To be continued

単純な日記です。

ゴッホの糸杉

何かゴッホにはまっている間に、ゴッホの絵画展が東京で行われているみたいだった。僕の場合はもちろん、行けませんが、その特集を今日テレビで放送していたのを風呂上りに観た。すごい偶然。

【公式サイト】ゴッホ展 2019-2020 東京展と兵庫展を開催
【公式サイト】
ゴッホ展公式キャラクターホッゴさんが陽気すぎる。

思えば僕はゴッホの自画像というか顔自体が好きなんだと思う。他の画家の自画像、見てみると何か正装していたりかなりおっさん臭かったりするんだけどゴッホはもっと朴訥な感じがする。

で、ゴッホ展ですが、糸杉の実物が展示されているらしい。ゴッホは晩年、糸杉に魅入られていたらしい。僕はそれを聞くまでは、糸杉を注意深くみたりはあまりしていなかった。けど、ゴッホが絵に宗教的意味さえも見いだしていたことから考えると、人が何かひとつのものに捉われることや、そしてそれに救いに似たような感情を抱くことはあることなのかもしれないなと感じた。しかしゴッホのあとでモネ、マネ、ドガなどを見ましたが、マネはちょっと合わなかったんだけどモネ、ドガはすごく綺麗で緻密なため、そのあとでゴッホを見ると「あれ…ゴッホって、もしかして、ヘタ…?」と一瞬思う。それでそのあとで頭でごちゃごちゃ考えたりするけどゴッホは「かわいい」のだなと思い直したりする。こういうとき何の知識もないとき感じるままに書いてたものって結構面白いと思うから、メモとか日記とかって大事ですね。

絵を描くとききっと、画家はその対象物を紡ぎ出すだけの固まりみたいになる。糸杉は、画面の中にたったひとつだけある影みたいに見えた。空と、それ以外の風景の中に、糸杉は大きく立ち、最も陽を浴びているはずの糸杉の色はこんなにも濃く、画面上に大きく陰影を表す。存在、というのは本当はこんなふうにある。こんなふうに力強く糸杉を示すのは、ゴッホが何かつかまるような感じで、そこにたしかな感触を求めていたのかもしれない。厚塗りが強調されていたけれど、それは苦痛しかない現状から、自分の感覚を取り戻すための行いだったのかもしれない。強い色彩、それからうねるような背景が強調されがちなゴッホの絵だけれど、僕はその部分はそれを鬱の症状のように思いたくないのだった。ゴッホは思想を絵に入れることは画家の使命のように感じていたようだけれど、内面をごく簡単にそんなふうに消化したいなんて考えていたのかな。思想というのは、自分のことだけじゃなく、それはつまり存在させられているこの世界すべてに対するものに、注がれていると思う。描き方は、僕はそれを表すために必要なものとして全てあると思う。なぜゴッホがそれを選んだのか、それは多分大事なところだ。