To be continued

単純な日記です。

去年までのブログを読み返していて、こんな事あったなーって事を思い出したりしていた。昨日ちょうど外で雪が降ったばかりだったので余計にいろんな去年の今頃の事を思い出す…あの店でも雪が降った時は朝玄関を掃除しなきゃならなかったし、たまに店外に出て様子を見たりとかしていた。


当時の書いてたことで今の仕事やめたら本に触れなくなるから情報に疎くなるだろうと心配しているみたいだったけど、実際にこれはそうで今どういうのが読まれているのかとか全く分からなくなった。前は曲がりなりにも「本屋」っていう広いスペースが日々動いてったり新しいものが入って来たりするのを目の当たりにしていて、自分は本があまり好きじゃなかったんだけどそういう流れを見ているだけでも楽しかったなあと思った。こういうのをこういう人たちが読むんだなぁとか、売れている作者がいろんなジャンルのものを書いたり、本出したそばから新刊が出て来たりとか。そういうので見方が変わったりとかした。やっぱりよく見る著者のことは気になり出す。僕は漫画もそうだけどお客さんの影響で東野圭吾とか中村文則とか、あと…あとは忘れたけど色々なものを採ってみる、みたいにして読んでたなあーと思った。

ていう事を忘れていた。ブログに書いてあるのも変化があったりした事でルーティンにしてる仕舞ったり出したりみたいな、ここには書かないような多くの時間を費やすことはまるっと忘れているのかと思うと膨大な時間がそこで消費されてることに驚く。働くってこういう事なのかな?!

で、読んでて面白かったのが人について書いてある事だった。ていう事で今の僕も最近会った人のことを書いて置こうと思う…


まず自分の仕事しているところが実は結構なブラックな会社だったということがだんだんとわかって来た。今年明けてからすぐの二月くらいに拉致されるような形で新しい知っている人が誰もいない部で仕事をさせられていたのだけど、やっている事が中高生のこねくり出したようなアイデアに皆が2ちゃんねるののりで乗っかる、みたいなものでしかなくって、あそこで色々な他人のエグ味を沢山見過ぎたと思う。その辺から僕の方も仕事のクオリティがガタ落ちになる。そこから社員による叱責や吊るし上げが酷くなる。僕自身も、責任は感じていたので何度もその人たちの目の前でやり直したりすることで凌いでいた…けど何度も何度も失敗していた。本当に、ああいうことを繰り返すのは見せしめだとは分かっていても単純な、体のいいレイプでしかない。原因不明の不調はこれが、十一月に入った頃から大分改善されてきた。
そのあたりから部署も変わっていていろんな人と関わったりすることが増えて来た。周りの、僕を見ている人も「人に影響受けるね」と言っていた。そうかもしれないとけど、把握できていない不調もかなりあると感じていた。

文学の飲み会みたいのも激減していてAさんとも会わなくなった。もともと周りの人全員が「あなたはAさんに会わない方がいい」という方針の中でたまに、毎回だけどAが待ち伏せしているから話すというかたちだったんだけど次第に、僕もAの顔を見ること自体気が滅入るようになっていた。なんていうかAはいつも同じ場所をぐるぐる回っているようなことしか話さなくて、それに僕が「良い」「良い寄りの普通」みたいのを言わないと我慢できないみたいな熟年夫婦の悪い関係性のようになりつつあった。

 

けどブログを見ていても思ったけど、いろいろなことがあっても結局人は、こうやって残さない限りかぎりなくそれを忘れていくんだなあと思う。Aや他の人の諍いや楽しかったこと、良くないことであってもそれは関係性上にある◯◯みたいなもので、結局それが「Aとしての記憶」にはなっているんだなと思った。この間歳を取っている人、死ぬ間際の人がいちばんその時になって感じるのは「思い出を思い出すことを、今になって一番やる」ていうことだと聞いて、たしかに、それでしか人間は作れないんだろうなと思った。
だから残しておくっていうのを体力の部分でやっておいた方が良いのかも知れない。
で、最近何度も思ったのが個人的な関係性を他の人がとやかく言ってくることが意味不明だなと感じていて、僕は僕なりの共感があったからA(あるいはB、C)と話したいと感じていただけなのに毎日、まいっにちAいらない理論みたいのを携えて僕に連絡をよこさなきゃならない文学関連の人たちのことをおかしいと思うし、本当に死ぬほど暇なんだなと思ってしまう。僕が「A嫌い」っていうのとあなたがその辺の情報の切れ端をあつめて「A嫌い」っていうのとはぜんぜん意味合いが違う。僕はそれを聞きたくないっていう権利があると思う。だってAがとかよりも僕たちのほうが関係がないから。
だからレイプっていうのは互いの体感の部分で日々無意識に行われているんだと思う。僕は僕だけの考え、思いを守るために、ちゃんとそういう事も書きたい…

で、その飲み会は、別に必要はないんだけどすごくやりたい人がいるせいで定期のように開催されている。たまに、誘いが来たりもしていて会社の人も連れてきてという空気を感じてはいたけど自分はなんかそういうのに普通の人を巻き込むのが心苦しかったので結局は行かなかった。
こういうことを経て自分のことをやはり、根明ではないんだなと思ったし、かなり前向きに文学に打ち込みパーティーやサークル長を務めてやっている人たちはかなり根明で、「正当性がある」として自分らの感情をそこにあげれるという確信からは絶対に目覚めないんだろうなと思った。

 

 

そんななか、僕が遭遇したtrouble

 

まあそんな感じで、今の会社のいいとこに移ってからとくにトラブルというトラブルは目にしていない。だいたいは良くしてもらっていて、殆ど気分で仕事をしているという状態。けどそんな中でも、男たちの集まるところなため何度か権力闘争みたいなのを目にした。
僕が見たのは結局明らかな勝敗がついてしまい、それで解決するかのように思えた。けど何と今、それが全くのなかったことのようにしてなあなあで人々が暮らしていたりする。
結構こういうことって社会の中ではあるのかなと思った。
別にこっちももう過ぎ去ったことをいちいち自分の気分だけでほじくり返したりするより、秩序とか色んな人が利益を得られる会社の方が良いに決まっている。けど、(え…?何もなかった…っけ?)みたいな人たちの姿を日々目の当たりにして、変な感じがしていた。
自分はわりとこういう関係性ははっきりさせたいタイプだと思う。いや、ちがう、テリトリーかも知れない。とにかくそういう…適当がいけないと思う。これまでの流れでこうなった理由もそうだし、だいたい適当にガサッとモテたいみたいなマインドが結構嫌いなのだ。
で、話し合いがついた後で「あやまる」というターンが全くないことに僕ははっきりいってびびっていてた。なぜこの人は絶対に謝らないんだろうと考えていた。だいたい、皆が均等に利益を得るってとこをはじめから崩したのは僕じゃなくそっちなんじゃねえ〜のか。
常々、子ども同士の喧嘩でも「あやまる」というターンが生まれて来ることがあるけど、あれを考えるに、謝るっていうのは相手の気持ちがそこにあるっていうことを証明するために謝るんだと思う。だから、謝ってくださいという時、別に床に、ナメクジみたいな姿でもって這いつくばって欲しいというわけじゃない。そこに僕たちの気持ちが「ある」と思ってない態度が常々良くないんだからわざわざ、闘争が出現してこうなってたくさんの人を煩わせたんだから、内々に処理するんでなく一回でもいいから明確に謝りに来いよって思うんだけど結局、その人は謝らなかったのである。

まあ、どうでもいい。
僕自身も別にほじくり返したりしたいわけじゃない。結局そうやって上の人がレールをこれでもかっていうほどに引き始めたんだから指を加えてそれを眺めているより他はない。
ただこれがごくごく普通の会社で、ごく普通の、良き人たちの中で行われているのを見てにしてこれがだいたいの会社としてのルールなんだなあっていう学びを得られた気がする。

 

 

 

 

 

 

 

どうもありがとうございました。