To be continued

単純な日記です。

おまえ、変じゃなくて… てか、オリジナルですらないぞ!事件

急に出てきた変態というワード

今日話していて出てきた言葉で「変態」と言うのがあって、何かそのときあれと思ってよく考えてみたのだけど、もしかすると最近自分らは「変態」って言う言葉自体をあまり使わなくなって来たんじゃないかと思った。
変態っていう語感、自分もひさしぶりに使ったのでアレと思ってしまい、それはちょっとエッチだとかユニークだとかいうタイプに使ってはいけないのじゃないかと僕は感じていた。変態っていうのはもっとキョーレツな印象があって、だから「のび太さん、えっち!」ていうのはあったとしても、「のび太さん、変態!」みたいなのは起こり得ない。例えば、変態仮面みたいなところまでいくと「変態」はしっくりくると僕は思った。変態っていうのは皆と比べるとちょっとだけあたまがおかしいやつ、とかというよりも、普通のファッションの中でパンツとベストだけ毎回ピンクだとか、公園で遊ぶときに学ランを着てくるとかいう明らかにぱっと見でアブノーマルなタイプの人間に対して使われてきたのである。
僕はそう思い、もう、現代において変態はほとんど居ないじゃんと思ったのだが、で、じゃあ変態を今だったらどこで使えば良いんだろうと思った。変態は、そもそもどこにいたっけ…?で、自分はそれがどこにいたのかと考えるに「それは昔の漫画の中にいた」と真っ先に思ったんですよね。

漫画で確認された変態

昔の漫画、例えば少女漫画とかではもちろん変態みたいな立ち位置のキャラは滅多にでてこない。例えば、良いやつ〜悪い奴が真ん中の立ち位置に居たとしてそれらのバランスを取るために変態を入れて来るみたいなことを少女漫画でやってしまうと、たぶんストーリーがややこしくなってくる。それは、ポップアーティスト系の漫画になってくる。で、そこでヘンタイみたいなやつがいない代わりにまあまあ笑いを取れたりする3枚目が混入されてくることが多いんだと思う。自分はここで「赤ずきんチャチャ」を思い出していた。
だから、変態というのは圧倒的に昔から少年漫画の世界のなかにいつも現れるのだけど、最近、これが少なくなってきたんじゃないかと急に僕は、一人でそう思えてきていた。最近の漫画に、変態ってあまり出て来ないですよね。思い返せばギャグ漫画でもすごいよマサルさんみたいのは変態の固まりみたいなやつで、マサルさん自体が一人に変態を詰め込んだみたいなキャラクターだった。あまり内容は覚えてないけど幕張とかいう漫画も、見た目はノーマルなんだけど中身が変態の主人公がそこにいて、ずうううううっとそこで突っ込みにくい(突っ込みにくいがギャグとしてある)変態のワールドを形成していた。

変態が居て、というか来て、そこで変態の仁義を行なっていくとか、変態にしか見られない生態を披露して行くのが昔はあり、変態・ザ・ワールドみたいのがイコールでギャグとしてあった。たとえば、それは少年漫画の王道と見られるようなやつの中でも変態が結構な頻度で入れ込まれていたと思う。おぼっちゃまくん…燃えるお兄さん…自分の自我が芽生えたころはそれらの全盛期で、見たことがないんだけどシティハンターみたいに変態か主人公なのか分からないみたいのもあったりした。多分ケンシロウとか、ジョジョとかも、どっちかというと「ノーマル」とは言い難いものがある。昔の漫画は、変態の宝庫だった…のかもしれない。でも、いま!いまはどうおもいますか!?変態が…いないっいないっいないじゃないか!そう考えてみた。が、昔の場合そこで出て来るヒロインとかも変態がいるせいで◯◯みたいな迷惑をかけられてくるストーリーはつまらなくとも毎回あり、そのせいでおっぱいが半分くらい出てくるみたいなトラブルも結構入れ込まれてあった。サービスというより、日光を浴びた漫画のシミみたいな状態でイヤらしく噴出して来ていた。ああいうのが、子どもごころに「このヘンタイムカつく」と感じられていたのだが、今思えばその時のエッチなシーンが、変態が混入することでもっと、ちくびとか普段見えてはいけない部分も同時に飛び出して来て笑いが止まらないみたいなエフェクトの効果があるような気が読者がわはしていたのだろう。意味が分からないかもしれないが変態は多分、エモ(エモーショナル)としてあったのだ。
で、いまはジャルジャルとかのコントとかでもあるけど、変態というよか、「アブないまとも」みたいなキャラが多かったり、あるいはシュールとかそういうテイストな感じってありますよね。そうだシュールが圧倒的に増えた。

変態が薄まってきた

自分はさらに考えてみたのだが、これは街に「普段何やってるかわからないおじさん」系の変態が溢れなくなってきたからというのも考えられるけど、SNSでプライベートが明らかになるにつれて、皆が、自分の「変」性を突き詰めることをしなくなったんじゃないかと思えてきた。
「いや、でも自分はもっと、もっともっとへんで居たい。へんで売ってきたのだ」という人もいると思う。そういうのが、多分人からそうみられたいパワーとしてあるのだと思う。

昔は、一人の時間が圧倒的に多かったため、人に会えない悩みや趣味をひとりの壺に入れ続けることで自然と自分の中の性を育てられて来た。それは正常な範囲で、変なところを突き詰めてもいいとしてあった。このあいだ、会社の飲み会の終わりでジャック・スパロウの物真似で歌っているおじさんが居たんだけど、季節はずれのなつかし物真似に対して自分らは、「結構変だな」と感じていた。でもあれも、いわばオリジナルとかではなくてあくまで、モノマネでしかない。結局自分のなかの「もっともっとへん」みたいのが普段から皆の前で溢れ出て、リツイートされたりして変だと言われることを恐れるようにいまはなってきて、変でなくて「多くのイイネ時代」になりつつあるんじゃないかな…と自分は、もう周りの会話が聞こえない状態になりつつ考えまくっていた。ごく普通の人であっても自分の特別性ーナルシシズムー中二システムみたいなものはどうしても持っていて、日本の場合これがお笑いやネットなどでのポジショントークとして「やっててもいい感」はまだある。それはもう「やっててもいい感」があるから皆、なんの疑問も抱かずにやっているが、世界共通語では無いので外に出ると日本人はごく子供っぽいとかいう話にもなってくるし、遠目で見るとけっこう変なかぶり物をして、意味のないツイートをしまくっているだけにも見えている。明らかに、これはグループ内が気持ちが良くてやってんだなあって。ナルシシズム〜そういうのが浅い地点では「わたしってこういう人だから」ていう謎の主張になってきたりもする。
ふと思うに、自分はこういうことをもっと突き詰めて説明できる能力って大事だなと思ったんですよね。だから、だいたい、分かるだろうという圧力自体に辟易しているわけだし、分かるだろうというとこから、言葉自体をコピペ〜で説明してくること自体に個別性と必要性が見出せて来ないわけだから、「分からないから、もっとはっきり、意味が分かるように説明してくれる?」に慌てないように説明文を考えておくべきだし、それに毎回親切なくらいまで対応してたのが昔の変態だったのだと思う。

だから、変、と言ってもはっきり言ってそれはオリジナルとかではない。もっと標準化された「変態」を装うようにすらなってきて居ると自分は思う。皆、変でありたいのに、それはオリジナルの変ですらないのだった。いま、YouTubeで皆がいつもやっているような、ヒカキンのモノマネとかもそうだけど、皆がよくやって居るやつだからみたいなのこそを、さらに突き詰めてやるみたいなのが増えた。




それは良いねが欲しいからでしかない。