To be continued

単純な日記です。

映画「リリィ・シュシュのすべて」は僕が十数年前に観た映画だけれど、この中で描かれていたいじめというのは壮絶なものがあった。漫画やドラマなどでもいじめについては描かれているけど僕の観た範囲では殴る蹴る、陰口を言うみたいなものだった。リリィ・シュシュのすべてでは未成年の何も知らない学生達が、自分らの力を以て余らせてどんどんその中で増長していく。それは、目立った犯罪ではないかもしれないが、数や同調圧力というベールで自分達の欲求を覆う感覚が描かれていたように思う。育ちの良さそうな女(処女)をレイプしたり、たしかその子と親交のある男の子を囲み込んで自慰をやらせたりだとかの描写があり、当時の僕としてはトラウマになってしまった。レイプの描写が公衆の面前でその子をとっ捕まえて男子数人でむりやりチンポ入れるみたいなやつだったんだけど、処女なのでもちろん、すぐには入らない。だからその子があげる悲鳴も「やめて」とかではなく「痛い!痛い!」という物理的な痛みだったというのが僕は怖かった。女としてではなく幼子のように訴える部分、何かこれは、他人には分からない大切な部分がいとも簡単に破棄されているように僕には見えた。そこでは尊厳というのが本来の意味を持たないのだと感じた(詳しいことは忘れてしまったが…)。女の子は翌日、自ら丸刈りになり学校へ登校する。こうなると人間は仲間でも友達でもなんでもない、いじめにおいては、人間というものを道具やおもちゃとみなしてあるのでしかなく、内戦からの帰還兵の手記でレイプ、略奪、女子殺害の場面が描かれているときとも内容自体は大して変わりはないように思う。僕の感じたことには、たった十何歳の子供達がそれくらいの欲求を秘めているということである。普通に考えれば女性や同級生に対しての共感が少しくらいはありそうなものだけれど、加熱してしまえばゲーム感覚でそんなものは失われてしまう。オス、仲間意識、ゲーム、勝者感、それが、自分たちを酔わせる強い麻薬になってしまい、それが相手が自分とほぼ同じベースに立っている同類だという意識を常に積極的に失わせる。

僕のいた高校でもいじめはあった。教師もほとんど機能していなかった。僕は最終的には、教師も生徒も皆グルになっているんだなと感じたし、そこにいる縁故で入ったバカが「実力なんて関係ない」みたいなことを聞くのがもう一日たりとも我慢ならなかったためでもう途中から、離脱させてもらったためその中で信頼関係を得られた人というのはいない。話しかけても、僕がその人たちから注視されていることを恐れて誰も口を聞かなかったし、何か普通の生徒もだんだんと、いじめているあいつらではなくいじめられている僕に原因があるのだと認識し始めるのである。
今考えても、どう考えても毎日、格好の標的になり、ごく小さなことでも最もあげつらわれて一歩も身動きできなかったのは他でもない、僕だったと思うし、それを皆が見ていた筈なのに、もうそれが日常化していたことで、ふつーに皆が、それくらいの避けて通れよという意識でいたし、一人でこなして当然と感じていたんだなあと思う。僕があそこで笑っていたのは他の誰のためでもない、自分のためなのでしかない。
勘違いするなと言いたい。
僕はけど、なぜ彼らはあそこまで増長していったのかというのを未だに考えたりする。まず、先導する人間がいることは分かる。なんとなくで、強い方に付いて行きたいのも分かる。彼等が仲間に埋れていなければ自我を保たないくらいに未発達な人間ということも分かる。で、それが、増長するための刺激を、彼らはどこから得ているんだろうと思うんである。まず、考えられるのに①勝ちの意識
これを繰り返すほどに、彼らは増長していくようである。とにかく僕は、言い返さず、それから無視するようになっていったのだけど人によってはこれを何か知らないけれど「勝った」と認識するような人もいるらしい。しかしあそこで何かを意見したとしてももう頭が壊れている連中はなんとか負けを得ないために何度でも、人数を使ってでもやり返してくるため言い返すみたいのは何の意味もないと思う。特に一人の場合。
②カネ
カネをぶんどれるというのがある。ゲームの報酬要素。育ちの良い人間、性格の良い人間から取ると興奮する様子。
③性的に興奮する要素
そこには女もいて、良い感じにつるんでいる。増長すれば、セックスも盗撮するし教室で視聴とかもするし、もはやそれを誰も不思議とも思わない。
④注目されている快感
いや、バカですよね…だから、目立っているやつ、いま弱っているやつのところに群がる。バカに多い。

あげてみたけれど意外と上がらなかった。まあとにかく、彼等はこういったことで増長していくことを日々、自ら選択して行っているが、中身の成長度合いはのろまだと言っていい。僕の思うに、やはり、彼等自身も何かに囚われているのだと思う。つまり、一つのいじめたいという怨念は正当な理由としてある筈がないため、彼らは必ず皆劣情を抱えているし、それからその劣情を正当化する仲間を必要としている。すごく不自然な酔っ払いのようになっている。だからはっきり言って、いうことは支離滅裂で肯定感だけ人一倍あるため、少しでも言い返せばひっくり返ってのたうつ。そしてその無様さをいつまでも覚えているため、「こいつは暴力人間で、暴力を加えるのに値する」みたいなことを日常的に流布する。そのうち、僕からいうことに対しても教師の方も過敏に反応し始める。いや、違うな、教師の方からもやられていたな。名字に山がつく人間。こういうことが一度でもあると、彼らもパワーアップしてやってくる為、絶対に止めていただきたい。けどもう、傾向としてあいついじめたるに九割くらいはなってしまっていたためもうこれは、駄目なんだなと僕は思った。もうやめよう。負けたとは言わないし自殺もしないけどこいつらの顔、毎日見るのやめようと僕は思った。
しかしそういういじめる側の劣情というのははっきり言って時間の無駄であるため、自分が成長するときのエネルギーをいくらか奪っていく。そこに感情のコンプレックスを感じている限りは、勉強に全てを注ぐことは不可能なのだと僕は彼等を見ていて感じた。その人たちに尊敬できる部分があって、正当な喧嘩をしたという感覚は一度たりともない。あ、あるか一度。途中から尻尾を巻いて逃げていったやつ。

しかしもう、会うことはないと思っていた数年後の今、同級生と再会して「あの時のいじめ…」について話す機会があることがなかなか良かったと思う。それから、それについて初めに口を開いたのは別の人間で、その時僕はまだなにも言いたくはなかったのだけど、今、話すようになると他の人たちもそれについて話すようになったような感じがしているので良かったような気がしている。やはり、彼等が増長する理由としては⑤いじめが可視化されない構造
になってしまっているのだと思った。僕の場合も、まったく喋らなくなった僕に向かって、前後左右が見えなくなるお面を被せたり、女の裸体を常時見せて「おまえが黒人役」と言われたり、パンツ買ってくださいメールが数十来たり、何かそういう意味不明ないじめ、めっちゃ増えてたなと思うし、僕自身それに慣れてしまっていてこういうのが日常であると感じてたのもよくなかったのかなと思う。まあ、普通に書いてはあるけどその「よくなかったのかな」という部分には僕の苦難みたいなのが百倍くらいは込められていると思ってもみてほしい。僕はそうするしかなかったし、それが彼等を増長させ、その結果僕が悪いとぜんぜん関係のない皆からも言わせていたなんて、その時は考えもしなかった。僕は、ともかくそれはいいとして、普通に僕の人間性まで日常的に馬鹿にされていた事には怒っていても良いのかもしれないなと感じ始めている。それも教師であるべき人間から。僕はこれを、けどその理由にあったのは僕側ではなく向こうの弱さもそこにはあったのだだなといま、その人たちと会いやっと言える状況になってきたおかげで、自分の中にあった尊厳みたいなものが徐々に回復してきたように思う。

あの時、僕は僕で、一生これを受け入れるべきだともうその時点では感じていたし、自分に強いようと思っていた。そんな僕が、教師を尊敬しているわけがない。僕はそこにいる人たちが考えていたことと同様に、すべてのことには僕に原因があり、常に僕が悪く、僕が一人で解決するべきだと感じ始めていた。仲間、と感じたことのある人なんてこれまでに一人もいなかった。僕はともかく、まともな人間に見えるよう一刻も早い修復を常に迫られていることに焦り、苛立ち、それ以外のことに必要性を感じなくなった。
僕は今でも一人で何の考えも構築できないような人間を心の底では馬鹿にしていて、この部分をよく人から注意される。でも、根本的に違う部分を何の価値もないもので埋め合わせようとされることには正直言っていら立つ。許せないと言ってもいい。なぜあなたは、簡単にスポイルを行う一方で僕に同盟の論理を語る権利があると思っているのだ。僕はその生半可に対して常に腹を立て続ける。僕のその攻撃は、自分自身が損なわれてもう修復できないほどに損なわれるのかもしれないという恐怖に負けない限りはずっと続くだろうと思う。つまりそれは、隠し持った殺意としてある。
そんな感じなので、もし街で会ったとしても僕から同級生や教師に話しかけることなんてある訳がない。悪いけど僕はそういう人間だ。