To be continued

単純な日記です。

最近は本を読む気力もそれ程なくなってきてて、関係ない絵だったり音楽を聴いたりしている。調べものをしたくて集めた本を、意気込んでいる間はそれがすごく素晴らしいものに見えているのに、読み始めるとその指南する人が意地悪な書き方をしている為読む気がなくなってしまったりすることがよくある。わざわざそれを調べて沢山資料を得て書いているだろうに、作者に対してそれほどの愛着を持ち合わせていない人がいたりする事が僕は信じられないのだけど、某文芸界隈ではそういうのをよく目にする。(じゃあいったい、何のためにそんなことをするんだ…?)と考えてみた。ってゆーか、こういうことを考え過ぎなのかもしれない。僕だったらそのものを作った人を紹介する役割なのだと割り切って仕事をしたいと思う。ともかく、余計なことばかり書いてあるし、途中から主観ばかりの文になったり、時代の解説がまたこれもどこの偏った資料を持ち出して書いたものだかわからないのを、気ままに書き殴っているのを見せられている。けどただの本はこれだけなのでそれを読むしかないっていう感じ。勉強するって「我慢」だなと思う。それから詩を紹介するときに余計な注釈を沢山入れてくるから白ける、だとかもよくある(なぜ、作者の作品に他人の主観を入れてしまうの…?それじゃあその人の作品になってしまう。)それから本を貸してくれた人が議論好きで僕の趣味に難癖付けたい人だったみたいなこと。それでもその情報を得たい場合…読み続けなければいけないのだろうか。読むけど読むときの疑問とか苛立ちって何処に出せば良いのだろう。なんかこういうの、たまたま駅とかで嫌な奴の隣になってしまった的不安なのかもしれないけど、それにしてもここ数年僕はそういうことに対して運が悪すぎて現在0パーセントくらいのラッキーしかないような気がする。

書く人はもっと黒子みたいになって書くべきだと思う。というか、そもそも、本が好きとかその文芸が好きでやってると、僕は思えないんだよなー。いつだったか、他の文芸の話も、好きな解説が続いた後で戦争の紆余曲折の話が始まって、体験ならいいのだが、その作戦の正しさだったり、講釈だったり、主題と関係ないことがめいっぱい書いてあるのだ。僕の頭はこれはいったいどういう事なのだろうというのでいっぱいになった。結局それも途中で読むのを辞めてしまった。こちらからしたら何もかもわからないまま手をつけているし、その文芸についてのことを隅々まで知りたくて手を伸ばしているのに、こういうことがあると本当にがっかりする。

なんかそういう事が沢山あり過ぎて本を読むのって本当面倒くさいし、余計な怨念がついて回ってくるなーとすごい思っていた。ある時僕もそんなふうに見えてたんだろうか?何にせよ、「思想」っていうのを語るのはなかなか難しい。あまり言うべきことじゃないと思う。僕としても会った事のない人の考えにまでは思い当たらないし、余計な反感を煽るだけだと思っている。