To be continued

単純な日記です。

最近はミスチルHANABIとhimawariと未来を最近よく聴いてたりします。「HANABI」はYouTubeでライブバージョンもあったのでそれを見ていました。
花火には「◯◯な自分がきらい けど◯◯な自分はもっと嫌い」という歌詞があります。こういうネガティブことを歌っている歌も数多くあって、普段なら無視したり放っておいてしまうようなことでもネガティブな感情自体をほんとうは、どこかで吐かなければ人って次に進めない事の方が多いのかも知れないと思った。
僕は、本当にこういう「ことば」って大事だなと思った。数年、数十年経っても心に残った本や歌詞は自分の中に残っている。
僕にももう相手の顔も見たくなくなったという経験があります。そういう時はお互いに堂々巡りな場所に来てしまっている場合が多くて、お互いに何をどう変えれば、自分の思い通りになるのかなと考えてたりする。それでだいたい、ため込んだ側の方がひどいことを言ってしまったりする。だから、負の言葉は言ってもよかったんじゃないかと思った。言わなかった場合より、気持ちだった時点で言ったほうが結局は良くなったと思った。でも思い返してみれば、多分そういうのはお互いの関係を考えても自分と同じくらいか、自分よりも相手が大人だったんだと思う。そこにあるものが最悪なら、最悪があるってことを無視しないで手に取って相手に見てもらってからやっと上がっていけるのが普通の人の繋がりというか、関係なんだと思った。多分こういうことをしていかなきゃ、紆余曲折とか誰のせいってことを片一方だけが膨らませて、感情自体だけこころのなかに残ってしまって、それを吐いたり、もっと人が困るような形に膨らんで行く事があるんだと思う。そういうのを見ていて、呪いっていう形は本当にすごいなと思った。いくらそれを他の人が助けてくれたり、フォローしてくれたり、そんな事ないと言ってくれたりしても、呪いを呪いとして形にしてしまった時点から、それがもう一人を引っ張り続ける力のつよさ、そういう、嫌いだったっていうだけの事でも、自己実現や世間からの声、自分の育ってきた過去やいろんなものを詰め込んでぐちゃぐちゃになった後で、全てのわだかまりで、人ってもう一人を、簡単に殺せるんだなと思う。

で、この歌のこの「きらい」っていう言葉について考えた。こういう関係性が自分にあったかな。と考えてて、友達のことを思い出した。それは多分好きな部分の方が当たり前に多いから言えた言葉で、向こうが僕に対して同じような事をいう時もそうだったと思う。そうじゃない時も沢山あって、嫌いって言葉じゃなくても、好きっていうことと似ている馴れ馴れしさから関係がぶっ壊れたりすることも沢山あった。自分は悪目立ちする事が多くて、そういうとき全く知らない相手から送られてくる、オタクのHOMEみたいな親しみの感情は一体何なんだとよく考えていた。多分これは、本人に隙がありそうっていうどこなんだと思った。たしかによく言葉も出てこないし、真っ直ぐ歩けそうなとこで転ぶし、考えをまとめてもそのあとで言うべき相手が見つからなくてうろうろしてる状態の方がずっと多くて、自分は「きっちりしたいのに間抜け」ていう感じに見えるんだと思う。そういうとこを突っ込まれるんだけど、自分からしたら、全てまじめにしている事なので、子どもが足を引っかけられたみたいに、一人だけ傷ついてたり腹が立ったりしている。あまり関係ないけどそういうことが多くて、だから僕はオタクみたいなのがこれまではずっと嫌いでした。
その後で続く歌詞が歌っているのは、現実にそこにはありもしない希望についてで、この「きらい」の以後にもっとほんとうは…ていうことの吐露があって、こうしなさいっていう以前に、人にはこういう気持ちがあってもいいんだなと思う。言葉をこんなふうに結んでこんなふうに人がもう一人を、残り数パーセントの可能性でつないでいることがあるんだと思った。

未だに僕は、いろんな人の話を聞いていてもあらかじめ何もかもが用意されていたとはどうしても思えなかった。僕達は、自分がその時に何をしたいかを決めて、自分で自分の役柄を選んで来たんじゃないの?それが好きで、それが自分だと思ったからそれを、主張してきたんじゃないの?だったらそれを任されている人間をとおくから足を放り出して見ていながら、今さらお前だけそれを、嘘だって言うなよな。だからこれ以後、それを、人にどうこうしろという前に一人で見直してみても良いと思う。僕からそれを、どうこうしてほしいなんて思ったこともなければ、言いに行くこともないんだし。