To be continued

単純な日記です。

気付けば、憧れが全員死んでた。

最近、何かが足りていない。それに、SNSもまったく振るわなくなってきた。こういうのには傾向があり、「商業」「主流」「アバター」が締め始めると「一般人」の割合がぐっと減ってきてしまう気がする。とにかく、主流を担う人達がうるさい。議論は単調、利益も偏っていて、なんの発展も進展もない。もはやSNSオワタの状況で、ふつうに皆YouTubeとか全く関係ないとこにいるのかもしれない。
こういう状況に対して意見を言うという行為は一見有意義にも見えるがその実、まったく意見通らない議論ともならないうえ、酔っ払いに水をかけているような手応えしかなくてつまらない。それに対する主張は「現時点で特にない」のに無理くりほじくって話すのも正直つまらない。
とにかく参加する意義が見出せない。俺は俺でやってるしっていう。

そこで僕は今日、人がやる気を出すシチュエーションについて考えてみた。

①憧れ五割・敵二割・仲間三割
こういう状況が良い結果を生む。三下十割とかだと人間性が腐っていく。

思うに、憧れ、楽しさ、おもしろさ、新しい発見というのは必要である。

が、畑を耕していくうちにいつかこういう部分は潰えてくるのだと思った。
特に自らがもう、登ってしまっている場合…
気づけば「憧れ」0.1割くらいになっていることがある。
僕自身も全人格が成り上がりみたいなものだから、こうなると「あれっ、今何する時間だったっけ?」みたいな感じになり始める。
「あれっ、だれと話せばよいんだっけ???」
僕はこの間文芸の飲み会で思った。「あれっ…、、、???」


しかし思ったのは、もう結構年取ってて経験もある時点で、こういうことを言っているのはなかなかきついものがある。憧れ、とかゆうとるけど皆死んでるんやからしゃあないやんけ、っていう飲み下しをして世間を見渡してみる。もうそこは既に
憧れ一割・敵七割・仲間二割
くらいのフィールドと化していた。これはよくない。
せめて
憧れ一割・敵三割・仲間六割
くらいには抑えておきたい。憧れに対してギューン!と上るのは無理にしても、仲間と切磋琢磨するという時点。
もう過度の成長期は終わったのだ。

あるいは、自分がそれを担う。的なやつ。
俺が憧れを担う。










正直、俺の場合は無理なのだけど、現在周りにいる人たちの場合そういうフィールドに入っているのだろうなと思った。僕らは、そんなふうに遠く離れた恒星みたいにして互いを意識しているのだと思った。例えばそれは、スピッツハイロウズの関係みたいに。
よく知らないのだけど…


ところでこの間「努力」についての話をされて僕は戸惑った。努力をしているかしていないか、と言われると僕の場合、努力に対する部分をそれほど記憶していないため、してないんじゃないかな?という気がしてしまった。というかそもそも、努力とはなんなんだろうか。例えば、細かい気遣いとか、工夫、練る行為をしたりとか、あるいは社交の面もあると思う。できないことをできるようにする、これはなかなか大変なことだと思う。
今日テレビを見ていて、ピアノの難しい楽曲を練習している人を見て、僕はそのとき「こういうことか!」って思った。努力、それは、弾けなかったピアノが弾けるようになるために数時間練習して、YouTubeに録画する作業のために数時間ビデオに真向かうこと、だったのだ。そう考えると僕は、限りなく努力から遠い人間だよなと思ってしまった。僕の場合、常に考えてるのが、どうやってラクにやり、どうやってはしょって、どうやって五千文字を3行にまとめるかみたいなことなので、ちょっとお前の言う努力と俺の努力の種類、まったくちっげ〜んだな、と一瞬思った。けど僕だって、文章の末尾を調整するのとかに気づけば五時間くらいは使ってたりすることがあるし、けど僕の場合それを努力と思わずに、むしろ沼にハマって今日も死にかけてたという解釈にしかならず、むしろ外を一時間くらい散歩してきたようなことを「努力」のテーブルに載せがちだったりする。



好きなことは努力のうちに入らない。
努力とか言ってるやつ、今日全員死ね。