To be continued

単純な日記です。

街のこと、そこにいる人

「街」というと、一体どんな場所をイメージするだろうか。いろいろな店があるとか、利便性があるとか、自然がない、若者が多い、いろいろあるけれど、僕は小さい頃から町へ行くのが怖かった。僕は結構いなかのだだっ広い場所で育ち、そこには今のように二十四時間営業しているコンビニやドラックストアみたいのはまだ無かったけれど、だいたいなんとなく分かるような人たちがいた。その「わかる」というのは子どもだったり、みたことのあるお母さんとか、老人とか、庭仕事してるおじさんだとかそういう人たちで、僕は怖い目にあったことってなかった。今思えば、だからバカだったのかもしれないと多少なりとも思う。僕は、何か待ち合わせを間違えて数時間時間を潰したりとか、どこかの家の飼い犬を勝手に逃したりとか、何かそういう子どものする意味不明な過ちみたいのは沢山したけど怖い人とかに会うことはなかった。大人になった今でも、割合町へ行くのが何か億劫で、その町というのは偏った人ではなくて、世の中の様々な人が正確な割合で訪れる場所のような気がしている。だから自分からするとよくわからないし、しかもずっとよくわからないままの人たちというのが多くいる。バイトとかなら、なんとなく分かってくるみたいのもあるけど、とにかく行きずりであるためずっと死ぬまでその人たちのことを知らない。何かそのへんに対して、それって何か変じゃないかと思う。そこに局所発生しているパリピみたいな人が笑っていたり、ものすごい露出狂みたいな女がいたり、モデルみたいな人がいたり、ぶつぶつ、意味不明なことを話している人がいつまでもいつまでもいるみたいなこと自体に正直、耐えられないのである。そこに俺たちのテリトリーみたいなものをびんびんに発してくるそういうグループ、それから匂い付け、発する運動、ああ、もうだから、そのすべてが疲れますね。それから、町っていつも、これが標準のお洒落ですよみたいな雰囲気を発し続けてくる。僕はこれがいつも嫌。おしゃれ分からないから。僕はだから、町って用事がなければ行かない。何かそれに対して僕は取り敢えずの理由を考えたりするのである。例えば何故、この人は地下鉄で支離滅裂な話をしていなければならないんだろうとか、あの人は何故、こちらが何かするたびに見るのかとか、こんな格好は恥ずかしくないんだろうかとか、今は何故、こういうのが流行ってるのだろうみたいなことをずっと考えるのだけど、その他人に対する、疑問を思うのに、「それには、そんなに納得するような理由など、ほぼない」っていうことである。「ない」のだ。べつに理由なんてなく、皆したくてしているのだった。したくてしているというのは、もしかすると理由に当たるのかもしれないが、僕の考えているのはその視野に僕とか、僕に似ているような人という考慮はあるのだろうかという疑問だった。つまり、そこに僕の責任の一端が、空間を波立たせるみたいにあるがゆえにより、酷くなったり、またはテリトリー意識を掻き立てられるみたいなそういうのはあるのだろうかということだったのである。けどそれは、いついかなる時も考え尽くしてみても、その人たちがそうしたいからしているのでしかなかった。だから、ポケットティッシュをもらうかどうするか一つにしても、それは僕がことこまかにいらない理由や相手に対して大変そうだなと思う余地を見せたりなどしたとしても、その人達は雨が降っても台風がすごかったりしてもいつも、その場所で、死ぬまでずっと同じ力学で僕に対してティッシュを手渡そうとする。もうこうなれば、これは作業でしかない。すべて。いる、いらない、見る、みない、すき、きらい、そんなふうに分けてあとは心に残さなくていい、そういう途中の景色で、そのへんに心を使う解釈などいらないのだった。つまり、そこは大まかな動物園で、皆が一応の理性を保って自由気ままに振る舞っている場所というだけで、中にいるのはそれぞれのことわりを含んだ生き物達だった。僕らは死ぬまでよろこびも悲しみも、分かち合わないし、それに対して取引などもまだ行われていないため、みな自由に雰囲気、気配だけ感じ取って餌を食べ、ウンコをして生きている。死ぬまで。そこを「はーい」っていう感じで僕は通り過ぎてゆく。それに対して何か解釈をもらったり、何か指を刺されたりしたとしても、それは「その人たちがそうしたいからそうしている」のだ。皆が皆、雑多に入り混じるだけ入り混じるけど、そこには町という仕組みしかなく、ほとんどそれはすれ違うのみ。僕は町にいるとき、とにかくイライラしてくるのでこういうの全部を心に入れないでおこうと考える。そう考えるようになるまで、それらは自分への攻撃に当たるのだと考えていたのかもしれなかった。