To be continued

単純な日記です。

モチベーションについて

ナバリヌイ氏のニュースがCNNの方に載っていたので少しだけ調べたりしていた。自分がこういう事をしていると「目立つ人ばかり見るな」と言われそうだけど自分としては反体制の人たちがどういうモチベーションで活動をしているのかというのや、これからどうなるのだろうと言うのはとても気になる。今日の記事では名誉毀損罪で公判されるナバリヌイ氏が裁判前に政権をふたたび批判したという内容だった。きっとこれもナバリヌイ氏がこの発言が世界に流れるということを踏まえて、なにもかもが遮断された環境の中で訴えたのだろうなと感じながらも、彼の活動自体を知らないまったく無知な人がこのニュースだけを見たとしたら、少し前の自分のようにちょっと変な人のように映っていたかもしれない。そんなふうに国自体の情報や、これまでの経緯自体が寸断される中で活動を行なっている場合、どう伝えるか、どこで伝えるか、というのが死活問題になってくるのだろうなと思い、じゃあ彼は、それから自分はこれまで、これからもどういうモチベーションで、批判するだけでなくみずから、どういう結果が最善だとして提示して行くのだろうなと(ほぼ無知の状態で)考えたりしていた。
今日の事、それから福沢諭吉の著書を読みながら、自分の精神が高揚して行く感じがしていた。何故か、考えてみるに、この、理想主義とも断じられてしまいそうな話のなかに見える仁義、それから人情のような社会の当然にある理が、どうしても自分のなかにピッタリし過ぎるのだと思う。幼い頃から見ていたドラマや時代劇は自分の深層心理の中にかなり深く染み込んでいる、それか自分の中に流れている血みたいなものが、それが正しいと言っているのかもしれない。で、その中で、いろいろな人と付き合うにつけて自分は、この体制が変わりつつある状態で、またそれを自分が言い、周りも話しているのを聞きながら「でも変わらない人もいるだろう」と思っていた。それはこの目でそれを何度も何度も見て来たからだった。彼ら変わらない人間は表面上は多数派に合わせながらも、少しでも利益を見出せばそれを自分の家の中に積み上げるためのカルテルを結ぶことも厭わない。こういう性質は絶対に、表面上は消せないだろうなと思った。彼らはそして、「理想主義」の欠点を裏で酒を飲みながら言い交わしてすらいるんだと思う。
で、自分がこれに対して思っているのは、例えば日本が政府を樹立する前に非人道的支配(正義もあったと思うが)として旧体制派を処刑したりだとか、そういうことは多分今の時代じゃ馴染まないだろうなと思った。じゃあ、信用できる政治家はこの世に存在しているのだろうか?信用できる人間は?こちらから信頼を送り、資産を封じ込めば思いの通りに動くのだろうか?自分は考えたが、やはり、見てきたもの、それによって得た、失ったという経験、これまでの人生で積み上げてきたものの総論として今があるのだとしたら、人はそうそう変わらないし、また、自分のやっていることもその枠の中を出ない。そうやって自分は、ひとつのことを考えるごとに自分のこれまでに見て来たもの全てと照らし合わせて、人生のことを再び考えることになる。


それから死ぬかもしれないのに、ということもある。自分の場合もまず初動から命の危険性については言いにくる人が沢山いた。自分はひとつひとつ、行動を起こしつつも返ってくるリアクションを見ていて、自分の場合記憶を消されることはある。(しゃべれないの含む)それから身体の怪我も、腕の骨折まではある。交通事故も、寸前までは、ある。のだなと思った。けどそれ以上は、何もかもにつけて責任を感じさせ、必要以上に恐ろしがらせることに留まっている。また、それ以上を起こさせないためにどのグループにも属さないようにしている、外に出ないようにしている。
これに対して、じゃあモチベーションをどう保つのかなとふと思った。これまでは、正常な世界になってほしいと願うよりも前に「そうはならないから、大人しくYESと言っている方が皆ため」というのが蔓延していたと思う。それに対する感情も抑え込まれ、感情を調べるアプリが沢山あげられて来ていた。自分はいちどためした後、増え続けることが怪しいとかんじてダウンロードしなかったが。
例えば、怒り、悲しみ、そういうのは正義を手にしたい事に向けて、持続する欲求なのだろうか?失ったものを取り戻す、それは理想主義に繋がるのだろうか。もし、何かを与えられた時に、活動は止まってしまったりはしないのだろうか。
もし自分が何かをするにつけて「かなり酷かった世界」の記憶が失われてしまったとしたら、無感覚になってしまったりはしないのだろうか。

自分はどうしたいのだろうなと思う。
いまの自分が従っているのは知的探究、未知の世界の政策、ビジョンに対する興味がかなり大きいと思う。
新しい政策やツールが国民性や風土、歴史とあいまって取り入れられるかどうかが別れる、というのが自分はかなり面白いと思った。ここに「最善」というのはないのだ。



これまでの自分の闘争は、世界から見ればきっと女性と、男性があらかじめ作った生きにくい社会の構造というシンプルな図だったのかもしれない。今もそれは変わらないままあるが、「変わりつつある」中では興味深い部分があると思う。その中でバイデン首相のニュースにある写真は色んなことが読み取れて自分は興味深かった。簡単ではない事だけれど…上に立つ女性が美しい服を身につけ、ごく当たり前に仕事と家庭との両側面を保ちながら、男性のように有能に働いているのを見るのは大きな力になる。