To be continued

単純な日記です。

足りない。

今思えば年末年始は鬱状態だった。仕事や文芸、いろいろあるのとは裏腹に確固たる自分の定位置、価値がつかめていないため疲労、不安、疑心だけがありあまり、なんていうかとにかく「なにもしたくない」のすべり台がそのまま消滅に注ぎこまれているみたいな空間にいるような気がしていた。僕はこういうとき考えるのだけど、「死」とか「消滅」みたいのは日常のすぐそばにあるのじゃないかと思う。だからチャンネルを合わせるだけで、たとえば寝返りを打つみたいにしてその死、しかばね、なんのトーンもない世界に「すぐさま」僕は行けるんだよなという気がしていた。・・・どうでもいいんだよ・・・・・・・・その声が次第に大きくなってくる。こんな世界、どうでもいいんだよ・・・・・・・・・・・・・・そうなるともう生産的な方面に意識を回せない。

僕はテレビやYouTubeばかり見ていたと思う。しかしYouTubeとか見てても、楽しいのってただその瞬間だけだから、結果よりいっそう凪の間の鬱に対する防波堤がきつく感じられるようなのだった。

 

あとは、思うに、この「鬱」仕事にいって一体なんになるという「鬱」、活動領域が狭すぎるせいな気もした。たとえばいつも、朝起きてから仕事へ2分ほど歩いて行き、職場に入ればもうカウンターの中からはまったくでない。動かない。それどころか、だいたい直径50センチメートルくらいの円の中から動かないみたいな日が毎日のように続いていた。

 

 

そんな感じだった。文芸の方は小さい集まりに呼ばれて、書いたものを見てもらう機会があった。思っていたよりも褒められてうれしかった。・・・こういうことがあるたびに思うのだけど、本当に、ただ見てもらうというだけで幸運なことで、それに対して声をかけてもらうなんてのもうれしいことだと思う。感謝しかない。ありがとうございます。けどそれとともに、そこにいるIくんがほめてくれてるのを見て、「ってゆーか俺、数年前からずっと同じことしてるんですけど?」みたいな疑問が沸きまくってくるのもたしかに感じていた。「フューチャーされる」・・・これが今まで僕にはなかった。多分今後もあまりないだろう。だからむしろ、これは偶然なのだといっていい。偶然で、はっきりいって喜ぶやつがいるか。こういった。小フューチャーで、いつも会っているのに急激にべた褒めしてくれるみたいな目にあったりもするけど不思議で、つまり、こちらはいつも通りに通行するだけの電車くらいの意気込みと熱量(ルーチンのひとつ)でやっていたとしても、届く部分というのは実は人それぞれだし、こんなにも人の求めているもの、感心する領域、あるいは空気ってそれぞれに違うんだなあと思った。あといつも思うのが「どおせこんなもん、3日たてば飽きられる」みたいな意識がどおしても僕の中に確固としてしめていて、ああそうか、僕らって結局他人なんだよなあと思ったのだった。

そんなふうにして人は「嘘」「社交辞令」「他人と自分の間にそびえたつ大きなコンクリート状の壁」を築くことを覚えていく。どうせ、喜ぶんだろう、こういうことやっときゃよ・・・・な~んてな。僕は早く、彼女にチンコすりこみまくるだけの毎日の方に移行したいなと思う。

現世で僕は限りなく一人なだけだから。

 

 

 

けどこれじゃあ、あんまりなのでじゃあ一体、どうすれば100パーセント、メーターがあふれかえるくらい自分が満足するのかを僕は考えてみた。それは、尊敬する相手(もしくはライバル)に、オリジナリティ、斬新さ、整い具合を生の状態で驚かれたうえで、ムツゴロウさん並みに人前で取り乱してハグしてもらったらさすがに「よし、いいぞぉ!」ってなるのかもしれない。