To be continued

単純な日記です。

今日から三日間休みを取って実家のほうに戻っている。昨日は昼に仕事をあがってからすぐ自宅へ戻って適当に荷造りしていた。夜出発の汽車で四時間くらいすれば僕の実家に着く。自宅のトイレと風呂場を掃除してからカップ焼きそばを食べて、出ていくまで数時間あったので僕はずっとナイツの漫才を見ていた。最近時間がある時お笑い芸人のYouTubeをよく見ていて、昨日はチョコプラを見ていた。昨日ナイツ見ていたら今年の正月にやったらしい漫才ももうアップされていて面白かった。それから友達にLINEでナイツのことをずっと褒めるだけの会話というのをしていた。そのあとで出発。駅前は常に人がいるけど、大晦日は閑散としていたからなんていうか、こういうのは「人というのはいるところにはいる」なんだなと思う。駅前の閉店間際の業務用スーパーは、日頃から安売りはしているけど大安売りをしていて、二日くらいに行ってその店内を見てみると歯が抜けたみたいに棚からものがなくなっていた。いつも平日なら少し人がいるなというくらいだけど、その場所もぱっと見はそれほど人はいないのに安い場所とかトイレの前とかに人が固まってびっしりいたりする。こわい…とかは思わないけどなんていうかこうやって遠目に見ている分で人っていうのはまたものでもあるんだよな…という感じがした。汽車にのってからはWi-Fiも持っていないため本を読んでいました。この間読んだ本で「移動中に読むために分厚い小説を買った」というのがあって、すごい大人だなと思った。僕の場合、こういう長距離の移動時間というのが日常的には存在しないため、それから自由に向かうための移動というのに学生のようにワクワクしてしまうため、僕が買ったのは小説ではなく旅行エッセイ本だった。数年前にオーストラリアへ行った時も僕は空港の売店で分厚い「旅行エッセイ本」を買った(オーストラリアへ行くときにエジプトの本を買った)んだけれど何かああいう移動中に見たものって旅行先の食事とかよりもむしろずっと記憶に残ったりすると思う。

それから、一昨年はサイパンへ行った。夏に行ったので一年半しか経っていないのにもう五年くらいは経過している感じがしている。周りの人に「サイパンへ行った」と聞くと必ず、いいなあと言ってもらえるんだけれど正直言って全然良くなかった。理由はいろいろあるんだけど休みに行くためじゃ無い旅行というのが自分には向いていないようである。
こういう楽しむべきことに対して一旦、「そもそもの目的」「理由」「意思」がこじれ出しておわりまでふてくされているやつ、いたとしたら殴ってやりたくなると思うけど結構僕はそういう感じになる。とにかく行きたくないところに行きたくないと言っているのに五百パーセントで行かされるみたいな事が多い。

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これはそのときに聞いた洋楽。PVが可愛かったのと曲名が「love song」だったのに内容が結構ヘビーだった。その時自分の状況にあっていたので思い出してたまたま聴けてよかった。

移動中にアルバイト先の人から簡単な手続きについての連絡が来た。正直、別にいいんだけどこういうの、一事が万事気分でしかないんだよなと思う。それは、僕一人がこれまで何百万回言っても変わらなかったことで、それが上の人、それから周りの人も声をあげて、ちょっとやばいのかな?という意識が芽生え、でもそれくらいでは変わらず、で後日自分がやっとやる気になった時にこうやって何かリアクションが欲しくて連絡をよこしてくる。うちの母もそうだし、無邪気で凡庸だからそうなりえるんだと思うけれど、不思議に思うのはその、びんぼっちゃまみたいな服着ていてケツ丸見えでいることについては何も感じてないのだろうかという疑問で、そのわだかまりは食事中も会話中も気づいている者に対してだけ付き纏ってきて、あまり笑わない人がそこにいるときは注意してみていた方がよいと僕は感じる。

人は変わっていく。僕も、変わると思う。最近、歳を取ることについてはよく考える。いろんな仕事をする中で僕はどこへ行っても一番年下という状況が多く、特に意識はしていなくても何故か年下的扱いをされる事が多かったと思うけどもう気づいたら三十路も近い。そして、最近ひとが成長するというよりも変わってしまったんだなということを多く経験してきた。その、変わるにはもちろん良い意味もある。新しくなる、更新する、それは、実は常にしなければいけなくて、人はやはり、歳を取るほど自然状態でいるとどこかに凝り固まってきて他人に無理をさせるようになってくるのだと思った。それから、自分が何者なのかそもそも分かっていない人というのは思っているよりも多い。それは職業的なことでもあるし、とにかく何をするにしても立ち位置とか、自分のやるべきことをする前に掴む人というのはぶれないし、また強いと思う。そうでない場合、周りの状況に追いやられてどんどん変わっていってしまう。その、神輿の中でいても狂ったように自我を更新していけるほど、天才的に冴えてて、そして若いのならまだいいだろう。けどもう本当、色々考えないと駄目だよなとよく思う。時代も、他人も、どんどん信用はできなくなるだろうなと感じる。悲しいことだけれど。逆に言えば、何をしていても個を持っていれば、たとえば騙されていたとしても幾らでもやり直しは聞く。他人のために…それから、利益のために…それ以前の「自分のために」を先ず、掴んでおくこと。そうしておけば、たとえ全身で転んでも、何かひとつでも手元に残るものはあると思う。逆にいえばもはや、転んでも良いんだと思えるくらいでなければ動く必要もないのじゃないだろうか。

そういうことをナイツの漫才を見ていて僕は思った。
これほど周りの状況や価値観が変えられていくなかで、資産や財産とは、一体何なのだろうか。僕は、変わっていくことは歳を取ったら勇気がいることだと思うけど、でも変わっていかなければならないんだと感じる。



実家に帰ったら姪、甥が集まってゲームをやりまくっていた。ここに居てリラックスできる…と感じられるのはものの数時間で、僕はしばらくしてからもとの自分の部屋にこもっていた。姪のスプラトゥーンが上達していてびっくりした。