To be continued

単純な日記です。

小説ー政権崩壊のイメージ

銅像が、引き倒される光景を目の当たりにしながら、僕もそれに加わろうとした。以前読んだことのある、政権の崩壊の小説で、それは人間性や、支配することに対する反省からか、人間が異様なほど動物的に書かれていた記憶がある。けれど僕も、僕自身のエゴというものを限りなく、平坦なものに抑えつつ、僕は彼らを理解しようと試みる。けれどそれはいつもうまくいかなかった。「でも、彼らは楽しんでいた」僕は思った。彼らはたしかに、楽しんでいた。自己にふり注ぐ称賛、当たり前の生活を簡単に維持できるその「言葉」を手にして。そしてそれを維持するため、簡単に彼らはそのボタンをなんの差し障りもなく押すのだった。その度に、僕は僕を抑えこみ、なにも言わないようにしなければならなかった。僕は、これまでの人生上で自己を何度もくだらないものとみなしてきたその、自ら培ったからくりを思い出していて、そこにたくさんの自ら沈めてしまった水子が寝ているかのような感傷を受けた。もし、虐げられている人民が、確かにある自我や、欲求を認めてしまえば、その先にあるのは地獄のような苦しみだった。その人たちの記憶にあるような訴えを起こす人たちはたしかに、その人たちに人民はくだらない犯行をする、という記憶を植え付け、それから、助長するか、取り入ることさえするのだった。けれど僕は、その勢いの凄さからそれさえもまやかしだったのだと思った。僕は人権を手にした人たちが今までとても大人しく、まるで死んでいるかのように生きていかなければならなかったことを思い知った。毎日を積極的に諦めることを人は慣れることさえするのだと知った。そして一度、希望を手にするとその当たり前の権利がもっと、もっと自分を生きたいと思わせるのだと感じた。彼らはその装置を楽しんでいたし、それはごく簡単に行われたのだということが、僕の怒りに拍車をかけてやまなかった。彼らは楽しんでいた…僕は、そのことを、自分の怒りのそもそもの源だったと思い、そのことを思うのをやめなくなった。僕たちが殺される瞬間は、なんの苦しみも、重みもなかった。簡単に銅像は引き倒され、そしてそれが、尊敬を受けるに値しない単なる「モノ」としてそこに横たわった。こんなものに…僕は思い、隣で誰かが泣く声を聞いた。こんなものに、僕たちは支配されていると感じていたなんて。あの時もあの時も、願うよりもまず先に、欲求を感じることを恥だと思わされていたなんて。万歳、万歳と言っていたかつての祝賀会、その笑顔は皆のカモフラージュで、どうかわたしを見つめないでほしい、というメッセージだったのだ。支配は目に見えない手だったのだ。僕も泣きそうになった。僕は、褒めてほしいのではない。まるで特別なものであるかのようにうやまって、ありもしない金銀を褒めてほしいのではない。僕は、当たり前に自分の中に眠る尊厳が、当たり前に声を上げ、悲しみ、怒り、ときには泣くことに取り立てて騒がれたくなんてなく、僕は一度だけでも、その人たちの半分でも、当たり前の人生を享受したいと願った。僕は今でも、生きたいと思うことをなんて醜く、それから貧しい欲求なのだろうと思う。僕はきっと、その闘争に永遠に勝つことは出来ない。だからきっと、誰よりもそれを喜び、自分に怯えながらも、その中に加わるのだろうと思った。