To be continued

単純な日記です。

焦燥

連絡をくれたIさん、Nさん、わざわざ、僕のことを思い出してくれて声をかけてくれてありがとう。僕も、この関係性が結果と思うのでなく、それが変わっていくものとして、自分自身で何かよいことを常にできればなあと思う。

いつもありがとう。







今日は、バイトが休みだったため昼から起きて録画しておいた「池の水全部抜く」を見た。あの番組を見るときいつも思うのが何かひとつの、デカすぎるものごとの反応として「皆、知らんがハイになる」みたいのがあって、そしてそのあとの反動でその後余計にローになるみたいなのがあるような気がする。僕は正直言って、池の水全部抜かれていくことに対する自分の感情、池の水が膨大すぎることによりそれに名を付けることがもはやできないような気がしていた。…池の水はすべて抜かれるのだが、色々な情景だったり物が現れる中、様変わりしていくのは目の前の光景なのだが、それはすなわち自分の感情でもある。こういうことは普通の日常にはなかなかないものなので、なんとも言い難い不思議な感覚がある。ああ…「抜けてる」よね…ああああああああ……で、これにたいしてボーッとしないためにはなにか人はあるひとつの使命感が一応前提として必要なのだと僕は思った。それは、テレビだからなんだけど僕は、思ったんだけど例えば警察っていうのは、多分常にモチベーションというものが必要とされていて、そこにはひとつの権力と犯罪者という対立構造があり、そして救済という目的があると思うのだけど、ここにひとつの「怒り」みたいのって必然としてなければ、多分使命を常に行使することってできないのだろうなと思ったのである。人間というのは理屈でなく、そういうもので動いているのだ。僕は警察ではないため、アルバイトの中で例えば、万引きのようなものを発見した場合果たして「コラーッ!」ということが出来るのかをたまに考えるんだけど、多分一瞬でそうはならないだろうなと思ってしまう。もし自分みたいのが掏摸とかをその場で見たとしても「えっ、あれ…?!」と思ってかなり躊躇すると思う。なぜかと考えたのだけど、そこに訓練とか動体視力みたいなものより、多分根本的な怒りが足りないのだろうと思った。これが、常に犯罪者を検挙したり、犯罪に触れている警察が僕と同じように「あれっ…何やるんだっけ?」となってはいけないため、なので「多分」なのだけど、警察の人たちには常にモチベーションを高めるための訓練や勉強をしてるのではないだろうか。そこにはじめなら無かったような役割、やる目的というのは割合、埋没してしまうと誰でも「あれ、なにやるんだっけ?」とはなりがちで、そこには人間性や環境で変わってしまいやすい人間というものがあるからだと思う。うちのバイトでは阿部さんがいつも鍵閉めておいてくれるからみたいなやつ。
で、池の水全部抜くについても、正直「なんで抜くんだっけ?」みたいにならないためには、まず、なんで池の水抜くのかをはっきりさせておかなければならない。僕はそう思った。もし、観る側になってしまえばもはや、それはショーとして、出演者だったり情景だけで抜くっていう行為自体が巨大すぎるためなんとか面白いものに見えるのかもしれないけれど、けどそこに出演者として出る場合は変わってくる。もし、ここにきたのが役割を認識していないのび太みたいなやつだったとしたら、一体どうなるかというと、それは、つまり、「池の水を抜く」+「余計なのび太がいる」みたいな違和感として、視聴者に伝わってしまうことになる。出演する事、すなわちそれは池の水を全部抜くモチベーションを共通認識として理解し、それから水の動きにすべてを合わせていくみたいな感覚なのだと思う。イエ〜イ!まとめると、撮る立場or出るに立たされた場合は常にその「池の水全部抜く」→「なんで抜く」→「いいもんがでてくるから抜く」という信念が揺るがないためにそのモチベーションについては常に、はっきりさせておかなければならない。