To be continued

単純な日記です。

直木賞を受賞した川越宗一さんのインタビューがあったので読んでみたら、三十代後半になってから小説を書き始めたらしい。一度賞に落ちたものの、それで奮起してもう一度挑戦したものが同じ賞を受賞したのだとか。僕の場合、長めの小説を書こうと思い立ったのは昨年からだった。それまでは小説自体をあまり読むのが好きではなく、書けても三千〜四千字程度だった。それ以上、どうやってもストーリーは膨らまず、話は伸びなかった。小説を書くときは、考えのもとに自分が深く沈んでいく感じがある。それが不思議なことに表面上の関係性にこだわっているときはあまり良いものが書けなくて、いろいろなことを深く深く考えられたときにそれなりのものが書けていた…気がする。その「深く沈む」モードに、本を読んでいるときにもなることに気づいて、それを試みてから長いのを書けるようになった。
最近は、考え尽くせば必ず答えが出るものなのか、たまたま出てくるものがあるだけなのか、その見極めすらもわからなくて同じ考えにずーっと突き当たっていたりすることがある。詩だと、学生の頃から書いているからなんとなくこれはダメだなというのがわかって諦めも早いんだけれど、なんだかそれ以外のやつは見極め自体がよく分からなくて、いつまでも分からないことを手元だけでごちゃごちゃとやっているからゴミみたいのが山ほど出来上がって来てしまった。手直しすれば良いのだと思うけど、なかなか気力がわかない。ひとつ書き終えれたものも最初ボツにしようと思っていたやつだったから、けどどうなるかは分からない。少なくとも、他人から言われるようなことじゃないと思った。僕にも分からないことを、他人が分かるはずもない。
これが去年書き始めてから、秋の終わり頃に頻出してきたことで、その辺も周りに相談してもいないうちからねちねちと言われたりはしたけど、僕はそれは怠惰でも不運でもないし、生ものでしかないから、気にしないで新しいことをやるしかないと感じた。


本を読む気が全く起きなかった。人に会って、会うたび本は読んでおいた方が良いと言われる。そういえば、ものを書くときも、読むときも、ひとつの感動や達成感を求めてやっていたのに、それをもう感じなくなった。去年の終わり頃、書いていてこの先は暗いなと感じた。僕がこの間最後に書いた小説は、それはなんとなくで書き上げられるかなっていう予感みたいのがあったように思う。いや、多分、試してみようと思ったんだと思う。このモードでやれば、小説って書けるのかなと無知ながら考えた。あの時は集中していたし、時間もあったし、何度も深く考えるモードになれていた気がする。いまは、何かいろいろなことに気が散ってしまって僕は読めもしないし、書けもしなくなってしまっている。焦るわけでもなく、なんだかすとんと力が抜けたような感じがする。去年は、絶対書かなきゃならないと思っていた。いま、本、物語に何も感じない状態であるのである。一番最後に書いた小説は1月2日に書いたもので、文章がちぐはぐなのでもうちょっと推敲すればよかったと思った。考えればそれから二週間くらいしか経っていないのか。やはりこう考えると、焦ってはいるのかもしれない。
話は戻って、本を読む気が起きない。僕は、本に救われたと思うような経験がほとんどない。読む時、それから、書く時、それは、ひとつの感動によってそれをしているような気がする。嫌なことから書き出すこともあるけど、やっぱりそこにいいこと(感情)をひとつでも入れれないと僕は、それがゴミみたいに見えて来て、そばに置くのも嫌になってしまう。この「イヤ」の感情、一体なんなのだろう。悪意、甘え、それから、勝手な恣意、そういう人間のなかにあるものが、何か気持ちを沈ませてくる。そういうものに触れ過ぎて、何かいやになった。そういうもので救われたという経験はなく、あるとしたら、ひとが同じような経験を経て生き延びていく様をなぞるような共感、だったり、単純に、純粋なる感情がそこにあることにパワーを得てだったりすることだと思う。それ以外では、余裕のある時に読む他人の思考で、その理解を僕は疲れと感じてしまっていて僕はいま、多分本が読めないのだと思う。もう色々言われたけど、怠惰で読んでいないのじゃない。読む前、書く前、会った人会った人のもういろんな嫌な顔や嫌味や文句を山ほど思い出して、僕はそれをするの自体が辛い。情報に疎くなったとしてももう、読めなくていいなと言う感じがしてしまった。死ぬまで、本から情報が得られなくたって別にいいとさえ思う。
自分が書くのは別で、考えたことはその都度でまとめていきたい。けど本当に、自分には何もないよなぁと思う。そんな毎日だ。