To be continued

単純な日記です。

当たり前なんて無い

ごく当然のありきを撒き散らかす人たちの中にいて、その中には良い人も悪い人もどちらでも無い人も、積極的に楽しいの部分だけを味わいたい人たちなど沢山の種類の人でごたまぜになっている。その中にいると感情論に根拠など無いかのようになって、僕はそこに一人で置かれて寂しくなった。自分の感情、どういう行いが正しいのかよく分からなくなった。取り敢えず…多分よく知っている君はどんなことで泣くのだろうと僕は思った。
僕が泣く時は、たとえば、子どもが全身を振り絞って泣いているとき、それから、優しい人が親切を指摘されて寂しそうにしている時、それから、恋が失くなっていたと気が付いたとき、人と自分が似ているかもしれないと感じた時、その距離に対しての感情
あとは、プライドの高い子のそれが、目の前でねじふせられた時、頑張っている子の頑張りが、悪ふざけで黒塗られていくさま、不正で、あたりまえが誰からも見向きもされない場面、あたりまえの優しさを注がれすぎてしまうこと、
並べていくと嬉しい時と悲しい時の両方あった。あとは、悔しい時。虐められたときは泣くのではなく腹が立っていた。
人は泣く時、感情が飽和状態みたいになっているんだと思う。涙は、その溢れた部分の水で、それに気が付いた時だけ涙が流れるから、気が付かないことや、気が付けない場合は泣くことも出来ないのかもしれない。僕はその強い人が漏らした「あたりまえだよ、そんなことは」という言葉がずっと引っかかっていたのである。