To be continued

単純な日記です。

草むしり※参考記事

草むしりに夢中になる

ここ最近の草むしりブームで、わたしもいっときその中に加えられて草むしりに参加させられていた。けどこの草むしり、ある意味で一つのゲームをやらされているような気もしていて、草をむしる→再びボーボーに生えてくるというえんえんのループに置かれているような気がしてくる瞬間がある。「あれ…意味、なくない?」ふと、わたしは思った。草はむしっても必ず生えてくるじゃないか。じゃあ、むしることに意味、あるの?自分はけっこう自然にむしっている気がしていたけど、草がボーボーになっているのをわざわざ見せてこられるイベントがあるとするならそれに対応する「草むしりイベント」みたいのまで出来てしまっていた…。ここまで来て、思ったけどこの「ルール」…えんえんと、引っ張り合いどちらが強いかを考える仕組みにのっかる事にとくに意味はないと思った。まず、この事に気付いた時点でそこから降りなくてはならない。
もし、自分がどうしてもフォートナイトをしたいのなら参加するでも良いかもしれないけど、こと生活において、文学のような意味のたくさんある事自体が意味を持つものごとにおいて、はっきり言ってこれは、お互いがお互いのことわりのなかで生きていくしかないと思った。
ここで、わたしは考えました!草は草が生えて来たい限り勝手に生えてきます。草が常時である事に対して、どんなふうに落とし所をつければ良いのか?

①生えてても気にしない(見ない)

②都度で少量むしっておく

化学兵器で根絶やしにする

①とりあえず常時でこれが生えてくるので、気にして見ていてもよくありません。
こういうとき、自分のフィールドに生えて来られていると考えるんでなくて草には草のことわりがあって生えて来てるんだなーと観察してみるとよいかもしれませんね。
②毎日やる。その方がお互いに体力が持つ。
③一度、散髪に行くように一気にやっておいた方がルーティンがはかどる。
自分はとくに、楽しんでやっていたわけではないけど対応する」が100%な仕事に対してこんなふうに感じてやると良いのじゃないかなと思いました。どうして草、生えてくるの!と怒ったとしてもそれは天にツバを吐きかける行為に他なりません。ボーボーに生えてくるだけです。

花と草を分けたい

自分はさらに、考えてみた。そもそもなぜ、草をむしるようになったのか…そこに、ひとつの「花と草を仕分けする」考えが横行しているように思えてきました。
ある人は花には名前を付けて愛で、それから草の方には邪険に接し「なければならない」。これは何故そうなったのかを考えて、「草と花の区別が付かない」
「それが苦しい」という状態が続いているんじゃないかなあと思ったんですよね。けど、これは仕分けを進めさせるとともに、「草の花化」「もっと区別が付かないものをつくり出す」という草の異常繁殖をも促してしまいました。何故か…とにかくこれは、ある一定のちょうどいいストレスを与え続けた結果の進化(雑)なのかもしれないとも思います。耐性菌…というやつ。
とりあえず「何故それが自分にとって特別なのか」というか親しみを感じられるようになったのか、と考えるに、それはこちらから「分かりたい」というパワーが働いているからで、それは強制されないことに決まっていると自分は思います。例えば自分が好きな物事が必ずしも剛力彩芽も満ち足りれるとは思わない。特別なものが人から持ってこられたとしてもそれは自分から見ればふつうのことだったりする…これはごくごく当たり前の話だと思うし、だからこそ今のクサの異常繁殖があるような気がしています。
そんなことはない!そんなことはない!
そんなことはない!!!
そういうパワーが働いてしまった。

復讐心を起こさせる行動をやりまくる

話はちょっと飛びますが、自分はこういう、リアクションというか対応として、相手に復讐の余地を与えるようなものは良くないし、それをやってしまったことは誰からも言われなくても失敗だったなとは感じていました。上に立つ人なら経験があると思いますが普通に生きてるだけで復讐心を持ってやっかまれたり恨まれていると言うことはあります。これは目立ってることに対して常に何故か満貫でいると感じられているからで、けど常に苦痛を訴えるわけにもいかない。
これに対して、どう生きていけばいいのか…と考えるに、結局はそういう負の側面を【必ず】【誰しも】持つと感じつつ、常に低エネルギーでガリガリに痩せながら生き続ける。それから常に選択の場に立たされるたびに良いことを、良いことをと選び続けて努力し続けることなのじゃないかな〜と思います!
これを、いつも全世界に対してすることは不可能かも知れない。でも、自分のフィールドのみであってもできる限り良いこと」を選択しておいた方がよいしこれなら、大したことをやれと言われるよりももっとやり易く失敗心も感じにくいのじゃないかなと思うんですよね。

王様になってみる

話は変わりますが、たとえばで自分が最も上に立った立場だと仮定してみました。
何かを決めたり判断を与えなくちゃならない。そういう時、糸井重里氏のようにカリスマ色の帽子をかぶって出てくるのもそれはいいが、それよりも皆のためにと一ターンで考えてみるにそれは皆がヒーロー、皆が主権者であるのが絶対いいだろうなと感じました。そういうとき、罰を重くするなどし反発心を招くような対応をするのは、たとえ相手が100%で悪かったとしても良くない。問題みたいなものもこと続けていくにおいて常時で出て来ますが、それに対して考えたのは「これをもってして相手が死ぬんじゃないならもっと先を考えた方がいい」というシンプルな怯えによるものでした。簡単なことですがまずこれをは見間違えます。相手が黙ることなんてあり得ませんね。
皆が繋がるためには皆が選び、決め、自分で考えたことを自分で勝手にやっている方がよい…でも「リーダー」はいた方がいい…
リーダーは思うに、前には出て来ないでサポートに努めるみたいな人の方が合っているのかもしれない。報酬はそれほどもらえず責任のみあると考えれば、それほどこれはよい仕事ではないかもしれませんよね?


とりま、「ヒト」についての小説をもう書いた

考えみて、この世に特別な人なんて居ない。文学部が完全に間違えているのはそこです。明らかに、失敗はその部分にあって、自分達のやってる事は特別なそとでも教え込むことでもないですよね。それが一過性で、皆が楽しむ時間を過ぎればふつうの物事と変わらない。そういう虚しいことをやってるのがこの人達の立場です。
自分がここにいるのも「たまたま」であって、議論の場に載る時にはもちろん経験から引き出しを開けたりはしますが別に特権とかもいらないですよね。
だから、花や草を仕分けしたり名前を付けてみること自体がこのまま横行するのはそれほど良いことじゃない気がしたんです。あれとこれを分ける、分けたい…でもそんなに人の心は単純じゃないし、正も負も持ち合わせてますよね。今日よければ明日悪くもなるもので、それを「矛盾」と言うのが逆に苦しくなるんじゃないでしょうか?そういうとき「言葉」の持つ不自然や矛盾に気がつくはずです。世の中の文学をするひと、芸術をする人は必ずその壁にあたり、それぞれの答えを持っていると思います。
で、それがもし、分けられるとするならそこに「ひとり」が入り込む事で一人の価値観が都度で色を付けていく現象になる気がしています。教師や両親、それから上司。それはたった一人が背負いこむ事でしょうか??それから、通じ合えなさになるでしょうか??わたしたちはその人自身をその人なりのしょうもなさとして、ある時は受け止めているんじゃないでしょうか。それが価値観の融合で、人が人として不自然な形を持つことをもう、あらかじめわたし達は体幹として知っている筈でした。

まとめ…今、書いてて思ったこと

思うに、このごく当たり前に人がそれぞれ微妙に異なる見方、価値観を持ち続けることに対して変化の兆しがあったとするなら、やっぱりSNSにおいて「良いね」が登場した事によるのかもしれませんね。例えば、そんなふうに報酬系統のシナプスを刺激され続けて麻痺した価値観でもってひとをさばく…明らかにこれは行き過ぎです。単純に「わたしはそれが好き」と思い続けるだけでいいものを、皆にも結局おなじようにイイネをもらってないと苦しくなって来る。
ほんと、ヘンですよね。でもこの「変さ」に気付きつつ使いこなさなければならない時期なのかなーとも思います。頭のいい人、台湾のように開発、ツール系統からやっていけば変化もしてゆきそうですよね。
自分はSNSはもう使ってないですが、こういうのがここに書いてあるアレな現象なのねというふうに名がつくような特効薬はこれからも必要かもしれませんね。ハイ。




※ちなみに「草むしり」は朴訥に生きる事に対応するためのイデアです。