To be continued

単純な日記です。

「怒り」について

日本のSNSやテレビ、バラエティ番組では徹底的に「怒ること」が虐げられてきた。日々槍玉に上がるのは炎上、いやがらせに耐えられなくなり声を上げた女子、それから取るに足りないくだらないことで喧嘩をするバラエティ担当のサラリーマンやタレント達である。その中で怒るを発散する役割を追うのはだいたいそのグループの中でも下位に属する人で、ガキ使の中でも山崎邦正みたいな人が怒っているのを周りの人は笑っていじっていたりするし、これは延々と繰り返されて来た構造と芝居である。が、そうなれば不思議とあるべきほかの怒りは消えてしまうし、ほかのひともなんだかスマートに見える。まるで怒りなんか感じていない人に見える。
日本において怒ることは最優先事項ではない。なるべくなら怒った姿をまわりに見せずに「攻撃」し「浮上できないようにする」のがスマートである。怒ってもよいとされる数少ない要件では、ひとはつねに周りと自分を見比べている。それから「この人は自分の名誉のためだけに怒ってるのではなく怒る正当性がある」と思われ「それを大多数が認めている。」もしくは、「権力のうしろだてがある」と映ることが日本においては怒ってもいい条件として大切なのである。そうしてわかりやすくそういった要件をみたした数少ないできごとをつねにマスコミも取り上げ、もはやその時点では弱者と成り下がってしまった中心人物を「正当性」を武器にして不特定多数の人間が糾弾し続ける。

たとえば、SNSのなかで私が目にしたのはごく普通の人たちが、炎上要件に対してぞくぞくと声を上げ始めた時のこと。普段は穏健な発言や家族のちょっと抜けたツイートしかしていない好感どりのアカウントも、「じつは、わたしもそれキライ」などと加わっていたのである。それを見たわたしは「ちょっと待って。わたしもそう思う】んなら、なぜこれまで、あんた一人で立ってそれを言わなかった?」と思った。あんなに人に好かれたいを満面に出していたアカウントも、明らかに大した権力を持ちようのないタレント絵本クリエーターを糾弾する。けどこれが日本人の行動原理なのだと思う。

【怒るのは格好悪い】

【人前で怒るべきではない】

たぶんこれはもともとある日本人の性質、原理ではないと思う。日本人がこれまで生きてくる上で怒りを感じ、それを制裁として行う気持ちよさを感じたことがなかったはずがない。またそれに共感を感じなかった筈がない。色々な歴史書にもそう言ったことわりで動く人が存在していると思う。でもこれが、濃厚になったのは明らかに、いま言われている選民層が自分達の生きやすい基盤を、文学と言われる土壌を持つ人たちと共に築いた結果だと思う。

わたしはSNSで見ていたから知っているけど、【それ】を元手に上に上がり、本を出し続けている人は未だに生息しているし、それがどういう思想や行為に行き着き、誰が実際に迷惑しているかなど確認のしようもないほどの富に囲まれてのうのうと生きている。
わたしは怒ることは悪いことだと思わない。子どもを見ていても正当性のある「怒り」は一日に何度も見るし、大人はそれに対して背中を押す事もあるし怒りは感情の中の一つで、我慢するべきものでもなければ、メッセージとはならない未熟な感情でもない。人は誰でも怒る。怒るようなことをされているから怒る。返してもらえないから怒る。侮辱されたから怒る。それから、相手が怒ると思うからそれをしないようにする。子供も、この繰り返しで他人を知るのである。

けど、こういったことを「文学を土壌に生きているサラリーマン達は塗り替えていった。」
なぜか…

自分のしたい事を楽ちんにするためである。


日本人もそろそろ、こういった正当な怒りを取り戻してもよい時期なんじゃないだろうか。もちろん、何にでも怒ったり、公の場で自分が偉いと主張しろと言うわけじゃない。怒ってもいいことに対して、わたしたちがまず我慢をする必要性がなんなのかを考えでもよいと思うのである。
たとえば、訴訟や権利の回復、こういった面倒くさいことに人生の貴重な時間を割くために必要なのは、シンプルな怒りが一番必要である。なぜって、それはものすごく面倒くさいことだからである。もし周りのことを第一に考え、無難に生きていたいと願っているかぎりそんなことを生活を続けながら、またまわりの好奇の目線を消化しながら、怒りも沸かない名目に対し最後までやり遂げられる人なんて絶対に居ないからである。怒れ。もっと正当性を訴え、自分の生きたいをシンプルに追求してもいい。人はそのために生まれついているし、明日死ぬかどうかもわからない人生の中で悔いを残して死にたくない、と思ってもいい。だったらいつでも選択肢の中で、今、何よりもやりたいことを選べる状態にしておこう。

常に考えてほしいのは「その原理は誰の利益に繋がっているのか、いま、高級なパフェをたべながら笑っているのは誰なのか」という事だと思う。そのために、女子供や、そのひとたちを守ろうとしている男性が傷つく理由なんて、あると思いますか?
警察官が人を救うために常にそうしているように、わたしたちも「怒る」のスイッチをもう一度手にしてもよいのではないだろうか。分からなくなったら「子供だってそうやって正常な大人になる」と考えてみましょう。