To be continued

単純な日記です。

他人事のように問題を語る

女性の立場や役割を周知していくことを時々時間のある時にやってみる事にした。僕が、中立的なところにいる人間として、それを特に誰もやりたがらなかったように見えていた。ただ、見聞きしてきた事なら自分も言えるというので、けどこういった所属に関する話、多くは自分の内面と対話する作業とは切っても切り離せない事が多い。自分もやってみて、あらためて思った。性別や家族というのは、その人自身の深層に深く染み込み過ぎていて、性格や人生と関わりのない事実として、人はそれを話せるようになるまでの期間をそれぞれで持っている思う。多分、自分はもうそれを話せる、別個のものとして見られるとしてやっていたつもりだったけど、でもやっぱり周りから見ると「切り離せてはいない」ようだったので参ってしまった。それでも、自分としては少なくとも私欲や内に困る作業でなくて将来は向けて何かを撒いているような感覚でいたのだった。
そのほかにもいろんな仕事をして雑多な所属にいる人たちと関わることがあったのだけど、台湾の人の仕事のやり方がすごく面白かった。自分がいつも感じていたのは、「何かをやるにつけて必ず現れる三、四割の反発心」は一体何なのだろうということで、この事はまだよくわかっていなかった。けど自分もふくめ、それが女性だったり性同一性障害、マイノリティ、民族を相手にして多く、しかも長くだらだらと続くようなのを見ていると、こういう反応は必ずあるのだと思った。こう言ったもの、同族嫌悪のような性質(あなたはわたしと【同じ】であるべきで、わたし以上の物言いをしてはならない)もあるけど、自分の思ったのは、それがマイノリティという人たちの常に所属しなければならないところだったんだなあと思った。言い方は悪いが、本当にそれが弱者なのだなと思ったのだった。
台湾の人達の作った議論のシステムが面白かったのは、発展的な意見は表示されるが、批判的なものは表示されない、それから、皆が対立するのでは無く共通項や合意に向かって終結していくようにサポートが働くというところだった。そうやって得られた結論から、タンさんは、人の多くは相手を批判したがるということ、それが批判とされていたものの多くは脅威と映っていたり、その性質そのものの悪点ではなく「不安」をもとに炎上していたのがわかった。
自分もその中に置かれて感じたのは、自分それから自分の周りにいるように問題意識や「それでも、幾らかは良くなってもらいたい」「自分ではなく他人に利益がもたらされて欲しい」と感じている人ばかりじゃないのだなーということ。当たり前かもしれないけど、それが社会なんだなと感じた。けどその人達まで常に入れ込んでしまうと議論にはならない。結局はその人達を排除する方針で進むことになって、僕も昨日その人達をブロックする事になった。
今思い返してみても、うっかりもらした一言が、増長して行きたい人達の百倍の燃料になってゆくのがすごかった。自分はこういう人達や間違えた議論についてはこれをやる前にさんざん話してきたのもあるけど、ただ自分はやったことはほぼで忘れて生きているため、むしろ周りの人が変わって来ていたのを感じて良かったなと思った。
思い出して書きながら、どうにも自分が舐められているせいで物事が進まないという事が多かった。それから前にも書いた「三、四割必ず起こる反発心」を起こさないようにする為、自分自身がもっともそれを感じやすい神経を持っているという自覚があるため、自分はことばやふるまいを色々と考えてずっと生きてきたが、何度も同じところに落とされてしまうのを見ながら、切に、何度も自分はもっと偉くなりたいと思ったのである。

それから自分の人生についてもいろいろと考えた。こういうのは、普段は特に湧いてこないけど人と会うたびに考えさせられるものなのかもしれないと思った。

自分の気になっているのはボス猿的な考えのことだった。自分は「ザ・ボス猿」みたいなと会うにつけて思い出したのは、自分がずっと相対していたのはこういう社会でだったということである。自分はそこで一人でどうするかを求められていた。これはビヨンセの歌を聴いて知ったのだけどボス猿というのは自分たちからは普段見えないグループを持っていて、その中の仲間が自分を支持してくれてるからもっとも強いみたいな部分がある。自分の半世紀も何かよく分からないが「仮想自分がボス猿」みたいな所にいたような気がする

それからそれを辞めなければならなくなったことも思い出したりしていた。自分が辞めなければならなかったのは壮絶ないじめで、スポイルで、それから人々が常にのしかかって来てたから。知性などでなく身体的な見た目でしか最終的に判断しないバカでデカすぎる腑抜けな男達のせいで、だからというわけじゃないが自分はいま中立の存在として生きているのである。これは反省によるところで、自分がいくら人を好きになったとしても男のままだと対面状態からは先へいけないという事もわかった。けど自分の場合中立的な立場だと感じるのは、どっちかというとそれをかぶりモノとして見ている事が多く、だから根本的にはどうでもいいというか、それをもって人と戦わなければならない意味みたいのがまずよく分かっていない。
自分が、自分なりに生きていると充足感をもちつつ自分の身体的な欲求としてものすごくあるところは何処なのか、結局考えていてもよく分からなかった。自分はそれによらない内面をさがしもとめて居りそれは結局社会的にみればほぼ男としてあったのだけどどうなんだろうなと思う。それが性ホルモンとして区別して見てゆけば、自分はテストステロンは出ていないがドーパミンとアドレナリンはずっと出ていたことから、それを寄せ集めたまま、かつ何かが足りない人格にはなっていたのかもしれない。

これまでいろんな事がありつつ「失われていた感情」をとり戻す事で、その人が明らかに日常をもっとたのしく、充足感をもち、生き生きと生きられることが他人の声からも分かった。これまで大勢の立場を尊重するために閉じていた自分の本来の感情、それは性別をふくむものだけれど、それを「ある」と再び持って来られるのはその人たちみずからがいうのではなくそれを受け止める他人の声でしか証明出来ない。この単純な事実は、あらためて、書くと単純すぎることに対してびっくりしてしまう。けれど医療や生物というものが自分ら凡人の目から見て理解できない事がほとんどだと考えると人間ていうのはまず第一に社会的な生き物なのだという事からまず考えることがこれから生きる上で大切なことだと感じた。