To be continued

単純な日記です。

空虚さ

空虚な感じがする。僕の身体はいま、ドーナツみたいに穴が空いてしまって、そこを通り抜けていく風とかを聞いているのである。面白い映画を見た後、本体がそこにあるような気分のまま、偽物の自分だけ現実を行かなければならないような…それから、創作することだけを本来の自分だと思い込む。僕は何かいま創作とか空想すること対してジャンキーになってしまっていて、そしてそれを全部この間見た映画にまるっともっていかれたように感じている。僕は、水を飲んだりするのだけど、それもすべてその穴から「ザーッ!」と流れでてってしまうような気がしている。ドーナツの穴を再び塞ぐには、もう同じドーナツを毎日食べるのでしかなくなる。けどその映画はまだワンシーズンも終わっていなくて、先がまったくわからないのです。こんなことってあると思いますか?

ところで何か僕は、二年ほど前から創作について議論することに虚しさを感じるようになっていた。それから、自分の作るものはどこか作り物なのだという冷めた目があり、それがずっと常にあるような感じがしていた。このことを何回か言ったのだけど正直、真意みたいのは自分でもつかみかねる。けど、「僕、ではないよね」という感じ。それは僕ではない。僕からのメッセージ性でもない。絶対にそれは、ない。だから、自分のことをどう評されても、何かどこかが違うと感じていて、それはまるでちゃんとした評価をもらえないためのわがままだと感じられていたことだろう。僕はずっとそれは、作り物だと感じるようになっていた。「こういうこともあるよね」あるいは、仮定、訪れなかった未来、そういうものが多い中で、多く作り出される。つくられた虚構の世界は、僕の生活に影響をもたらすけれど、不自然な気持ち悪さを日々、生み続けた。毎日があることに対して意識しないでいることはとても多くて、それが誰かの一言で消えてしまうようなことだった。自分がしなきゃいけない、そんな感じでいる時の気持ちは、もうまさに高過ぎるプライドだろう。僕は、それが毎日だった。僕はべつに、叶えられなかったことに対して涙を流すような女になりたいわけじゃない。僕はだから、心地よさからしていたわけじゃないし、そしてそれがすべて本当なのだとも言えない。どう言えばよいのだろうか。僕は、だからそこにある、そもそもの意識のずれというのさえ意識しないで話すことは、それは嘘だと感じた。そしていつも、誰と比べてもそもそも「何のためにやっているのか」ということは大きく違った。
僕が思うに、多分言葉の性質というのは、その一言に留まるわけじゃない。けど、その人が吐いた言葉は、その時点では常に真実でその人を表しているとも思う。それは、言葉は、総合的に判断するようなことだ。だから、切り取ってその真意を探るのも馬鹿馬鹿しいことだし、極端にすべてを信じないというのもどこかおかしい。なんていうのだろう。僕はその、タイミングも、それからその人が言ったのだということも大切にしたいし、それを優先するためには、一番重要なことを伝えないままでいることも多い。変質していくことや似合わないことを殊更に取り出してしまえば、あとは虚しさしか残らない。そういう、なんとなくで把握し、ニュアンスで理解したことを、僕は誰かから、本当なら常に言って欲しかったのだろう。僕は多分、やはりこうなると、僕の作品ではなく、僕自身を理解してほしかったのだ。僕が何故そうしなければならなかったのか、それをも込みで。させられる気持ちにまでなって、高過ぎるプライドを持て余して、何かを壊す恐れがあってもて自分の正義をそこに置いて、そうやって作った「うそ」を僕は、けど何かで評されても何かそこに双方向性は失われていると感じてしまっていた。僕は17歳なのに10歳のお祝いを常にしてもらっているようなちぐはぐな気分だった。皆の願いばかり叶えられる感嘆、それから喜怒哀楽を僕は毎日見る。いや、もちろん、話せるひともいた。それは一人だけ。僕はその人を尊敬しているのに、その人と話す事すら人から後ろ指を刺されてしまう。で、そこにいつまでもあるのは金銀銅の賞のレースで、ぺっかぺかに着飾った人たちが、有り合わせの言葉で話しているのを見ると、僕は本当のところ腹が立ったし、自分がその中に入ってしまったときもいつも「ちがう!」と言いたかった。僕は評されること、評価されることに苛々し、そもそもそれには期待はしなくなった。友人も、先生も、恋人と、全員何もわかってないと思っていたと思う。言葉の話に戻れば、だからその言葉そのものの性質をきちんと把握していない人は多いし、その人がどこまで言い、どこまでいってしまわないか、僕はそのことさえも、やはり気にする。「あなたはこういうつもりでこういうことをする」そんなこと、合っていても合っていなくても、その生半可さを僕は時々殴りたくなるのだった。けど僕だってそれを、多分人よりも間違えて来たところだったりするのだろう。けどそういうとき、その場所と、その人ということはとても大事で、それは切っても切り離せない。僕はその場所でそのとき、それを吐いた。作った。

やはり小説で人は救えない。絶対に救えないと僕は思ってしまった。それはもう既に、完成させられてしまっているからだ。僕はそれを前にして僕の手に何もないことを思うのだった。小説は、切り取られ整然とさせられたモノなのだった。それは、時々虚しいと思う。空虚な人たちの集まり、空虚な空想、理解してもらえなかったことの多さが増えていく行為。僕はそう感じていた。僕のことを理解してくれようとした人がいて僕は嬉しかった。それから僕は、やはり自分をこのままの性別で受け入れられることを待っていた、そう言われても最早仕方がないと思った。その人の存在、吐いた言葉、今の時点でもう嘘になってしまったとしても、それから僕に対してでなかったとしてもその感情を僕は、真っすぐに受け止めてしまい、今までのどんなことよりもずっと嬉しいと感じた。