To be continued

単純な日記です。

今、どうしようもなく攻め

もう30にもなるがここまで生きて来て自分の人生とか生活を思い返してみてももしかすると世間というものをそれ程知らないままのかもなと思う。仕事…っていうか結局はたんなるサラリーマンとして上から降りてくる事のいうことを聞きまくり気づいたらついでに給料も出ていたみたいな感じだし、毎日その場所でやり玉に上がらないよう我慢したりキモチわるいことも安易にスルーしたりして来たり結局そこも評価の構造がちょっと厳しくなった程度の学校みたいな場所なんだなと思って、だから夜ふと目が覚めるくらいの時間になると「だからそれが何なんだ」って思えてくる。慣れるっていうけど単純にそこに合うためだけのスキルじゃんかと思って,それをみがいて仕事をするっていうけど別に好きじゃない人に毎日合わせてババアとハゲの機嫌を取ってるだけ。それでこれまでにそれで上手くなったことって、まだ外でも使えんのかなあ?結局そこにいることでうはうはしてたい期間を十数年前に終えたから何もかもくだらなく感じつつあるジジイみたいな僕がいて、そこでワタシも積極性を排してきただけのように思えてきてて、実際良い人はすぐ辞めて阿保だけが残るせいでいつも自分の周りには変な人が集まって来やすかったなと思う。そこで、ぐっちょんぐっちょんにウンコみたいな人格を山程混ぜまくって,自分だけはまだましっていう顔をしてみたりするんだけど、だからそれが、一体何なのかな?と思った。で、その場所から出ればそれ以外のことは何も知らないんだろーなと思う。忙しいにかまけていて特にえらい行動も起こして来なかった。というか、しようとするたびにクソみたいに失敗するのでもう、一才僕は完璧にこの年になり自分からは動かなくなった。

そうやってバカのクソぶりっ子見たいのが山ほど生産されていくなかで僕も僕で、自分だけの頭を使ってやろうとした事ってあったのかなあって、一人で思い、結局どらいもんのドラマをちょっと複雑にしたようなのが職場で,絶対に誰の意見も毎回に聞かないジャイアン→都合のいいだけのスネ夫→皆から好かれてるがいじめは見過ごす出来すぎ→超受け体質ののび太がいるのみ。ひとりともうひとりがいて、どうあろうと、どうありたいと思っていても毎日は体感の強い方の論理にからめとられていく…もはやこういう、どうぶつえんみたいのが社会なんだなと思い,だから暴力以外の方法を、あまり知らない。こういうとこに自分の半生どっぷり浸かっていた上に自分一人で考えて何でもやれるみたいな人を見るとほんとに、劣等感を感じますね。僕は本当に,死ぬってわかってるからやらないんですが。

 

 

女一人でやっていく人を何人か見ていて思ったことで、例えば女の上司さえ女性に対して仕事をやってきたということも認めなかったり、人が受けて当然のサポートもそれは女だから貰えてると見做されるし、男からも女からも同様の声として「あなたは、だまっていなさい」と言われるようなことってあるんだなと思った。そこで、実際にばりばりやってきた経験のある人が同じような経験をしてきたって言う理由で、色々アドバイスをしたりしてくれているのも見たけど,そうじゃなければ、というかおんなじ経験をしなければ全く分からないごりごりの体力を持っているのが普通に優しそうな人の中にも大勢いた。だからこれまでも、自分の仕事をやるだけでなくって世界の方もそうあったほうがいいっていう美意識を未だ持ってきたおかげで助けられているんだなあと思った。あっちにもこっちにも飛び出ないで,その中で生きてかなきゃならないのが社会なんだな。で、仕事といってもそれをたった一人で最後までやれるはずがないのに、自分もなぜ男だと一人でやっているように見えるのかなと思った。僕が仲のいい人も、沢山サポートを受けて、感謝して、それで認められて普通に良い人としてそこにいる。こういうことを、改めて自分の頭で「サポートは誰でも受けて良いんだ」みたいに考えてこなければそもそもまともな部分が見えてすらいないんだなあと思った。それが男尊女卑の構造で,女性がそんなふうにして排されるのをみて、これが当たり前だったっていうことは、それ自体もともと自分らにとっても身になじみのいい文化なんだろうなと思った。安心できるとこに常に居るのは誰でも同じなんだと思う。

 

システム、AIのバグにはけっこう困りがちだった。とにかく「繰り返される」ことに辟易してくる。ほんとにこれは、罰の構造そのものだと思う。ちょっと前にそれの担当がぼやいていたのを聞いたが、「間違いばかり探すのが仕事。そうしていると自分のやることをすべて否定されるような気分になる」らしい。僕もはじめは大変なのかなあと思っていたんだけれど、一部はただ楽をしているだけと言う事にも気付いてないようで、でもこうやって同じ場所に乗せると根本的違いみたいなことをわざわざ説明するのはなかなか難しかった。人格について説明するのって難しいのだ。僕の思うに、自分の体調を管理して、周りの状況を把握してそこにただいて当たり前のことをしていればいいだけの話で、周りが変わりつつあるときにそれをどう感じるか自体に疑問を持たないような人達に対してやるべきことなど本来それほどなかったんじゃないかと感じた。特に間違い自体を責めたい人なんて居なかったし。

 

 

○自分はそもそもうるさい

 

このことを、結局幼少時までさかのぼって考えてみることになる…多分そもそもこういうブログを書かずにはいられないこと、何かあれば100こくらいは言いたいことを持ち合わせているみたいなとこから、結局自分はうるさい部類の人間なんだと思います。でもそれは外に出したりしない、というより、出来なくなった。ずっと昔から環境的に周りに自分以上にうるさい人間が常に居たせいで、自分のうるさい声よりもその人たちのうるささに許させないほどの苛立ちを感じることから→→自分おとなしくせよという働きが常にかかってきていて、二重に→←張り詰めてくるんだなって思う。

いつもは内面をあらわにするってことに拒否反応を感じている。常に。これは他人を見ていても思う事で、例えば会議とかネーチャンとの飲み会では内面ではあんなに細微までこだわって偉そうなこと書いてるのになんで生活とか常時ツイートでは工夫など廃して「自分はこうだから宣伝もスルー‼️」みたいにアホみたいにキャラを変えて発散してるんだろうとかすごい思ってしまっていて、あ、この人は、「理想」と「現実」のギャップがいまだ見えてないんだな…て、表と裏が分かりやすく用意されたせいで演じることを覚えたおぼえたての猿たちを見ながらも、尚且つ、自分の言いたいことを言えなくなるみたいなかんじにより一層なっていた。

 

あと思ったのは何か仕事がうまくいっているときはそうでも無いけどたとえば立て続けにずっこけた時なんかはそ自分がやたらと「まもり」のメンタルになっているなあっていうことがある。そういうときに、ふと周りを見ているとやたらと積極的になっている人が居て、こちらからしたらその内容自体は何言ってるか分からないと言うか、言いたい感のみあって怪しいところなんだろうけど、それを見てて自分を顧みてみるにふと、そうか、こんなふうに攻めの気持ちになっているとき、人っていうのは周りがあまり見えなくなっているんだなと思っていた。

 

○攻めの気持ちのとき、周り見えてない可能性

 

僕はこう思った。もちろん仕事なので「攻め」の気持ちも必要なんだと思う。大事なのはタイミングと、取捨選択であって、どうでもいいことに積極的になって人間性を排しまくるみたいなのはいただけない。僕は色々な場所において周りが見えなくなりながら、5分先のことも考えられない明るさを纏っているそういうミスターチルドレンなクソガキ様たちをたまに見るにつけ「ああこいつ、今どうしようもなく攻めの気分なんだろうな」って感じていた。