To be continued

単純な日記です。

色味がないということ

前回の記事で写真を撮ってみて思ったけど、おもうに僕の住んでいる場所というのは根本的に色味が少ないのだと思う。ゴッホが描いている絵というのは身の周りにあるものだったり、風景画、人だったりが多く、それは素朴なのだけどそれ自身や、多分昼間の光が注ぐ自然に触れている時の人のささやかな喜びが込められていると思う。それに対して、自分の住んでいるところ、暖かい時はまだいいが、秋から冬にかけてだともう葉も落ちているし景観も色味がなくなって暗い、寒い、家に帰りたい感じになる。こういうのがやっぱり、人の感情にも何かもたらしていると思う。で、なんかこういうの、絵を見た後で撮ってみると普通に写真ってよいな…って僕は思い、だから写真を撮る習慣を付けるのも良いのかもなと思った。ともかくゴッホは、周りの絵描きと比べて荘厳なものや美しいものを書かない。この辺を、僕は文芸をする以前であればするっと通り過ぎたところかもしれないが、さすがに毎日、毎日、絞り出さねばなるまい精神でやっていると、その人が何かしている時の視点の付け方みたいのは気になってくる。ゴッホは、意識していたのかは分からないが、視点が素朴で飾りがない。神や宗教についてゴッホは語らないわけではないが、それがどこに篭るのかを見出す視点は僕らのような立場とよく似ていると思うのである。そこには同じように生活するものとしての単純な発見や、人間的な喜びに満ちていて、それが絵を見ている時僕を、なぜだか心の底から喜ばせるのである。こういうのは、良いなと思う。たくさんやっておく方がよい。って思ったんだけど、毎日特に外出するわけでもないし、撮るものがないじゃんという結論に5秒くらいで至った。


僕の家は割と収入の多い家庭で、小さい頃から僕は読書に関する英才教育を受けていました。月一度の教材とか、周りの子が取っているようなものから、それから絵本や児童向けの本も色々と買ってくれていた。僕はあまりそれを読まずに、漫画ばかり読んで育ちました。学生になると僕は塾に入れられ、親は次第に僕の身の回り、交友関係、異性、テレビ、ラジオ、それから読書に関してもかなり厳しい管理をするようになった。それは、今考えるとかなり異常で、親が書いたものを読まされたりなどもした。僕はこれがどうしても嫌だった。なんというか、やっぱいくら子どもであっても、楽しい以外の「役に立つでしょうよ」というようなものを、それも自分の親から読まされて面白いはずがない。僕はだから教訓とか論調で人を教育できるのはその人と関わりのない専門家が善意をもってするからなのであり、関わりのある人は自分の振る舞い、感情がそのままコピーペーストで伝わってくるのでともかく、良い影響を与えたいと願うのならその人が本来からよい人であるのでしかない、と思う。「こうしてやりたい」なんていう強めのコントロール、例えば犬や猫に「ありがとう」って言わせると思いますか。で、僕はそれに対してはもう反発心以後の気色悪さすら感じていた。中国や日本で本に関する規制やなんかがあって政治的なことに異を唱えるようなものを全て抹消して、よいもののみ入れてくるみたいなのがあったと思うけどそういうのとそっくりだと思う。僕は読書するのが嫌になりつつあった。それでもそういう親にとってのみ都合の良いものを選り分けたりする最中にも良いものはたしかにあるのであった。それは人間というものと同じ割合かも知れない。親の意思は入り込んでいたが、そこにいる理解不能な人、やり取り、不快なことが沢山ある中でもやはり良い人や僕に対して、僕に分かるよう話しかけてくれる人はいるのだ。そんなふうに、僕から何かを伝えたい人がまだ何処かに多分いるから僕は生きているのだろうと思う。僕は僕一人に頼って生きているのではない。僕は頑張り屋さんでも強いのでもない、普通の虐げられた成れの果ての人間でしかない。