To be continued

単純な日記です。

死ね

今日も仕事だった。昨日は時間があったので街へ行って映画を観てきた。もちろん一人で見たのではなく知り合いと行ったのだけど映画を観て、そのあとで街を歩いたり休憩したりして結構疲れた。まず、思うのがこんな街の海流の強い場所に安易に建っているゴミゴミのマックの中で果たして若い人たちは寛げるのだろうかという疑問だった。僕は毎秒で「かえりたいな」と感じていたのだけど、一緒にいる子がスローモーに動くものだから結構そこで粘らなければならなかった。こんなふうに僕が急ぎ足で行きたいときに相手がダラダラしてたり、ダラダラしたいときに毎回せかせかしてくる全くリズム合わない相手みたいのがいる。そもそも自分はなぜとっとと通り過ぎたいと感じてそれに神経を突き立てているのかと思う。これは、姉にも指摘されたことがある。けどそれは、分からない。わからないけどとにかく、イライラする。人が、目線が、いっぱいいるということが、あとは意識が僕の動きにあたっているなっていうやつがそこに一人でもいると僕はイライラしてくる。こういうのは気弱に見える僕のキャラに合わないため、普段は隠していてつい、下を向いて歩くか顔をマフラーで覆うみたいな感じだけになりがちである。僕みたいのがイライラしたりガンくれてるやつにガンつけ返したりすると「なんで、イライラしてんだよおー」っていう奴が絶対にいるんである。そしてそれに対して「確かにそうだな」と思うくらいの尖り方しかない。けど僕は、自分みたいにわけもなくイライラしてる子がいると「なるよねえ」と思う。(ぶつけてきたりするのは勘弁。何か、怒るって権利みたいなものだなって思っていて、その場で毎回怒る人って自分が一番偉いんだと感じてるところがある。たとえ可愛がられてる後輩だとしても)
僕は、つい「マイペース」という長所について思い当たった。以前マイペースというのを長所としてあげている人がいて、僕はそれを聞いて以後ずっと、「マイペースというのは特に長所ではない」と感じていたのだけど、それはいいとして、思うに、その子はマイペースを家庭から認められて、マイペースな◯子は良い子だねと言われるような風土で育ったんだろうなと、結局そういう解釈に落ち着いたのだった。でも◯子はいうよりマイペースなどではないし、もっと空気読めないマイペース馬鹿みたいなのはもっと沢山目にしてきた。僕は言いたい。長所はマイペースではなくおおらかなとこだというのとマイペースは気付いた時点でやめろみたいなことを。
とにかく、街にいてイライラする僕は多分ある意味で終わってるなとも思った。けど学生の頃はここをいつも通っていて、それで人の流れとか人の意思を無視したシステムみたいのにイライラするのもごく当たり前のことで、受け入れなきゃならないと感じていた。今はもう、おっさんだからなんでこんなピーチクパーチクしかならないとこで馴染まなきゃいけないのっていう反発心すら湧いてきているんだと思った。価値観を身につけた僕は、それを否定すらすることができるようになった。

以上です。


ところで文章のことについては常に悶々としている。最近読んだ本は、古典文学を学んだ人のようで面白かった。知識、教養に裏付けされたがゆえのそれなのだと思った。こういうの、聞きかじりじゃだめだよなと改めて思ったのですが。
こういうのを書くので断罪しないことってすごく大事だ。「いい」or「だめ」それは、人間だから必ずあるだろう。「きれい」or「きたない」あるいは「好き」or「きらい」けど、ちょっと待て。それは、あなたの感覚でしかない。あなたの感覚を百%受け入れ続けてくれるのはあなたしかいない。だから、どれほど気が合うと言っていてもそういうのを続けているといつかどこかで「こいつうるせーな」というのが生まれてくるのだと思う。だから、文章を書き続けていくとき大切なこと①断罪しない
はあるだろうなと思った。右や左、赤や黒だと断罪しない。決めつけない。僕自身、そういうのが多すぎるがゆえに卒業を経験した作家みたいのは結構いる。

それから悪目立ちすることついて。去年の終わり頃、何か目立つ機会があって僕は、浮かれたり疲れたりしていたのだけどそれもようやく落ち着いてきた。こうなると、いつものように低体温、なおかつ暗いやりとりをするくらいのがいちばん好きな塩を舐めとるみたいな感じで落ち着く感じがある。結局、自分というのはこのようにいついかなるときも定型っていうか収まるべきかたちがあるのかも知れなく、それはきっと一番馴染みのある自宅みたいな感覚で行なっているのだと思う。ココガ、オレさまのゲンザイイチダ的な。
僕は、悪目立ちしている時点での行動について考えていた。僕の思ったのは、ぜんぜん守れてはいなかったが「褒めるな」「自慢するな」「自分語るな」みたいなことだった。悪感情に支配されないみたいなのは結構普通に分かるが、思うんだけど「褒めるな」ってかなり僕は難しいなと思う。これって日本的な風土もあるのかもしれず、何かそうやることで結局寒くなるし空気がへんな感じになるし、褒めたとこで自分は気持ち良くなるんだけど、悪目立ちしてる人から褒めてもらえるって結局九割方は悪影響しかないんですよね。だから僕は気をつけてました。なるべく、好きな人は褒めないぞって思ってました。僕が褒めるとき、それは完璧に酔っ払っているか、この1週目のやつがどうな?のか見てみたい好奇心なのだと思っていてください。
それから、「自慢するな」について、悪目立ちしているとき、結局良きストーリーみたいの山ほど出来てきて、モテた、デキた、褒められた、みたいのがかっつりたまってくるんですよね。僕は自分はかなり控えめな方だと思っているのだけどそれでも、かなりチョーシコキMAXくらいになると、つい、面白おかしく「こんなふうに死ぬほどモテてて〜w」みたいなことを披露することがあり、それは面白い話にしてるんだしこんな情けない立ち位置からだしモテなんて、シューズでしかないみたいな感覚のもと少しくらい良いだろうというのがあったのだけど結局、そういうのすら悪目立ちしている時点では全て受け止められてはいなかったなと思います。
何か目立っている時って、自分が思っている人の十倍くらいは人から見て吟味、審査されてる状態なんですよね。僕も逆の立場から見て目立ってる奴コイツ、何なんと思うことは沢山あったけれど例えば「前と言ってることが違う」「自分にないものを持ちすぎている(家庭、才能、交友関係)」「パクってるのにパクってない顔をする」「僕のことを取るに足りないと感じ、上の人と見せる顔が違いすぎてムカつく」みたいのはへーっ。で、私たちの関係は永遠にそれを聞かなきゃならないってことなの?すごくそれってキモチイイ集まりよねみたいな感覚で絶対にわだかまり解けないというのはあったと思う。やっぱ一人ひとりを人間扱いするって大切ですよね。そういうことを続けていると結局まったく予期せぬうちにそのチョーシコキを嫌われていくということになります。だから自分のこと、特に良いことなど語らないに越したことはないって思った。

そんなことを思い出していました。あとは最近どうしても「魔界」についての考えが離れなくて、その辺の本を読みあさっています。占い、それからたまたま買った本に書いてあるやつが全て自分の将来にうっすらかかっている「魔界」の暗喩のような気が僕はしてきて、昨日の夜はそういうことを宜保愛子に似た先輩に相談しに行っていた。そのあとはクソしてから寝て朝また仕事へ行った。仕事虫みたいだと思う。