To be continued

単純な日記です。

創作日記①ベルトコンベア

いつもは、片付けの仕事、それから冷凍食品のベルトコンベアの中間くらいに居座る。色々な道具を持ってきて,それで窓や床を拭いて,片付けをする。たまに時計も見たりする。いろんなものが片付いて行くのは気持ちが良い。仕事は、それが終わったら帰る。真っ暗な部屋から出て,外じゃ起こらないような事があそこじゃ吹き溜まりみたいにして湧いたかと思うとまた静まって行く。でもそれはそれで補完されたことだと思う。ベルトコンベアーが流れるのを見ながら,その中に居座って自分の知っている事だけをする。そういうとき、作業はうわのそらで自分はいつも真四角の立方体のことばかり考えている。それが、外から来る時に見えているこの建物の外観だからで,自分はそこにわざわざ運ばれて来て、当たり前みたいにその場所にいるが、その中にはあり得ないほどの食べ物の量と、ありえないほどの人間が詰まっいて作業をするが、自分は、夕方になるにつれて滞る。でも帰って外に出てみるとそこはいつもどおり、補完されるまえの世界の姿があって,自分もマスクを取って息を吸う。そこに行けば何かを調理するということに何となくで自分は手を付けているが、そういう行為は,食べてしまって無くなるまでが目的で、それを片付けまでするのがひとつの作業としてあるんだとある時に思った。それに気づいたのは旅行に行った時にそういう場所があると知ったせいだった。だからそれを、自分がおわりには永遠に行けないということをそのときになんとなく知った。お葬式に出て,わたしは最後まで、そのセレモニーが取り払われるまでをずっと見ていたが、その時にやっとわたしはちゃんとしたと思った。波が寄せてきた後で帰って行き,そこには何かが積まれて行ったり、あるものがなくなったりする。そうしてこの建物の中にいるとすべてはゴミ,ゴミ,それとも生きる、生きる,そうでしかなく、それも遡ってみれば誰が決めた事なのじゃないかと思った。もしもいま、だれかが急ブレーキをふんでそうじゃなくなればわたしも家に帰るが,食物もちゃんと家に帰り,それから更地になったせいであとの物事は他のサイクルに巻き込まれて苔むしていく。わたしはそこに毎日,水をあげに来る。皆がこの工場の鉄屑をどんなふうに処理するのかを考えだし、それは慈善団体が家庭の傍らで合理的に処理する事になるのである…

わたしはそこにまた今日も入る。その仕組みのなかに,、、そうなるとわたし自身もこのポンコツなサイクルの一部になってしまったような気がし,かつてペンを取って何かを書いていたこと、調理器具を持って料理を作ってきたことを思い出し,無性に腹が立って来、それは突発的な気分でしかなかっあが、上司に尋ねるとそれはそんなことはないという。それらには大層な社訓もあるし、きちんとした法規にのっとって、利益だってあげていると言い,わたしの手の中にまったく目には見えないカネを入れてくれる。わたしも頭を打ちつけたみたいな気分になり、それなりに納得した後でまた日々に戻るが,あるひそれは待っていたように転覆してしまう。わたしは生理で、家族ともごたごたがあった後で上司の住んでいる部屋のドアをがたがたと言わせて,大声で言いたくなってくる。それだって、全部,人間の本能が決めたことでしょう!法律や国家や、食べ物の根っこが生えてくることや、あなたはいったいどれだけの人を騙し続けてるの?…自分でも何でそう思ったのかわからないが、わたしはそうしてるうち、隣の人からぽん、と肩を叩かれる。そうしてきみも、誰かにお経をあげてもらった方がいいんじゃないと言われてしまう。

それで,わたしも帰ることにした。がたんごとんー揺られながら,考えてみればわたしも彼も悪いわけじゃないのだ。けどそんな風になるくらいまで自分の行為が歪められていること,それに自分の根っこの部分までに思いを馳せてしまい、わたしもあらゆる、子作りだったり恋愛だったり,営業だったりの仕事を考えてみて、自分だってそれを選べるはずなのに,何故そんなことさえ分からなくなってしまうんだろうと思った。

わたしは帰り道で自分に子どもがいるときの人生について考えてみた。それはきっと、飲み会に顔を出す友人が話す内容のように、ある日突然ーまるで事故みたいに起こる恋愛のようにやってきては、わたしの身の回りを埋め尽くしてしまう。それからそうなるうち、わたし自身知らぬ間に人に言うことや,やる事もまるきり変わってしまい、何かを余計に買ったり用事をことわり帰ってくるようなのが幸福のかたちになる。もちろん、あらゆる不幸の形も用意されていて、それが人生の根本に絡み合い、わたしは数年,こんな筈じゃ無かったと一人で思い悩むことになる…。それからトイレの水を流す。わたしは家の中にあった,枯れきってしまった観葉植物の鉢を触ってみる。土をその鉢植えからはずすと、そこには乾燥しきった土と絡まりまくった根っこが出てきた。わたしは、ひろげた新聞紙の上でそれを眺め,さわるにつけ、あまりにかさかさしているのでそれは,もはや医者が来たとしてもどうにもならないだろうと思い、諦めてそれを処理することにした。わたしはそれで、数分間自分のことを責めていた。わたしはパキラをそだてる資格もなければ、あるいは鯱のように行動学が必要な動物を育てる資格もないし、それなのにまた植物園に出かけたり、美術館へ通うことをよしとしている。

それからいつものように,書きかけのノートを取り出して自分のことを書いてみる。

ーすべての行為には終わりがある

わたしはペンをすべらせ、考えてみる。すべての行為には終わりがあり、それを文学では昇華と言う。

わたしの昇華された行為ーそれは5、6件くらい。それでわたしもついでに、それらに居座る数人の人らを思い出すが,どうしてあれやこれやとお立ち台に乗っかってそれを昇華されているはずの人たちが、根本に回帰することもなく、単にあれだけ偉そうになっていくんだろうと思う。

擬似メンヘラ、とわたしは書き、それは良いが、とりあえず色々と考えあぐねていた。それは、詩でも良いかもしれない。それから、俳句でも良いのかも知れない。けどそれをやっていた人たちが皆,幸福そうだったかと思えば,そうでもなかったと思った。わたしを取り巻いていた人たちの顔、それからそれらの評価、うるさいくらいの人の声。そういうものを振り切ってまでやるべき事なんて、本当にあるんだろうか。

わたしはわたしの行為を,誰かに受け止めてもらいたい。わたしはそう書いていた。色んな人がおり、皆が一様に不幸せそうだったと思った。わたしは色んなことを無視し、必要以上に受け止めてはうっとおしがられたが、どれだけ歳をとっていてもそういう当たり前のことをはっきりと声に出して言ってくれる人はいなかった。それは昇華や、行為や、自然のサイクルや、すべてをはみ出してしまったあとで真っ黒い油性のペンでとうとつにそこに書かれた事みたいに見えた。