を着ているこの場所に慣れてきたもよう。

猿はちょっとナーバスになってくる。そうしてごくふつうのさるが持つような社会性を発揮してみせ、コミュニケーションを取るが,それがまったく蓄積されない類のものということに気がつく。つまり、データを取るだけのものごとに、安全,安心以上のしたしみは必要がないからだった。チンパンジーもオランウータンも動物園のなかでしているようなことをさせてもらえず、猿は,物事がすべて墜落していくのをそこでまいにち毎日眺めるだけになった。年老いた社会性は、そうしてなぜ、どうして此処に自分がいるのかを考え始める。なぜ…?いまのとこ、それに対する答えはないのだった。これは、研究者Aが言っていた事だが、はっきりいってそれは、だれかが「やろう」と言い出して,唐突に川をダムと呼び始めるみたいな物事だったのである。そんなふうに、はじめから答えなどないものごとに猿および人がひたるとき、それは空想の部類に属してくる、、、わたしはそこまで読み終えて,それを書いてみる。それは一年前。それから二年前のいつもの自分にすっぽりと当てはまった。わたしはあのとき身の回りで起こる不吉な物事,それから幸福な物事をすべて、自分自身のすべてと結びつけてそれに対する因果関係をびっちりと作り出していたのだった。がんじがらめの中,あらゆる物事は墜落し,わたしは明日生きている以外のことは望んではいけないんだと強固に思い込んでいた。そうしてこまかくは、それは、神様がこう言ったから、だったり、あるいは、身の施し方が悪かった(よかった)から、ナドナド。わたしは頭を抱え込み,それもすべて,トラックが乗用車に激突するようなショックを目の当たりにみた後で,わたしはなぜか、それみたことかと言わんばかりに全てを、数日で脱ぎ捨ててしまおうとした。

そこにあるのは、からっぽの部屋。誰かからそれを指摘されても、わたしは一年間返事もしてやりたくなかった。

…猿はそのうち、限られた真っ白い部屋に入れ込まれながら,空想に浸るようになったという。わたしはその記事を読み,アンダーラインをひいて哀しくなってしまった。その部屋についてネットで調べて見たが,病院のような白い壁の建物の中に,なんと、プラスチックで出来た人工草の床,それから生活音としてのBGMが流れているようである。そこで猿はまいにち、みなが同じ服を着たセンターの飼育員にバナナときゃべつ、にんじんをもらう。そうしてそこに来てから⑤年もの間で猿はありあまる社会性と本能を拗らせたせいで、新形態の病気になったのである。精神病」とわたしは括り、猿がやった事を書き入れていく。猿は,きゃべつみたいな野菜を食べている間,そこには無いはずの山…それから海…森…そう言ったものがそこいらじゅうにあるものだと思い,それを脳内で事細かにつくってはおもちゃや残飯でかたちづくり、時に職員がすぐにそれだと分かるようないでたちで周りに説明し始める。

職員は感心するが、もちろん皆そこにそんなものが存在しないことは知っている。

一体どうやって意思疎通をするんだろう?

その時,わたしの家に電話がかかってきた。

「もしもし?」

「今,何してたの?」

ーなにって?そのときわたしは,ほぼ猿になり切って、森とか海とか山みたいのをどう配置するか考えていたのだった。それから、自分のなかにあるのが、他人とはちがう、たったひとりだけの猿の哀しみの事だった。

「音楽を聴いてたんだよ」

わたしは言い,部屋のスピーカーのスイッチを付ける。

スピーカーから前奏がながれはじめ、わたしは猿の姿のままでそれを聴くが、わたしの好きなC O C Oのアルバムの曲で,それを聴いてるだけで他人の脳内に来られてる感じがいつも好きだと思っていた。

「そうなんだ。外に出ない?」

「外に?」

「うん」

「いったいどうやって?」

「さあ。それは任せるよ」

「うん」

わたしは、なんだっていいさと思い,なんだって頼めば、やってくれるんじゃないかと思う。

「どっか、行きたい」

「うん、いいよ」

彼は言い、彼がそれにかかるであろう時間を計算しているあいだ、わたしはそれに必要な車、調べる物事、着ていく服などを想像しながら、カヌー上に立つわたしの顔にむかって流れてくる風みたいのを想像してみる。

「ねえ、わたし、出かけるの好き」

「うん」

「じゃあ,バイバイ」

「うん。バイバイ」

またね,と言いわたしは電話を切り,ふたたび音楽を聴く。それからわたしは、だれかに聞いてみようとする。猿が(ひとが)もっと幸福に生きるためには一体どうすればいいんだと思う?

そうすると彼はこう言う。それは、もっと人らしく生きれば良いんじゃないかな。

ひと(猿)らしく?いったいそれは、どういうこと?コンクリート塀の中で?仲間もすべてフィクションとわかっていて?人工の芝生の上で?彼は,お祈りも知らないままなのに?

わたしは膝をつき、考えている。それは、若い猿と年老いた猿では哀しみの度合いが違ってくるだろうと思った。

部屋に流れる音楽を聞き,わたしは音量をあげるが、C O C Oのよさは、あらゆるものの中でそれが生きている感じがするからだと思う。数あるシンガーの中で一体どれだけの人が無意識で、俗に汚される前にそれだけの魔法を見せる事が出来るのだろう。わたしは自分がいちばん好きな曲を聴いてみるが、何度聴いても、それが自分よりももっと深みがあるんだと言っているような気がしていた。

音楽とか、それは新たなけしきをここへ持ってくるし、わたしは今日もここにいて、いろんなところへ行き,話し、それから自分の目や耳で世界を感じ取る事が出来るとおもうのだが,それが果たして自分が選択している事なのか,それともセンターの中にいる猿の想像の域を出ていないのか,わたしは明日やって来るだろう束の間の自由について考えながらも、ふたたびまったく分からなくなるのだった。