To be continued

単純な日記です。

理由

理由って自分のためにあるんだなと思った
特に友人とか親とかこいびととか
考えてみれば色んなことをなんとなくで選んできた
猫もたまたまペットショップで会っただけだし
たまたまうまれてきた親と、
たまたま席が近かった友人とか
何となくいまも居るって感じで、
なんで?どうして?こんなんじゃなかったのに??
と考えるたびに自分の理由がたくさん出来てしまった
けどよく考えてみたらなんとなくはじまったことにはやさしさがあった
こうじゃなきゃダメっていつもいう相手は完璧で素敵だったが
ときどき身の回りのものみたいにわたしを虐めた
それからわたしを型にハマれば自分なりの
完璧になると思ってまったく無意識にわたしをいじめた
こうじゃなきゃだめっていうルールはいつも
自分のためだった
いつも他人のためじゃなかった
で、なんとなーくではじまったとこに今もいて
その後にずっと続いてしまっている毎日に、
色んなことをゆるく注いでくれる
やさしい人は自分から選べるって思っていなくて
なんでも、イイものみたいのみつけるのがうまい人
イイもんに囲まれてずっと満足はしない人
そういうのはずるがしこくみえてた
身の回りとかルーズでなんの決まりもない
なんとなくはじまったことに、誰かがいい加減だと思い,
周りもそう言い、
けどなんとなくでもどうにかなるって、
どうにかならせるのがうまくて、
他人からの評価に無頓着だったりして
自分の価値観がちゃんとあるから
そうなってるんだな
ー。





(これは、反省ポエムです)

わたしに向かって良い子だね、と吐いていき、未だにこれからもここには居るつもりみたいだった。わたしは、あなたよりも10歳も年上なのに?と思い,それがあなたが体裁を保つときにする態度なんだなと思う。大人が子どもから言われたくないことを言われたときにする仕草そっくり。だったら傷ついたって言えば良いのに。それがあなたがわたしのためにする事なのにと思うが、そんなふうに、不本意にも飼われてしまってはいるが,わたしも、これからは新しい生活がはじまるのだと何か期待して居た部分があると思う。けど、続いて居たのはこれまでと同じようなことの繰り返しで、それに小さなお盆に対してもっともっと山盛りに料理をよそうみたいなことだった。

自分はそんな言葉でコントロールされるようなつもりはさらさらなく,これまでの親同様に男は皆,相手がもっと複雑怪奇な心理を持っていることに気づいていないと思う。なぜって、それは選べるところに自分がいると思っているから。親,兄妹、他人,そういう本気で誰かを愛して煩わされたことがないから。知る必要が無いから。それは、動物だから。

わたしは最近自分らしい格好を厭わなくなってきたのも、客観的に見れば抑圧されてきたところからの解放にあたると思う。これまで、それは毎日言及をされてるわけじゃないが、何をして居なくても容姿や性別対する嫌がらせは当たり前としてあり、周りの女性や男性とずっと並べて比べられてきた。それがずっと当たり前になった。わたしはとにかく,手段もなければ思想や関係なんかに関して物凄く貧乏だったのである。いまはわたしから自由を選べるようになり,それで男達が、誰かの苦しみを見て、自分は永久的に食べ物を与えられるところにいてすくすく育ち自我を大きくさせていった反対側にいて、わたしの方がいまやっと育ってきたんだと思った。そんなふうに、バランスが全くおかしかった男と女としていたあとで、男と女のバランスが取れるようになり,世界はどんなふうに見えるようになるんだろうと思った。わたしの方から男の態度を無視して、衣服や娯楽なんかで抑圧から解放されるようになり、女からも今でも何かを言われたり,些細な欠点をあげられることもあるけど,何を言っているんだという感じ。わたしがわたしとしていれば良いと思っているとき、そうやって降り注がれる言葉は,親しい人間を装った負け惜しみにしか聞こえないと思う。わたしたちは親しくも無いんだから,見られる筋合いも無いし意見される筋合いも無いと思う。自分だって比べたら,猿みたいな顔をしてる癖にと思う。

何かを書くことに対して,義務も必要性も感じていない。けど相手に親しみを感じていれば、少ない材料で、楽しんでもらおうと思ってやる事もある。でもそれは強制される事じゃなく,かけと言われるから,ほら、こんなふうに本音をたくさん入り交ぜて書いてやっている。わたしは全然納得なんかしていないって事だ。

相手のことを見て,自分をわかってくれる事もあった。わたしも伝えるべき事を、年上とか経験者として言いたくなる事がある。皆、プロだから,普通の人よりなんでも出来るんだと思う。読みも書きも,それは当たり前に出来ると思う。けど、そこから相手を感動させることはやっぱり難しい。難しいことを創作家はそれでもやろうと思ってやる。演じる側はそれに乗っかってやる。どちらも難しいことかもしれないが,お互いのくるしみは分からない。分からないんだったら、子どもをあやすように適当な声をかけて来るなとも思う。そこが追い立てられていたら嫌になるところなんだと思う。もっともっと楽しみ以外の苦しみや言い訳なんかを見せて,自分も汚いんだと自覚すれば良い。それがまず一歩で、すべて責任を追ったあとの人間らしさをこちらから自然に愛させてくれればいいのにと思う。


ワーカホリックについて

わたしも以前はワーカホリックだった。どこかにみとめられるために書いていなければならないんだと思っていた。詩…それだけじゃだめで、小説を書かなきゃならない。短歌も、ひとつの形にしなきゃならない。けどそれを,どこかで見せて,認められる先があるからそれはやっている事で,その先々に苦しみしか無かった今はほとんどそれが去勢されている。でもワーカホリックでいる間は、止まっちゃいけないんだと思っていた。止まったら,自分の中からの、もっとやらなきゃ、もっと知って,書いて,良いものを作っていなきゃという声が出てきて,自分の中の負けん気がすごく苦しいと思っていた。だから自由を楽しむことなんてまったくできず,それからそういう精神状態でいれば、時速150メートルで走り続ける車みたいなものだから、おのずとゆっくりだったり、止まってるように見える人に対して「何をやってるの?」とも言いたくなる。色んなことに気づいて色んな意見を持っている間,ぼっとして自己満足をしている人を見るとバカなんじゃないかとも思っていた。

確かにそういう時は成長していたんだと思う。色んな事を書いて,感心してもらって、けどそれが幸せだったかと考えれば、二度と戻りたく無いと思う。生活も破綻していたし。けど今はそうじゃなく,もう病気と暴力、それから加齢、貧乏で何もできないんです。そうだそれでも、人を見て書いてきたんだから、良い人がいれば書ける気がする。けど、他にも色んな事をしていないと、やっぱり自分の体のバランスが保てない。何もかもが足りない,世界に対して何の期待もしなくなったいま、書けと言われている意味がまったくわからないでいる。自分も、他人も苦しめて,誰も感心しない。自分が問題と思っているのは、自分が作ったものをこころから楽しめなくなっていること。何かどこかうわついていて,今そこにあることに,感動し切れてない。書いたものがキラキラしてるように見えない。それは作品の出来不出来というより、心が乗ってない気がする。ここじゃ無いと思ってるのかもしれない。なぜか、考えるが、不本意というのが根っこにずっとあり、それはわざわざ皆で会わなきゃならない場で目を覚まされることもあるし、わたしがこんなに年上で,本当は教えたりする立場なのにこんな事をやって助けてもらってるように感じるというとこなのかもしれない。

もし自分のことを客観的に見れば,わたし自身はこんな集まりの中でからかわれるような場所にいるんでなく、専門的な知識を持ってる年配の人と沢山関わり,色んな事を学んだり,教えてもらったり,認めてもらったりするべきだと思う。自分と同じくらいの人と切磋琢磨したり、それがきっと幸せなんだと思うが,結局、権力から閉じ込められて、へんな男からずっと揶揄われてるのという不自然なとこにいる。だから溜まっていくのはひとはちがえどずっと同じような感情論ばかり。ずっと同じような事を繰り返してされているんだから当然と言えば当然だ。

おわり

AさんB子さんCさんから手紙が届いた。いろいろなことが書かれていておもしろかった。自分では気づかないようなことも色々書いてあった。こうやって、他人の心の様子というか形みたいなものを知るのは面白いなと思う。それから、自分の人生とか過去みたいなものを思い浮かべてみて、何か偽物みたいな、嘘くさい感じがまあまあして来ていた。それか、病気なのか、自分が信じている部分と、表にある部分があれど、皆が言う事と未だその部分が重ならないような気はして来ていて、嘘くさい感じはしてきていた。こういう生き方をしていて、プライバシーのことを考えるのは大半を占めていたりするけど、もしかすると別に今のように見たくないものをわざわざ見ながら,文句を言いながら,しなくても良いことを必要だとしやっていかなくても生きていけるんじゃないかと思った。例えばこうやって,写真や思ったこと,考えなんかを見られたり盗られたりすることをわあわあ騒いだりもしてるが、猫なんかみたいにその瞬間感じた事だけがあると信じ込んで生きていけば良いんじゃないかみたいな感じにたまになり、二十四時間をそれで埋め尽くせば良いんだと思う。そんな風に考えれば、ずっと昔はプライバシーなんてなかったのかも知れない。この間読んだ雑誌にも書いてあったが,仮想通貨や電脳世界が今はある世界にいて,その中で自分が主に何をやってて周りの人が何をしてるのかを考えたりしていた。わたしも趣味のことや,ファッションなんかを見ていて,真似をしたりする。それで、皆に見せたり教えたりしたくなるのかも知れず,それ自体,言葉の発祥と同じように,同じものとしてあるはずだった概念を、別の人の別の側面から作り出し,それを交換しようとする…それが通貨とか言葉の交換の働きみたいに思えた。自分はそれが発見だと思った。皆が同じだと信じ込んでいる、というか、そういう定義をしたあとで皆やっと、わあわあと関係のない争いをやめてイチから話し合いや思想を交換するようになる、そんなふうに無理のある定義が、こころの形を無理しているのがいまで、それは画一的に悪だとは言えないが,人ってやっぱりおかしな生きものではあるなと思った。自分も猫を見ていて,こんなふうに黙って暮らすだけで良いような気もしたけど、やっぱり仕事の合間や息抜きとして色んなものを見たり,情報を得て,自分の考えをもっと突き詰めたいときなんかは、そういうネットに触れてみたりする。けどそこはやっぱり定義されながらも定義されたがらない人が無茶をしていたりして,自分もその事に気づかないで入り込んでたりしている。

思春期的病のこと

自分が関わってる人とか期待してる相手のことを皆が見ていて,自分がそんなに不安に感じてるように見えてるのかと思った。ゲームや、未来に対する希望を込めているというより、いまも自分は病気にさせられているんだからという考えが強固にあるみたいで,だからそれを治してくれる相手,もしくは実現してくれる相手なんだと何処かで思ってはいると思う。だからその役割に対して向こうからどう感じているのかは知らないが,わたしは「医者」として相手がどれだけの能力を持っているのかをずっと見ている。自分は病気ではなくて思い込んでるだけなんじゃないかとか,あまり周りからの圧力がない時は,その辺も思い出せなくなっていたりする。けどわたしも、医者を査定したりする。わたしが怒り狂ってるときにうんざりし,誰も何もやって来てはいないのに、ただ悪意のない相手に怒っているわたしが全て悪いから、それ以上しゃべると,もっともっと悪いことが起こって,それだけで自分を損なうというのがこれまでの教育で、中盤は,それをめちゃくちゃなピンク色に染めながら、じゃあ、また金曜日に、とか言うのがお決まりだった。わたしは相手がいつまでいるつもりなのかも見ているし、嘘をつくならそれが何のためなのかも見ているし、そもそも,なぜこのこと自体を肯定も否定もしないで突っ立っていられるのか,その事についてわたしが怒りをぶつけたらどんなリアクションをするのか、全部見て,相手が未だそこにいても良いのかを検査している。すべて病気と,その裏にある家族がもしなければ,そのすべてを明日にでも忘れ去って,自由に生きてるのかもしれないが、わたしはやっぱりそこをたどって生きていかなきゃならない。わたし達は対等ではなく、年老いた動物と、しろうとのような医者がそこで対峙していて,その限られた空間にどれだけの興味が保たれてるのか、それが結局自分が生きてるときの空間でしかないんじゃないかと思う。

界隈と自分

劣等感について色々感じるが,いちばんは、自分のしてることに何の意味があるのかという事だと思う。

服を決めてそれを着て外に出て,また考えて、そういうのはどこまで失敗か,よく出来たのかも分かりやすいし,選ぶのも全部自分だから面白い。けどそもそも、自分がつくるものは自分と近過ぎるのと、結局自分をあまりわかっていないと感じる。数年後いまの自分を見れば,たくさん分かることがあるのかもしれないが,わたしはわからない。わかってないことにも驚いたし、他人事みたいに何か皆が皆素直に歌を歌っているのを見ていた。

自分はただの事象なんだと思う。誰が喜ぶのか、得をしたり損をしたりするのか知らないが,そのことを知った後で、あんなに全く知らないような人間が、意地悪をしながらもでも、興味はあるんだよみたいな無理ある訳の分からない態度を山ほどして来てくれていた理由はそれかと思った。「山」だったんだと思い,そこにほんとうの自分はいるのか…と聞かれて,別にないような気はした。これが、自分がそもそもばかばかしいと思う理由だった。そこに気持ちも入らないし,そもそも何かを得たり興味があったりするのではないのに、人だけは大勢こっちを見ていて,痴態を散々に披露してえばって行っている。自分が何かを作るのに夢中になっていた頃あったように、正直,相手が誰であろうとそんなの知らないっていうか、作れさえすれば良いと思っていて、ゴチャゴチャ言ってくんなとさえ思ってたと思う。そういうとき、中にいる人なんて気にしてはいないし,そういうとこの先に自分はいつもいて、だから平気で無視もできるし、二枚舌みたいなことを言いながらテレビでは、ブリッコみたいな服を着て出ていっても自己の矛盾と酷さにたいしては精神が崩壊しないでいられるんだなあと思う。けど、自分もそうだったからわかることで、だから創作は結局、もちろん非情な気持ちから行われてることは沢山あるんだろうし、いまさらそこに感情移入するとはいったいどういうことかを考えたりする。

ここ最近はそういう、これまでにあって来た実際の関係者のクールをよそおうというばかばかしい態度を思い出しては,そんなふうに考えていた。自分こそが史上で、そこに知らん動物がのっかっているみたいな。けどわたしも、知らない人のことなんてどうでも良いとずっと思って生きていた。とにかくつくるとは、そもそも大半はそういうものだと思う。そうでないならただ全員馬鹿みたいに涙だけそこで流している筈。ひとさじの自分勝手で作り出して,その後は嘘をこきたおし自分の身を守っていく。だから界隈には当然クズが多い。






詩①許さないはキモチイイ」

よってたかってああだこうだ

いろんなことを吹き込んでは

うそばっかりついた

まだなんもわかってない相手にあれこれ

ふきこんでどうリアクションをするのか

コソコソ見てて

うしろで吐き出したりしてたのしんでた

それがおとなとこどもの違い

それが大人と子どもの違い

いま、大人になって用意されたものを見るに

わたしはこう思っていた

「だ  ま   さ   れ   て  た」

「だ   ま   さ   れ   て   た」

わたしは許すか許さないかを考える。

わかんないようにされてたがきんちょとはちがって、

大人にはその権利があるから

年老いたババアとクソジジイを見て

よぼよぼのうたをみる。

なんで

わたしのこと、

だましたの?

って、

し   ぬ   ま  で

その理由をきいてまわるんたょ。







詩②

こころってたしかに天気予報図みたい

晴れている時は幾らでも優しく出来るのに

土砂降りのときは晴れ間を探して彷徨ってる

分断に分断を重ねた地図帳の上、

それを治してくれた人が…いまはどこへ?

分断に分断を重ねたわたしの地図帳の上、

そこがまだ雨だらけで何も見えない

何も見えない なにもみえない

何も見えない なにもみえない

晴れている間はいくらでも適当なこと言えるのに

土砂降りになるといくらでも、あのときのわたしとして掘り下がっていく

もっともっと深いところへ

もっともっとほんとうに一人の場所へ

わたしはかなしみにはふれない

それはたった一人では触れてはいけない琴線だから

それを治してくれた人…いまはどこへ?

彼は、分断に分断を重ねた人たちと仲良くして、

いまもわたしの悪口を言ってたのしんでいる。

わたしはいまも土砂降りの中にいる

だから何も見えない なにもみえない

なにも見えない 何も見えない

電車賃五円置いとくね。

I山(年下)のこと

昨日行ってきた集まりで、僕のことを応援してくれていた人が来ていて、その人は一応文芸界隈のえらい人なんだけどこれまで殆ど僕が知らなかった紆余曲折について偉ぶったりとかしないでいろいろと教えてくれた。その間、実はその人が僕の隣でずっとポコパンをやり続けていたんだけど,自分はここ数年ずっと死にかけVRおじさんみたいな人としかずっと話させて貰えなかったのでなんでお前は人の目の前に来てポコパンをやるんだと思うよりもっと自分がジョングリア孤児院にいるジュディみたいに強めのジャブみたいのを打ったら仲良くなれるのかもしれないとその時まだ考えていました。で、とにかくそういう時間が過ぎていった。で、そこにある飲み会のメンバーにとってちょうどええ気分の説明で、ここにはそれよりも、メンバー以前に大きな問題がひとつありました。それはこの狭い部屋にいる全員が,話す内容のひとつひとつを部屋にいるでかいおじさんから聞かれてるということです。でその間,おじさんの方からも話しかけてくれることはなく、ポコパンをやってはいるけども既にいつもみたいにキレてから来てるんじゃないかと結局急転直下かもしれないけど何の意味もないていう気持ちになっていた。それは、そもそもこっちは知ってる。そもそも、自分のいる場所を推し量れないような相手がなぜ,さも知ってるような顔でゲームしてもいいと思ってるのかというか、こういう飲み会がピカルくんの後についてくだけみたいなゲームの中にいるときに不自由を強いられてる私から、いそいそ来た人が何も言わないで取る態度かと思った。だからその無礼に対してもう、自分は何度も繰り返されてきたことだったので炎上してるみたいになってきてて何するも決めて来ないで、そんなことでどうするっていう立場を突然得たみたいで怒ってたりもした。で…その人界隈のそれまでのこと、実は僕には記憶も経験した事すらもない全く未知の領域のまんまで、その人らにこれまで会ったことがある…のかもしれないけど実際どうなのかも分からない。分からないって思うのは機能的に大丈夫なのかなっていうのもあるし、あとは例えばこの間写真を整理してるときに記憶にある思い出みたいのが自分の経験した事/実際にあったことって1:9くらいの割合くらいで人ってほとんどの事を記憶に留めないで喪失して言ってるんだなって改めて思ったって事にもあった。今更、仲良かったかどうかと聞かれてみて、一応知ってる」っていうレベルの存在。一応それでも話が膨らんでいくのがこういう場所なんだなとは思うが、で、その後、一応その人のことを横目で観察していたんだけど、何か僕に向かってわざわざ◯択みたいな質問をパンチみたいにして来ていた。でもまず、そもそも全く知らん同士がいて、そんなことするの凄くつまらないし、なんで取り返さなきゃならないみたいな考えになるのかと思った。おじさんはごくたまなけど親切で来てくれてるのは知っていて、僕がキレてるのはその下に余ってる重宝する話題みたいなものの存在で、こうやって根も葉もないとこから問題を探り出してわざわざ盛り上げてどうするっていうことなわですがここに居るおじさんの願望として放ったらかしにしてたであろう個人的な問題について、中1が急に威力を発揮してみたら止めどなくなり過ぎて「ぶち壊してくれ」みたくなってるみたいな気持ちがあるらしくて、けどそもそもそこに五年前くらいから放置されまくってたパンダくんの問題も,今になって見てみたらどこもいいとこがなくて負の部分→全て天国、それもフグ田サザエさん一家の方のこととしてしか浮かばなくなってきてるので、掘った穴に全部自分がハマりまくってたってところから来てるっていうだけ。この辺りについては、多分当の本人達が感情っていう合成薬物のせいで過去のこと、それをした理由、紆余曲折色々わからなくなっているみたいなんですが、全部見てたこっちから言わせてもらえばそうなっています。なぜそう思うのかというと、パンダ君は感情的な問題を自分では解けないほど単細胞だからっていうのがこれまで通ってきた筋道で明らかになったからです。でだから、今から何をどうせよとその事実には確定ということ以外なんの影響もないってことです。で、僕がもし自分の口からそれを言っても「もっと」ってなると思ったので黙っていました。まず、こんなつまらないことと自分や仲間が関係あるとおもわれてたまるかとなるのが普通の考えだと思う。それになぜ、この人達は顔を合わせるたびに俺にもこの手の質問をかましてくるようになったのか。?!

自分は考えてたけど多分この人たち自身が着地できるような場所自体が、「それが気持ちエ〜部分っていいまくる」以外何処にもないんだろうなとは思った。人は,嘘をつく生き物なんだなって本当に二十四時間思わされてました。それはたしかに、生きる上では大小さまざまな嘘は付いてきました。でもひとつつき,もう一つつき,それをカバーするためにもう一つ嘘をつき,それでもって、気持ち悪くなってる精神でまた人んちの前でゲロ吐きまくってるの見てたら人間の中にはたしかに,魔物が住んでおり…ていう感情のみになってくるだろうと思う。でも自分が通ってきた道すじ、認められないならきっぱり諦めればいいし、それでもそれが自分だと思ってるなら、ぐちゃぐちゃでも何の関係があるんだよって胸張れば良いって普通は考えませんか?だから僕は、こいつら全員が馬鹿なんだろうなと思ってるのと、で、あとは関係ないかもしれないがこういう進化をたどった後で着るファッションが他人が用意してたちょうどエエ〜部分だったとか、仮にもクリエーターを志望してるくせに冗談ぬかすなと爆笑しながら思ってたんだと思う。それでもいいんならそもそも,はじめから奇異を衒う必要が、あったんかと思うし、だったらこれからは喜びまくってサラリーマンでもやってろと思ったのと、それでしかもすべての話を聞いてみたら持ってくる荷物自体毎回,おまえの問題だったんじゃねーかと、こっちはその態度のせいで界隈に対しては毎日キレていたんだと思う。

答え合わせの後でも、宇多田はピカッピカッ★★

で、話は戻りますがその人個人について、それが、今VRおじさんというか、ビデオを撮りたがったり、偉ぶってくるタイプの人じゃないみたいだ。十数年いきて来て,どういう地域出身とか年齢とか性別うんぬんよりも、無意識なまま喉が乾いたら即エラぶってくるみたいな人間を最も苦手とするようになっていた。

それで自分も、いい歳して話しかけてくれたおじさんの全人生についてなんとなく知った僕は、自分個人の人生についてもあらためて考えはじめました。僕は、10代の終わりの頃にもう既に自分の両親は自分の中で死んでいると感じながら生きてきたんだけど、別にそれだから,これから何だというわけでなく、それはグッピーがただ何も知らないままでもずっと生きてこられたみたいなタイプの話で、だから10代くらいで自分は母〜女親に対する興味はもはや喪失してたみたいで、なぜかというと自分のオヤは、自分に対して愛情も多分注いでくれたしそのせいで自立だけは早くに他人みたいになった上で,それ以外の面ではとにかくこいつらが、精神的に自分よりもずっと子どもなんだとずっと感じて来たからみたいだった。

お母さんのことで宇多田はピカッピカッ★★

自分の母親は仕事も二つ以上あり友人も沢山いる人で明るくて,人付き合いがいいみたいに見えてるような人なんだけど近くで見てる人間にとっては細かく言うと,何があっても反省を一度もした事がないんじゃないかというようなタイプの人で自分とは全く重ならない感情とか論理で生きていて,それが良い影響を与え合うと言うこともあまりなくて会話自体が成立しない24時間がずっと続くみたいな女だった。思い返せば二十代はとにかくそういう感情がハバをきかせまくってるところから逃げたいというのがこっち側の感情としてあり、一方で父親は癇癪持ちでこっちも会話が二十四時間成立しないみたいなまともな人間だった。でもこっちの人はそれ以外の偏屈な部分や顔や体格は自分にそっくりだったから、自分にはこういう遺伝子が元からあって,引きこもりで偏屈で人を意味なく嫌う危険要素みたいのがあるんだなと思って見ていた。で、さっき書いたけど普段から会話も成立しない人だったせいで何を考えてるのか、どんなふうに生きて来たのかとかも全然知らなかったし、「よけて」っていうこと自体出来なかったので待ってるか、Uターンして違うことをするみたいのが日常的にあって、自分が子どものときはそういう人格で世界にずっと存在してたかもしれないと思う。だから自分は、誰とも関わらないでそこにいるのが普通の状態だった。それで、待つ」かUターンして違う事して時間潰すみたいのが二十四時間ある生活だった。

例えば、マザコンみたいな人の方がずっと多い中でなぜ自分はマザコンにならなかったのか,もともと身体が不健康過ぎるというのもあったのかもしれないけど、これについては二十年以上ずっと一人で考え続けた結論として自分には、感情の元になる「ホルモンみたいのが異常に少なかったんだなと思っていました。

お父さんのことで宇多田はピカッピカッ★★

で、結局父親という偶像に憧れ続けた10代の僕はそれを探しながら失望を繰り返して,いつのまにかずっと自分の中で作ったどこかにはいる、頼れる父親=正義みたいな存在に憧れていた。僕は、無いものはいつしか自分の中で作り出せると思い始めたみたいだった。で、そういうような人と会うたびに、その人が自分にとって納得のいく正義や論理を持っている事というか、それがちゃんと体系立てられていること、それが僕のような人間を凌駕していること、それからいろんな人をも導いてくれるようなことをずっと期待していて、そういうことが本当にいつかどこかで起こるべきだと感じてずっと生きていたんだと思う。

一応この辺は自分にとって熱くなるポイントみたいなのでここは、泣きながら書いてます。

あと言いたいのは,自分が憧れてるみたいな相手に対してはわかりやすく片一方で危険なほど崇拝し出すので遊んでるのとはちょっと違うんだよなーって一応書いておきたいですね。自分が何か,がばがばだと思ってる人もいるみたいなので


自分にとっての母親〜父親みたいなのを僕はどこででも見つけることができなかった。けどそういう線上にいるというか実は,自分が成長しきれなかっただけで予めそこに居たんだなとそのときなんとなく思ったのだった。それが自分にとっては新鮮だったのと、そういうことを強烈に感じたりとか、時によっては全く理解できなかっただけだった以前の自分よりも、自分のことや身の回りのこと,過去のこと、人生のことが色々分かるようになって来た今,なんというかその人達も人間らしい人達だったんだないう事が分かったのと、自分ももう35歳を意識しているのに「大人になったんだな」って何か思っていました。

クソガキ様についての話

ホラーゲームの黒船

最近YouTubeで、今流行っているガーデンオブバンバンみたいなホラーゲームを観たりすることが時々あったんですが,あれを見てると何かYouTuberの人と一緒に驚いたり、怖がったりしてる気になって勝手に「親しくなってる」って何か感じてる自分がいる…って思っていた。普段はだいたい、YouTubeの民を冷笑みたいな感覚を持ってるんだけど、芸能人=より近い友達みたいな感覚ってこういう経験から来るんだなって何か改めて思った。
それで、あまり関係ないけど周りとか見渡してると本当に人って人というものをよく見てますよね。こいつの懐になら入り込めそうだなっていう人ってやっぱりいて、自分はなんで,優しさというものは存在するんだろうってずーっと見てたりしてたんですが、一方で別に意味なく頑なでうるさそうだなって人もいるし、そしたらその相手に対して取る態度とかも全く違うみたいなある新人さんを見てて「へーっ!」て感心しきりで居ました。懐に入り込めそうって、思ってるんだなというか、その判断って罪を許してくれそうとか怒るのが億劫そうみたいな相手だったりするんですもんね。その人は,僕に対しては融通が効かないおじさんだと思ってるみたいで、ていうか言うことを聞かないやつとかは皆悪い人間だと思ってるみたいでそういう相手に対しては無茶苦茶な嫌がらせをして,そのあとでそういう優しい人のところに行っていつもいい子いい子してもらうのが良いんだと思ってるみたいです。それで毎日毎日聞こえるところで悪口を言ってるような人なんですがそういう原理で今も昔も変わらないでずーっと,生きて行くつもりなんだなあっていうのが本当に不思議で、こういう生き物ってでも子どもには沢山居そうだけど大人の中にも一定数必ずいて、またそれを世話する人っていうのも沢山湧いてくるものなんですよね。庇護したい」って、自分がよく言われてる間はばんばんそうやって搾取されて行くような感情なのかもしれないですが,本当に人間ってまったく自立なんてしてないんだよなーって感じて見ていました。

あまり関係ないが、自分のこと

それでこれ以下は、単なる呟きだと思って読みたい人だけ読んでみてください。で自分の人間関係とかを思い出してみれば自分は、おたくで引き篭もりだと思ってる人も多いみたいだけど、僕の場合口数が多すぎて,考えるよりも先に話してリアクションも回収してかないと気が済まないみたいな人とか、どこに居たとて所属の域を出て感情的な人がとにかく苦手で,それ以外の人だったらわりとどんな相手でも受け入れられるタイプなんだけどなって自分では思ってました。何か,その人の強めの正義に合わせなきゃならない時間とか、そんなに色んな人物像とかに対してしゃかりきになって生きてる人といるのって疲れないですか?だから、一番苦手なのは既に自分の中でキャラ作りが終わってるみたいな相手で,それが外でも達成させたいがゆえになんできみは、カマちゃんに話しかけるみたいにしてくれないの?っていうケースで、僕がカマちゃんっていうキャラが飲み込めない⇔飲み込んでくれないとカマちゃんが気持ち良くなれないっていうやり取りが死ぬまで続くときが地獄みたいにして存在していて、でも、一応だけど世間にいるのはカマちゃんみたいな人ばかりじゃなくて、山ちゃんみたいに舞台の上ではキャラクターでないといけないけどそこから降りたら普通の山口さんでしかないみたいな人に対しては,一応仲良くなれたような気がします。で、どこに属してたとしてもアッてなって向き合った時にこちらに言葉を合わせて話してくれる、ていうその1ターンだけでも全く違いますよね。というかそもそも、相手に興味すら抱いてなくて,自分のことに百倍興味を持って生きてるみたいなティーンの人も,三十を超えた時点で多くいたりするのも事実なのかもしれないけどそれはもちろん出会い頭の挨拶とか、毎日毎日掃除するだけの日常でカマちゃんだったら「ツマンナ〜イ」ってなるような時間として出てくると思うし,そういうとき自分勝手に機嫌悪いせいで挨拶してくれない(特に下と見做してる相手)人ってやっぱり要所要所で何かが噴き出してくるのが早いですよね。本当にこういう挨拶を欲しがる相手に挨拶をわざわざやらないみたいな人,社会のなかでめちゃくちゃいっぱい居ました。だから普段はわりとめちゃくちゃで好きな事やっていても、いざ人と会うとなれば誰彼にたいしてもその1ターンを保てる人っていうのは結構どこにいても人気があったりするような気がしてますし自分の仲良い人は例え相手がトイレ掃除のおばさんだとしても皆それが出来る人だよなって思ってました。







バーーカ

寂しいと僕が思った事

今日は、四時半過ぎに起きて仕事へ行って、それから休んだりする時間もあったりはするけど夜8時くらいまで働いて帰って来て,家のことをやったりご飯食べながら文章を編集し直したりしていた。それで、一日にだいたい三時間くらいは書く時間を取れるっぽい。けど、その中でずっとがっつり新しいのを書いてすいすい進んで〜て言う時間ばかりあるわけでなく、最近はだいたいちょっと前にざーっと書いたのを手直ししたり,文の繋ぎ目を直したりしてたらあっという間にその3時間が終わってしまってたりする。それで、あとは明日の準備とかをしこたまやってたりするうちにどんどん「鬱」みたいな気持ちに覆われて来るのだった…本当はもっと文章を書きたい。けど、平日三時間…て多いのかもしれないけど集中して書ける時間はそれくらいしかない。で、今の仕事もまた殆ど事務作業みたいなものなので前も書いたけどとにかくひとつの事をやって→完了ってなるような仕事が殆どなく
一つのことのために準備,準備,そればっかりしてそれがいつ終わってるのかもよくわからないような内容。だから一日中なにやってるかわからないけど時間だけはめちゃくちゃ無くなっていって、それも「やるだけやった感」だけが手に物凄いずっしりと残っていて,夜11時くらいから何とも言えない暗い気持ちになって来る。考えれば、四時半に起きてるんだからもう寝た方がいいんだ。寝ろ,っていうサインなんだと思って寝たりするんだけど,でも今の歳になって、こういうのが1日のサイクルなんだなって改めて思った。昔は,二時三時とか当たり前に起きてたりしたのに、今はもう次の日の仕事が出来なくなるって分かってるのでそんなことも出来ない。その、「限界」みたいな気持ちを感じつつ、本当に僕は、寂しいって思っていました。
1日書いてる時間が取れるのは良い事なんだけど、その時にやっと「ちゃんと書けてる」って思えてる時間が存在していれば良いけど、何か右往左往してまた通常の仕事やってる時みたいに時間だけが過ぎていく事もある。

理論のこと

以後、だべりなんですが,最近読んだ漫画で少し考え方が変わったんだなと感じたことに、「夢に楽土を求めたり」ていう言葉に,自分はそれほど共感出来ないでいるんだなと思った事があった。その内容を詳しく書くのは省くんだけど、でもここ数年は全然真面目に物を書いたりはしていなかったけど書くにあたって,それから読んだりしてるうち,「もしかしたらそうじゃないんじゃないか」っていう気持ちが自分をこれまで、どうしようかな〜ていういつもの状態から「だったらうだうだ言ってないで自分で必要なことを書こう」ってさせていたのもあったんだなと思ったのと、そうしているからと言って,それが皆にとっても必要だと感じてるわけではないし、自分もその中にこれが自分の思想だとしてごく必要だと言いまくりたいわけではなかったんだなと思う。それは、もしかするとエンタメと私小説の違いだったのかもしれないけど,でも自分は色んな人と会ってその中で影響を受けたりして必要なやり方というのを学んできた後で,自分はやっぱり、ない物を書いてるんであって、それは理想というよりも,失われたものを自分だけが見えてると思って流布しているんであって、それは理想郷とか,夢とかとはまた違うものだったんだなと思った。その辺のことで何が自分にとって寂しいというか,違和感があったのかと考えながら、でもそれを言ってしまったらそれが全てみたいな感じでもあるのかもしれないけどいまも自分は自分なりの考えで書いてるんだなって思っているのと、書くの忘れてましたが自分は、生活とか目の前にある人とはやっぱり、切り離して存在出来ないっていう考えがあるので、現実と、そういう創作の部分をごちゃごちゃにしたくないっていう強固な壁みたいのが常にあるみたいなんですよね。だからこそ自分はエロス〜エロス交換日記みたいのも初めから否定する立場にいて,その倒錯すれすれのところに存在したくない自分が、強固な理念で立ちながら,自分の何かを掬い取る事こそが全てだったんだなって改めて今思いました。
話は変わりますが,それで、どこかに書いたか忘れたけど自分はそういう思想,理念、体型立てられた教科書みたいな物をずっと探している時期があったんです。それを、見つけたは良いものの,すぐに相手と連絡が取れなくなってしまって,自分がそこで育てて来た理想とか、未来みたいなのがぽっかりと消えてしまいました。それくらいから現実の方もだんだんとおかしくなって来たんだけど,今ある風土の殆どは自分にとってあまり関係ない事なんじゃないかなっていうのがやはり基本の考えにあって、自分にとって大事なのは実際に会って言葉を交わして来た人だし,その人達の半分くらいがもう会えなくなってしまったりして、自分は結局そういう暮らししか出来ないんだなって最近は思ったりしながら、でも、自分の見て来た物を形にしたりもしていました。

昔は〜のこと

で、話は変わるんですが,最近というか常に,特に去年くらいからずっと自分にとって昔のことを話される機会が多くて,あの時は本当に酷かったっていう事を聞かされて,それは今自分達の関係も含めてそれよりもマシだから笑い話として言ってるのかもしれないんだけど,自分も、あまりに同じ事ばかり言われ続けてたので一人で考えました。確かに,昔はひどい事もあったかもしれないけど、でも、昔めちゃくちゃ中良かったのに今全く会ってない酷い相手の方が多い中で,昔は〜とか言いながらでも今、会えてるんだったらそれはゼロと比べてもずっと良い方だよね?っていう事自体(それについて比べ始めたら自分は何処よりもマシっていうこと)皆すっぽり忘れてその酷さについてしつこく話してるんじゃないかというのと、あとはちょっと厳しい言い方になるかもしれないけど「昔はやんちゃやってた。」「めちゃくちゃブスだった」みたいな話って、当事者間で思い出して言うから爆笑するみたいな話になるんであって,それは親であっても全く関係ない人から言われ続けてるといずれ「なんだよ、テメエ?」てなって来ると思ったんですよね。