To be continued(お掃除期間)

単純な日記です。

勇気

今日も仕事でした。特に書くべきことは無し。アルバイト終わりの駅前の町にはもう漆黒の闇が降りていて、そのなかでガストで待ち合わせした文芸の人と話して来たのだけど、その人が大衆文学に対して憎しみを抱いている人だったのでなかなか話が面白かった。僕自身も思うのだが、自分は何を書き表すべきか?というのはいつも迷いがちで、自分の特徴や傾向がよく分からないままだと何かを残すのもままならない。色々やってみて、書くのが憚られるが僕はとにかく自分はカッコよくありたいのだと思った。カッコよくありたいというのは時に勇気であり、エモであり、エロでもあるが、これは悲しいことに和ではなかなかなりえない。まあ場合によっては友情もあるか。で、話していて、最近僕らの周りを賑わせていたのに「文学は、ファッションと言えるのか?」みたいなことが話題に上がった。僕もこれに対しては何回か聞かれていた為そろそろそれに答えるべきなのか考えたけれど結局は「でもこれってもう、既出だよな…」という考えが拭えなかったため今回は発言するのを辞めておいた。もう答えが完璧にある、もしくは答えというか議題がまったくわからないまま戦うのなんてそれは泥仕合いにしかならないだろうし、こうしている間に僕らをよそに椎名林檎みたいな人がバーでワインを飲んでたりするんだろうなと思ってしまった。つまり、泥仕合いというのはそのへんの馬鹿を慰めるためにあるショーでしかない。僕は普段ならこういうやつを傍観で過ごすタイプなのだけど、とにかく上の人から目をつけられやすいために「火種」となって何かをいう事を迫られがちなので損ばかりしているといつも思う。

ところで話は変わるけれど、最近「自分がすごく熱を入れて話していることをそもそも相手が真面目に聞いていない」みたいなことがたくさんあった。僕は…というかこれはそもそもで文学に対することで、僕はいついかなるときにもエモを深掘りして、そこにハマっていたいみたいなところがあり、しかもそういうとき周りが見えていないように見えるようなのである。僕が一言目に言いたいのは、とりあえず「見えてるよ」って事で、けど下水道周りで毎日ハロウィンをしている人達に対しては確かに見えてないと言っても差し支えは特にない。あるいは僕という人間性は皆から100パーセントで舐められているみたいな感じがあるので、僕が真剣な態度で文芸について語ったり、感極まって泣いたりしているときに、そこにいる相手がその僕の真剣さから一方下がった場所にいて「どうしたん?」みたいに聞いてくることがある。
僕は、こういった、冷めたやり取りで友人を敵と見做すようになったことが結構ここ数年あった。こういうのって、僕は言いたいのだけど、結構いけない事だと思うんですよね。友人なのに、なんで相手に合わせないの?それはとにかく、五秒でも合わせたら満足するかもしれないのに、一言目から「w」みたいなこと言う人に対して僕はもはや軽蔑の眼差ししか送らないことにしているし今更真面目に言ってこられようが今度はこっちが「笑」なんだよ、ッバーカッっていう気持ちでいます。今回「ほぼでそれがトラブル」みたいな件を持ってきた人に対しては、正直暗いし、自分は絶対にやらないしなんとも言いようがないが彼がそれに対してエモを感じるというのなら僕もそれに合わせたいとは思う。
そう考えてきていままで僕がどうしても許せなかった提案、というのは一体何なのだろうと考える。考えてもよくわからない。それは勘の範疇にあるのかもしれない。嘘を付いている人間というのは一つではなく色々な部分が不自然になるものだ。ってか、それを小説に書けよなのか?
僕がそういうエモにはまっていて周りが見えていないこと、過去にもあったらしいんけれどそれに関する噂を最近聞いたりしても僕からすると「だから何?」という感じ。勝手に見ておいて、だから何って思うし、見ていたことが逆に恥ずかしくないんだろうか。僕の思うに、彼らは彼らで「見てしまった事」が逆に恥ずかしいんだと思う。それは例えば、子どもや若い女が自由気ままに生きているのと相対するような同族嫌悪にも似た憎しみで、彼らはそれが自分の中にもある感情だと気づきたくないがため「目の前にいる彼、彼女」をそれ自身としてフリーズさせたいのではないだろうか。僕からするとそれよりも何故自身の感じる傾向をクールにひそませておいたままダウンジャケットを着込むなりして未だ自分だけ、泣いている椎名林檎を差し置いてカッコいい役割でいたいんだろうと思う。向こうからすると僕が子どもに見えているのかもしれないが僕からするとそういうのは君たちがすごく子どもなんだなと感じる。そういうわけで僕からすると無理だったっていう話。

あとはそれとは関係がないけど最近はミスチルにはまってよく聴いている。ミスチルの歌、これまで知っているのをYouTubeで検索して聞いていたりはしたんだけど今回はApple Musicでリストになっているやつを聞いているため知らなかった曲とかも聞くことが出来て良い。このApple Musicのリスト(多分誰かが作ったやつ)はすごく良いと思った。椎名林檎もこのリストで聴いている。ミスチルの歌は一言で言えばロックですよね。歌詞とかも他の歌い手の表現しない部分が網羅されている感じ…「youthful days」なんてすごく微妙な感情を歌っている感じがして僕はこれを聴いていると創作意欲を掻き立てられる。
創作意欲について言えば色々な小説や歌を見るのも大切だけれどそういった完成されたもの以外でも結構意外と自分とちょっと違うなというところや、断片のようなものに触れたときも湧いて来たりする。不思議だと思う。
あとはマシンガンをぶっ放せとかも聞いたりしています。僕は洋楽とか他のロックみたいのはGLAYくらいしか知らないのですがこういうのも聴きたくなる。






以下、ファッションと同調圧力について書いた文が出てきたのでコピペしておきます。

自分が着たいファッション、似合うファッションの話題は面白いと思った。しかしこれをあらわす時いろいろな問題が絡み合いすぎて純粋に「べきか」自体を踏み越えた個人的問題が出てきてるような気もする。

①着たいファッションをきるべきかどうか
②それに同調してもらいたい性質について
③個人の劣等感と、衣服
④他人から強制、抑圧されること

これらを同列に並べたらだめである。

まず①に関しては着たいのを着た方が良いと思う。着たいもの、好きなものを纏うのは単純にこころの栄養になると思う。それが着れないというのは文化だったり周りの同調圧力からいま一歩踏み出せないというのがあると思う。
②不思議なのが何故「いいね」と言わなきゃならないのかということだった。たしかに彼氏が彼女の気持ちを汲んであげない言い方は腹立つが、しかし一理あるだろう。こういう「痛いけど一理ある意見」を飲み込めない奴が僕は嫌いである。正しいとか正しくないとかでなく面倒くさい。「いつかは年取って皺くちゃになるのを今からファンデーションでカバーリングしている」のは事実で、事実を殊更にいう必要性などはないけれど親しい間柄だったらそれくらい踏み込んだ意見は日常的に交わされることだろう。ましてや夫婦ならそうだろう。もしかするとその彼氏はファッションに対しては興味は薄くても新しい家電を買う時や交渉するときすごい頑張ってくれるかもしれないじゃないか。僕はそのへんの行き違いを哀しいことだと感じる。お互いに理解しようと思うターンを失っているのに、片一方ばかりが正当性を訴えていることに気付かないで泣いているみたいなの。僕はいつも泣かせる方だったために「ちょっとちがうだろう」とは言いたくなる。何でもかんでも受け入れて、それは女から男を見たときのマザコンのいやらしさと変わりない。なんでそこに気づかないんだ。わがままだぞおまへは。
「特に意見も理屈もないが同調だけはしてほしい」を自力で解かないでやってくる人、大人でも文学をしている人でも山ほどいる。おまえがやりたくてやってて、おまえが言いたくて、着たくて、見たくて、拡散したくてやってたのではなかったのか。
ちなみにそういうパターンでまるきり無視を決め込んでいるとじょじょに当女子から陰湿なものが吹き出していくようである。
③個人の劣等感を公共の場で振りまくこと、こういった漫画だったりツイートはいま一億総表現社会なためによく見かけるけれど、あまり良くないと思う。これはひと昔に流行った繊細こじきにも似ていて、見た人に対して強制的に同調を求める作りになっていて不自然なことも多くどうしてもそれは視野が狭くなる。これは単なる発散なのだろうけど、それを表現活動と言ってしまえば簡単に歯止めなんて掛からなくなりそうだ。なんていうか、潔くはないと思う。

それから「服」の概念についてだけれど僕自身、いろいろな場所で「衣」についての考えは話してきたため周りの人はこういうことをいうのかなと感じる事もある。僕の場合、それはたしかにカモフラージュの意味があったのかもしれない。人間っていうのは、もともとの部分は動物のように欲、感覚に塗れて動いている。そのひとつ上の段階に、社会がある。そして、その中にはもっと個人的な集まりがある。僕はそこに属する時の仮面だったり、周りに合わせる時の感覚として「服」と話して来たのであり、僕がそれを仲良くなりたいがために進んで取ろうとした事もあり、あるいは無理やりにひっぺがされた経験もある。僕はそれは暴力だったと感じている。僕の頭の中にあることは、その時点では感情、景色を映した脳が反応した可能性でしかない。それを行動させられた、これを僕は暴力だと感じている。それからそれを、ファッションや美しく着飾り異性や知人から褒めてもらうための道具と感じているのではない。
④世間から植え付けられてしまった感覚を解いていくのは難しい。これは性格や性別、そういう「個人」について考えることと似ているし、ひとつとして規格されたものなどないと思う。こういうことを箇条書きではない感情的な表現としてすることには意味があると思うし、それはいま同調が得られなくてもやってもいいのだと僕は感じる。それは僕らが個人的に、あるいは社会に向かって意味を得たり失ったりしながら生きている理由に繋がっている。文化、社会、家族、性別、いろんなものが複雑にあり、僕らは簡単にイエスもノーも言えない部分を持っているからだ。