To be continued

単純な日記です。

小説ー顔ナシ


戦争で夫が取られてしまい、しばらく過ごすうちに見知らぬ男が現れるようになった。夫は遠縁の親戚だと言い,信用するもしないもかんがえないうち小さな世間の中皆が知っていると口を揃える相手を無視するわけにいかず,家の中で男が居座るようになった。男は何をして生計を立てているのかわからなかったが,昼過ぎ迄眠ったあとは起きだし,それから遅い食事を作らせ時々外へと出て行った。あとで床へ落としていった荷札を見てみるに、何かの配送をして日銭を稼いでいるようだった。年末から年明けにかけて,一番下の子供が肺炎を起こして咳が止まらなくなった。朝から晩まで咳を続けて,少しも立たないうちにキツネが吠えるときのような声を出すようになった。そのうちそれが娘にもうつり、二人で交互にひがな咳をしているのが普通になった。頼る人も居らず、近所のつてで聞いたばかりの病院を回ったがおかしな薬を出されたばあとで、一週間、一ヶ月と経ち,けれども一向に症状は良くならない。あまりにおかしいと思いその薬の名前を薬店で調べてもらうのだが、聞いた事がないと店主は首を傾げる。うわさによれば、その病院では、信仰している神様がそのときに選ぶ薬を,効き目も確かめないで渡しているようだという。金はとうに支払ってしまい、二度三度行ってもいっこうに処方を変えないなか、その薬を、咳の止まらない息子には与えないで戸棚に置いておいたが,最近腹の具合が酷くなり外へ出られないという近所の子どもへ、あるきっかけで与えてみると一週間も立たないうちにそれが良くなった。子どもの親からは,代金の5,000円を支払って貰いはじめてわたしは驚いた。息子は薬のせいで肝炎を起こし、登校できない日が続いた。妹はすぐに良くなったが、息子だけがいっこうによくならず,周りの年寄りは会う度にわたしの家や土地、風向きの悪さを話すのだった。そうしてこのことで医者に対して訴えを起こしたとしても、きっと負けるのだそうだ。わたしが外へ出るたびに話しかけて来た隣の家の女はそう告げて、2、3同じような話を言い聞かせると満足したように家へと戻って行った。女の親戚は大病院の誤診できれいな腸を全て引き摺り出されて死んだのだという。男はわたしに、ひがな「夫は死んだ」と告げるのだが、はじめはもちろん信用していなかったが,しかしそれは毎日のことなのだった。朝から晩まで同じ人間といて、外のことを思えば爆撃ばかりがあり、ふつうの毎日などをとうに思い出せなくなっていた。皆が自分だけの心配をし、その中で息子の咳を聞いているうちたしかに自分の夫は死んだのかもしれないとときどき思うようになっていった。人間なんてやわなものだ。食べ物と生活、支えのひとつもなくてはどれもひとつも回らず、小さな子どもが居る限り流行り病や子取りの心配事は尽きないが,それが思想さえもむしばみ,もはや楽観的な考えなどごくわずかに,寝入り端の部屋のぼろい窓から光が差し込む程度にしか思わなくなった。そのうち死んだ人たちのことを思うようになった。皆の死に方や死に際、それはすべてが不幸に塗れているように見えた…。そうするうち、その男は遠縁の親戚をもう一人連れて来るようになった。その男は昼間自分の友人を連れてきてはわたしの家の中で酒を飲み騒ぎ出すのだ。そうして酒の肴のようにして私の家事や育児や交友関係に対して揚げ足をとり始めるのだった。毎日、山ほど仕事がある中で,酒を飲んだ後片付けを一人でさせられ、いくら声をかけても血に飢えた狼同様で人の家の中で静かにすることも知らない。そうするうち、顔を見るだけで次第に食欲も失せるようになってきたのだが、うちにはとりあえずの食べ物と金だけはあったのだ。わたしは毎日、それでも戦争に取られた一番上の子どものことを思い出し,あの子は勉強も国語も何も出来ないまま虚勢を貼ることだけで世間をわたっていたのではないかと思い出し,子どもの勉強の支度を手伝うのを忘れなかった。娘はすぐに自分でやるのだが、息子はそれを放り出して外で遊ぶのが未だ好きなようで、ときどきどこから持って来たのか分からないような飴を握りしめて帰って来るのだった。わたしたちは男が日がな眠ってわたしたちの家具を蹴飛ばしているときも、悪態をついてくる時も,毎日食べない事がどれだけからだを蝕むのか知っていたので,その辺にある口に入れられるものを食べて過ごしていた。昨年一昨年、下の子供の担任だった教師は虐待同様の軍国主義とそれにそぐわない無関心を子どもらに与え続け,結局は審問にあったあげく他の地方へ飛ばされていくことになった。あれほど活力と欲に溢れた男が教師とは名ばかりの,掃除夫に成り果てた男を想像してわたしは空恐ろしくなったが、わたしはその発端になった息子への暴力、それから見せしめのような監禁、それらを取り巻いていた顔を幾度か思い出し、子どもでなく自分たちの繋がりばかり守ろうとした教師や校長のことを思い出し,数年間に渡って娘の担任さえもそれに遭遇したとき持ち前の正義感を発揮せず,全くなんの感想も抱かなかったことも知り,わたしは、娘が憤慨して帰ってくるたびにいつもその教師の肩を持っていたが、それはあらためて価値のある人間ではなかったのだと考えるようになった。

後で聞いた話によると、うちへ来た男の商売はこの国の至る所にあり、手口もほぼ同じで自分が血縁があるかのように振る舞い、子どもの病も治らないよう食事のなかに薬を混ぜ込んで家庭の中に居座り続けるらしい。そうする事で子どもが見たことのない病に侵されたと思い込んだ親は半狂乱になり、幾ら金を出してでも治療法を探そうと躍起になるのだそうだ。もちろんこの薬は国が扱っているものなので,治療法などない。税金や思想で日々地道に奴隷を作り続けている政府だが,このように現実的側面でも悪事を働いては,表に出る時だけは正義ヅラをしているらしい。そういった、国と繋がりのある組織があちこちに点在しており,それは政府が「▲▲きょうかい」という名前で未だ支援しているのだそうだ。いま海外と行なっている戦争も、裏を返せば食糧危機から来る人口の削減制作にあるが、国民を数字に変えて人格を拝した後で、煌びやかなだけの椅子に座り続けている国の当主が外交の折に見た海外の文化や兵器に目がくらみ,国民の金をどうにか使ってもっと西洋的に超え太るために生活を顧みずに行なっているらしい。
その不満の吐口として作ったのが「えた、非人」という格差政策らしく、何かにつけてそれが悪いと言うことで満たされるのが人間ということなのらしく、この政策はいまも一部の綻びしか見えないほどにうまく行っている。わたしは、生活の中でずっと男というものを見続けていた。なぜこんなふうにして世間は回っているのだろうと思いながら家事をし、炊事をし、育児をし、あるとき、ふと思ったが,こいつらは、ひとりの子どもすら産めないのじゃないかと思った。そうして、男のような使いぱしりが、気ままに国の中を,人様の家庭の中に居座るようになった。あちこちで起きている殺人や政治犯の取り締まり,抹殺も、さも国がそれを取り締まり,国民を守っているわうな口を聞く裏で実は,国と繋がりのあるこの組織が行なっているらしい。そうして居座るようになった男は、あるときからわたしに酒を勧めるようになった。その中に入っていた薬のせいで寝入ったわたしを無理やり遅い,自分の思いを遂げるのが日常的になった。わたしは、相手がいついなくなるのかとそればかり毎日考えるようになった。子どものやまいはようやく治り,可愛らしい顔でわたしに話しかけるようになった。わたしはようやく安堵し,それも束の間の安堵と幸福で、またすぐにでも夫や子どもをうばった国がわたしたちの作ったものを壊しに来るのだろうと知っていながら,家庭の畑をたがやし、わたしはそこに花を植えては夫や、一番上の息子を待つようになった。けれど、いつまでたっても遠縁の親戚というのが増えるばかりで自分の知っている顔は帰ってこなかった。あるとき、男は「自分はこの社会には存在していないのだ」と言った。わたしは、なぜかと尋ねると,男はかつて自分は臨んで戦争に行ったのだという。自分は教科書の1ページすら読めたことがない。入った会社も数ヶ月でうまくいか無くなり、見た目も良くない自分は劣等感だらけで生きている。そうして国に帰って来た暁には税金に頼る以外他で生きる場所などなかったと言い,けれどそんなふうに若いに任せて、家庭や自分の来た道を一度も顧みることもせずに戦争に行ったせいで周り同様に手も足も不自由になったあげく、最近では頭もいかれてしまったのだという。きみは知らないだろうがそういった男は未だ何びゃくにんもいるのだと言い,お前はそれをどう思うと尋ねるので、わたしは黙り、そうするうち無言を同調だと捉えた男は何も言わなくても自然に話し続けるのだった。男は、自分はもうこの社会では居ない者も同然で,もしどこかへ行けるのならばいま自分の手に渡されている密輸の話くらいしか無いといって笑った。わたしはいったいそれはなんなのか,まるで賭け事のような話だと思いながら半笑いで聞いていたが,男はそのように絵空事の話をするときは至って真面目なのだった。男の顔を兼ねてから見ないようにしていたが、その時に顔を見てみると確かに爛れた皮膚に虫がはったようなあとがいくつかあった。子どもの新しい皮膚と比べても、ゆがみ、何かがもっと醜く歪めているように思えた。男は顔を上げてどこかを眺め,ゾッとしたのは、他人をそうやって眺める時の目で、わたしはいつもそこに動物が居るように思えていたのだった。

ーかつての夫や子どものことを思い出そうとする。かつては、わたしにも確かに家族がおり、友人がいて、自分の仕事や、畑もあったのに、国がそれをすべて奪って行ったのだ…。わたしはこれまでにもいくどもその事を考えたが、今そこで,男の都合の良いばかりの話を聞くにつれて、そうしているうち、わたしの身体の中でも流れている血があり、それがつねにたったひとつの行き先を求めてもがいているように思えた。

「殺せ」ー目は血走っていた、そうしてそれは夫が、あるいは子どもが、戦争に取られて行った息子が、そう言うのかもわからなかったが、わたしの中にまだ残る感情のすべてで、目の前の男を殺せと言っているようだった。それは胸が悪くなるほどのうねりだったが、殺したいのはその男であり、国であり、もしかするとここにいるすべての男のことかもしれないと思った。

その日の夜,子どもが寝入ってから、またその男はわたしのことを無理やり抱こうとするのだった。わたしは毎日、毎日男の衣服、汗や口臭などを嗅がされつづけるようにただ苦いものを味わうようにひとり顔を顰めているだけだったが、その最中に、男は突然思いついたかのように「夫としていた時のようにしろ」と呟いた。
わたしは「なぜか」と問いかけた。男はしばらく黙っていた。
あたりは真っ暗だったが、わたしはその時から幾人もの過去の声を聞いていたような気がした。そうして、男はいつものようにわたしの上を制したあとで、それからまるで地などないかのように、空を見つめているような感じで,それから何者でもないような声でーいつもの通りに「そうしていることで俺が、勝ったような気になるからだ」と溢した。

不意に…小説②

何もかもが終わった、、、と思った。いろんな足りていないものが揃って、やっと何もかもが分かった。やっと終わった。本当に終わったと思う。親切な介助人から一体なんでこんなことになったのか分かる?と問いかけられて、わたしも考えてみる。「あまりにも簡単すぎるから」と応え、そう、そうなの。と言われる。それはあまりにも簡単すぎた。色々なことがお膳立てされ過ぎた。問い詰めれば皆違う事をいうが、実際、YESかNOかを迷うひまもなくボタンは押され続けたのだ。わたしは女たちを思う。それから、もちろん親しい人たち。わたしはその人のことを毎日思い出して見て、忘れていないと安堵する。それから、あそこに居たリーダー格の男。黒毛の方ではなく、眼鏡をかけた、リーダーをきどっている男の方のやることを、自身に重ね合わせて見てわたしは思う、わたしだったらあんな事ができただろうか。わたしだったら、自分の赴くままに気にいると気に入らないを分けて、それを言えば、必ず皆がついて来ると疑いもしない、まるで幼児みたいに、自分が疑わないのだから皆も疑わないことを、その遊びを続けようと思い続けられたのだろうか。

わたしはその遊戯を実際に何度も見た。もし、このことに、同じように傷ついている人がいるならとふと、昨日は考えた。わたしは差別に慄いているのではなく、染み付いた性質のことを思うのである。その人たちが実際に愛されていることを思うのである。わたしも一度、やって見たいと思った。実際にはそれができると思い、わたしは誰かを指差して、その想像の中では糾弾して見る。けどわたしの憎しみは終わらないため、それは遊戯にはなりっこない。

わたしだったら殺してしまう。単なる遊戯なんかではなく正義や復讐、考え尽くしたあとの正常な未来をねがう、それが世界への真摯だとして何の疑いもないまま殺してしまうだろう。あんな人たちは生きているべきじゃない。とにかくわたしの対峙していた世界はそうで、でも自分のこの性質はいったい誰が救ってくれるんだろう???それこそ、毎日それを考え続けたのだった。わたしは結局わたしを傍観することに長けた。そうして何もかもがどうでも良くなった。

とにかく仕事はもう終わったと思った。そのことを引き連れて来てくれた従兄弟への感謝も少しずつ湧いてきた。わたしがその期間の長さやわたしがあらかじめ従兄弟という人間を分かっていたこと、なによりも知っている人だったこと、そのことを電車の中でずっと考え続けていたかった。わたしはこういう暮らしをしていたから、時々、とても腹が立ったりとても悲しくなったりしてしまうが、従兄弟といる時は自分にない事を沢山引き連れて来られてもあまり戸惑わないのだと思った。やっぱり自分たちは兄弟みたいだと思う。

自分達は生き残った、、、、そう思った。座ったまま、なんとなく、自分の手の中のものを握りしめると実感が湧いてきた。自分たちは、沢山のしかばねの上で、それでも生きている。

わたしは自分の命をステージにあげられるのを見てどうにかしなければならないと毎日考えた。わたしは、彼の中に残っていたわたしのことば、わたしの中に既に当たり前になってしまっている彼の存在、言葉を思い出してみて、ああやっぱり、自分達は体が弱いからじゃないだろうかと、そう思う。もしそうでなかったら、わたしたちが何でも食べられるのだったら、それでもまだ笑って、なおかつ…男たちのように大きくなれるのだったら世界はこうはならなかったと思う。

 

いっぽうで、忘れてしまう人のこともたまに思う。わたしは本当に客観的に彼のことを可哀想だと思う。わたしのこころにはそれに対して与えられる分の親切心もあるが、けどわたしの正義はそれを決して許さないだろう。物語はこれで終わりで、わたしは膝の上に載せた本を閉じた。安堵した。心の底から、わたしは選択を、生きていたことを喜んでみたかった。

それからその物語がかすかに日常にも繋がっているのかも知れないと思った。

わたしたちは何を話したっけ?

彼は彼みたいにならない事を苦しく思うのかも知れないが、それはわたしが人生の中で手に入れたことのある苦しみだろうか?と思う。不平等は、いつかつり合いを求めるんだろうか???

そう考えていたけど、自分が思うよりも、わたしは日常に戻るべきだと言われる。わたしもそう思う。そこにたしかに、ずっと前からもっともっと太い営みがあるはずで、その中にはもう既にたくさんの光が育ち始めていた。わたしは止められていたが、ずっとその蓋を開けてみたかった。話せばきっと皆、よろこぶよと背中を押されて、実際そうで、幼児みたいに驚いた。

不自由さから見れば、それから、倦怠の募る仕事、上司の顔、女や男たちの前にいる時から見れば、それはもっとたくさんの声にみえた。…わたしが最初に世界に対峙したとき、たしかにまだそんな感触があった。皆その中で勝手なイメージを育てて、皆が目の前に誰もいないままで、いまだにそのイメージを追いかけている。だれかが勝手にだれかに名前を付ける遊びは迷子が続出したのだった。わたしもきっとその中のひとりだったのだろう。

不意に…小説①

「過去からの手紙」という小説を読み終わった。なかなか面白かった。それから、その後知らない人からメールが来る。確認のメールだった。最近はこういう事が多く、それに対して何の答えもない。わたしも考えてみた。たとえば過去といまの関係性、それが、タイムカプセルのように思念を飛ばして取り出す事が出来るのかとか、もしくは本当にロボットのようにだれもが操作されて、小説に書いてあったようにリモコンのボタン一つでそれが出来るのか、とかである。自分の思うに、主人公の体験は本当にあったことだし嘘を付いているとはどうしても思えなかった。あの話し方はあやしいかも知れないけど。それは確かに「あった」。あと夢の映像は美しかった。暗示や予知夢と言いたいのではなくたしかに過去も未来も身体もこころの内部がすでに内包していると思いながら、主人公は夢を見ていた。でもそれがすべて過去からのメッセージに置き換わっているように見えた。

どちらが先か?主人公の置かれている環境は異常にしか見えないけど、これほど環境の方がごりごりに変わってゆくのを見せられるともしかするともはや主人公の方に環境が合わせて行っているようにしか見えない。ひとことをいう、そうするとそれがたちまち意味を持ってしまう。というか、色々な色をすぐさま付けられて、言葉は主人公のものじゃなくなる。

わからないままで日常が進む。わたしは、きっと話はこうなっていくと思う、その異常な世界は誰かが、小説を作りたがっているんだと思う。上の世界と下の世界があって、上の世界に出てきたものごとはたちまちその作者の手にわたってしまう。ことばがそれを作る、、、それはあらかじめシナリオが決まっていて、そこに主人公は置かれているのである。主人公の唯一無二性はそれのみ…「主人公に設定させられている」

そう考えると悲しくなる。

主人公はもう殆ど怪我人みたいなものなので毎日体を庇うことばかり考えている。周りの人はいつもそのことを忘れて生きている。けどこの小説をつくるための世界と考えると、必要なものは何か?と考えるようになる。それとともに、そこに乗らないものごとの性質も考えるようになる。それをここ数日、ひとりで手で手繰り寄せていた。わたしに似ているからと考えていた。そこに色々な人の手が入り込んで、ほとんどがぐしゃぐしゃになった。この小説に出てくるのはそういう、破滅ばかりである。従兄弟が家にやってくる。それは素敵なことだったのだけど、従兄弟との関係性が主人公はなかなか掴めなくて、かといってまったく知らないわけでもなくかなり近い兄弟みたいな感じがする。執着がない。主人公は自分が好きになれる人の事を思い出そうとする。自分はたしかに、不用意なことばかりしていて、それに意味が加わらないことに苛々してしまう。それをこんなにあっさりさりげなくやってくれるとは思わなかった。

人との交流はそれくらいで終わる、、。

主人公は自分に何度も声をかけて来る人が不可解で仕方がない。「言葉にして」と言われても、ならない。ずっと考えていたけれど、なぜ周りがこれほどに場を提供するのにそれが途中で寸断されるのか、、そして自分はいつも驚いている。自分は待っていたなんて感覚がいつもないのだ。らたしかにその記憶は消されてるのかもしれない。なぜならそれが小説の一部で、何度もその部分を繰り返す。そのへん、最早主人公の意思は剥奪されていると思う。

なぜ、この物語の会話に出て来るところと、出てこないところがこんなに違うのか、それがずっと疑問だったけど、それこそ小説を作るための設定なのだろうと思った。

主人公は普通の人ともっと話したいけどその権利もない。毎日は身の回りにベタベタに付けられていった手垢と汚れを落とすことから始まる。

思うに、やっぱり磁石のようなものがあるのかもしれない。わたしかその相手に何かをあげ過ぎないようになっているとか??

小説をつくるためには、色々な人に会うことなのかもしれないと思った。会いたいわけではなく、それが紙の数を増やすという意味で、期待されていることだろうと思った。

本当に去年あったことは一体なんだったのだろう。

特別な人間、特別なものごと…そればかり見させられている。特別な人間と言ったって、人によってその価値なんて違うのに、それをかこってそうだと毎日、毎日言い張るなんてまるで王族みたいだと思う。特別な人間にさせられているんだろう。そしてそういう密度はどんどん上がって行って、いまそれをさせられているひとはもう自分の能力を知っているのに、その中で戦わせられているんだ…そういう不幸ともう片方の目では幸福を見ながら、皆どこへ向かっているとかそういう感覚はないんだろうか。皆が見たいという興味を持って見るテレビはそういうものになった。だから見たいと思って見たものには必ず評価を付けなければならない、いつしかそうなってしまった。自分はそのなかでもいちばん酷い所に居る。だから自分は当たり前にふつうの人間を求める。その一方で自分を生き延びさせるためには何かを作る。自分は上へ上がっていくだけの時もあったけど今はそうならない。もう本当に毎日が繰り返し過ぎてつまらない。同じ男の話、おなじ女の話、少しでも違うところへ行きたい。何度か、本当に殺さなければ平和なんて訪れないと思った。それはもう絶対だと本当は知っている。平和は、担い手をこの世から消さなければ訪れない。皆もそう思っているかもしれないけど、全員を殺さなきゃおわらない。少なくともわたしは口には出せないけどそう思っている。存在を消す、本当はその方法しかない。不穏の芽を摘み取るためには犯罪者全員を消さないと平和になんてならない。わたしは、守りに生きるのではなくそうやって攻撃的に生きて行かなければ終わらないことなんだと思ってた。

まあ、現実はだらだらと進んでいく。

かなり偏った日本人感のこと

おはようございます。こちらは、思い付いたことをそのまんまでまとめておくと言う趣旨で書いているものです。

ふと、感じたのが日本企業の根底にあるもの」でした。それは、あるいみで奴隷としてそこに従属する…自己犠牲を持ってるのが美とされているとこだと感じました。例えば過労死っていうのが日本語でしか存在しないっていいますが、それひとつだけでなくてあらゆる場面で◯◯に対する忠誠、我慢を強いるのが当然で、それをやっているがための仲間意識がある、みたいな風土がありますよね。自己犠牲は気持ちいいとこもありますし、たとえばそれがふつうの人間関係だったら「もう休んでも良いよ。ありがとう」ってなるとこが、ならなくても死ぬまで持続できるみたいなのが日本人の強みなのかなとも思います。実際は上の人だけ楽してるみたいなことも多いですが、古き体育会系を非難するってよりこれが根本的にあたりまえに文化や日常にも、さまざまなかたちであらわれてあったのがいままでだったのかなと思いました。なので結局これがないところっていうと自分で会社を立てた人とかフリーで働いていてそういう意味のない部分への我慢に疑問を感じてる人のとこだったりします。なにがちがうっていうと、男性の種類が違いますよね。ふつうに女性に対してジョークが言える人、それに対して企業体質だとオッサンがセクハラと親父ギャグをコミュニケーションだと感じてやり続けてくる&それがエエ関係だと一方だけ感じてるって感じなんですよね。この違いには実際びっくりします。で、こういった新しい体制のとこに対してももはや体感の時点での疑問やこきおろしみたいなのもたまに出てくるという印象で、それは単純に変わることへの不安からくる文句というか、特に経験もないとこへ発されてくる文句みたいに、知覚されない時点であるなって思います。なので組織に疑問を感じている人、もの、場所…こういうのを疑問視し奴隷、やってくれなくてもいいよって場はそこ以外ではありませんでした。いや、ないとこもあったんじゃ無い?と思うかもしれないですが、いいえです。どこででもそれはありました。空気を読む、女は男の機嫌をとる、上の人がおいしいもんを食べててもむしろ「見えない」…なんで見えねーんだと思うかもしれませんがわたしにも見えてませんでした。これらは、とってもちっちゃい声ですが出来ない限り悪口とかスポイルとして現れてきますよね。まあそれは、ある意味アジア圏ではどこででもあるのかもしれないですが…あと苦しいものになってくると例えば年功序列で、上の人の番が終わるのを特に意味もなく待ってたり、行事みたいなので上の人の話をいつもみたいに聞き終わるのを待ってたり。何、これ?みたいなのは沢山あって、それはだいたい上の人が好きだからやってるみまいな部分であります。男性に対する我慢とかも同じですよね。あちこちにある女性蔑視だったり、単におっさんが気持ち良くなるだけの宴会、ギャグとかもここにずっぽりはまっててもはや疑問も感じないがゆえに垂れ流されてくる精神論の成れの果てだったなと思います。わたしはそれに組みしない女性の方が多いってこと、今は知ってますがそれになんの疑問も感じないで入ってきて担ってた女性も多くいたじゃんとは感じてました。多くはそれしかない、正しいからやってるというより、それでいいとこにいた、自分は苦しい思いをしてこなかったからこそ無自覚だったんだなと思います。結局、仕事の良し悪しでなくてそういう川の流れは入るのがウマいタイプのワニみたいのがいたらそれが採用され、オッサンとかからも好かれてすかれてどうしようもないみたいのが文化でした。根底に平等では無く奴隷として従属して、特に意味もなく忠誠を誓う。それは上に立ってるもの&先にあるものに後から来たものが従う…これが裏を返せば効率っていうことなのかもしれないですね。例えば幕府みたいなのも上の人への忠誠を誓うみたいなのがありつつそれがエネルギーの流動においていちばん力を発揮できる部分として、民族性としてあり、裏表の表現力で裏では超ビンボーでさつまいものヒゲしか食べることができなかったとしても、「イイトコ」そこだけばばばっと進ませるみたいなことに疑問など感じずに一致団結できるというのが日本人の強みだったのかもしれません。はっきり言ってこれは、ここまでで証明されていると思います。日本人には裏表があります。だから、心は泣いてても表では笑ってて、それがやさしさなんだと思います。だから鬱なんだと思います。わたしは根本的に日本人の精神構造が武士なんだと思ってるんですが、それが企業の上下関係みたいのにすっぽり当て嵌められてそれを悪用されると、途端に悪い方向へ進んでいってしまうところがあるのかなあと思いました。だからこそこれまでのように甲に何かを強制して、はやく何かをしろっていう山内さんみたいなやり方自体も容認されてきたし、それにおいていじめられ続ける人を見てもある意味で当然で、それ以外見てる人らの疑問も我慢して当然、黙ってて当然と感じるのも同じ精神構造で「皆我慢してる部分はあるんだからそれはあたりまえ」でそれがむしろ鬱屈を発散させるための爆発要件としてもあったんだなと感じました。むしろ、言うと怒り出すみたいなのも同じ。わたしはその「そんなこといったらダメだよ」自体、無意識でやっているからわけを問うと答えられない部分にあると思ってましたが多分これは、別世界に行ったら1秒くらいで違うマインドに切り替わってくれる人たちなんだろうなと感じてます。切り替わりましたよね。はい。ほんとにだから、日本人は「自他ともに全員、奴隷になるのが好き」な構造にあるんだなって。

わたしは海外で仕事をするにあたってかんじつづけたこのすかすか感」は一体なんなのだと思うに、がんじがらめになっていた「〜なきゃならない」&勝手に必ず入る強制力にはまってたころ、それは自分の意思に関わらず下方であってもとりあえずの安定は感じていたっていうことでした。儀式や年功序列、死ぬほどある無駄な部分は「安定」のために存在するものだったのである。ただ、客観的に見て今の方が良いです。それでもってそれに対して疑問を感じつつ一時代を築いたという日本人の文化に対してもわたしは共感を感じていて、少しホームシックみたいになって来てます。思えば、自分は「疑問」「違和感」みたいなものをネタにしてやってきたのかもしれないな…みたいな。

でもわたしがこういう事に疑問を感じ続けてきたのも良い人格があるとかでなくある意味で拒食症で言葉があまりうまく使えてないとか意思、感情がないとき疑問を払拭させないと何もできないっていう部分にあったんだと思いますし、だから全て表裏一体で「だからよい」「だから悪い」「あたしはそこだけ欲しい」みたいなものないんだろうなとは思います。

長くなりましたが、本当に普通にサポートしていただけることに驚いてしまいました。

 

◯安定について

 

ふと、思い出しましたが人間の悪いところが現れてくるのって保守」に入った時からだなと思います。自分は曲がりなりにも良し悪しにかかわらず、とりあえず作り続けるのが仕事としてあるため、だから前作で言ってたことも次の作で壊したりしていかなければ存在として成り立っていかないってとこがありますよね。これが、いったん評価されると人って、それがやりたくなくなるんですね。一度評価されたのに新たに概念をゼロから作って、新人の頃みたいに批評されまくるところへもう二度と戻りたく無いってなります。これは、安定にしがみつき保守にまわった挙げ句、それを守るための理論を山ほど必要としはじめた時期でもあります。こういうのが今だに残っている支配層の精神構造なんだと思います。もうだから、彼ら、表に出てくることすら億劫でしかたないんだと思います。だから今まであるものを山ほど使って、同じ要件で同じことを繰り返してて、自分自身を守りつつ結局芸術家としてのアイデンティティをみずからで壊して行っているんだなとおもい、だからいま悪いことが起こるとすぐに「ーーがやったんだな」と見做されたりするまでになって来ましたけど、本当にそれが望む未来だったのかなとは思います。ムスカさんは「足元を見ていない」ことの代名詞としてこれからも存在しつづけそうです。わたしもいまも毎日苦しい苦しいしかないですが、数年前みたいに本気でビョーキのワーカホリックみたいな感じではなくなってきました。触れられただけでキレるみたいな。いまも調子は悪いですが。ヘタなりにも保守にだけは回らないように気をつけていっぱい休みながら頑張りたいです。ー終わりー

色々と考えてはいたけど唐突に、それは「僕」が全てを決めるのでいいのじゃないかと思えて来ていて、自分がそう主張してこなかったのはどうしてかなと思った。すべてきめて、指図して、こうあるべきって言うのが結局おさまりがいいんじゃないか…て。会社の方は依然として値下げ交渉をするために僕の背中を昨日から、ぐいぐいと押してきていたのだけど思うに、この人たちははじめから全く関係なかったのじゃないかと思えていたんですよね。これをやってきたのは◯くん、それから◯くん、◯くん、それから海外の◯◯◯さんたちで、それがなければ存在しなかったと言ってもいいけど、その成れの果てで「こういうかたち」になぜかしらなってしまった今の件のなかにいて、この人たちが何か自分たちが困った時に何かをしてくれたかと自分に問いかけてみて、それは特になかったじゃんと思った。今ある世界は健全に見えているかもしれないがたったひと月前まで家の中に知らない男が押し入って大便をしていくみたいなのがごく当たり前としてあって、そういうときそれに「何してるの?」て声をかけられる勇気を持つのも自分の身の回りにごく僅かしかいなかった。「大丈夫?」さえもなかった。それが99%の当たり前としてあったのがひと月前で今になって、ふつうだった、よね?みたいな顔をしてこられることに自分は我慢がならないのであって、自分のことを支援してくれるひとら、この人たちも浮き沈みはしているけどごく、当たり前について来る人よりもその、わずかな人がいなければ存在しなかったという世界において、未だにその内輪での喧嘩とかこきおろしをやってくるみたいのは当然で萎えてるし、だからかはわからないが自分は何度も、何か駄目になりかけると直ぐに「だったら、何もかもどうでも良い」と思えてきていました。自分は根本的な愛着、信頼感がすっぽ抜けていると思った。悪い現実の中に良い思い出をつくってきたのは自分や、自分と関わった人らだけだった。自分が数ターンかとばして(だったら何もやらなくていい)に転じたくなるのもこれまでやって来たとき、自分が死にたかったときに誰も何もしてくれなかったのにいまになってYouTubeでもみているかのように好き勝手なことを言ってくることに対する疑問から出て来てるのだと思う。

で、だからこれこそが「やっていくしかない」案件なのかなと感じていました!

自分らの特徴として若くて、何も体験してきてないっていうところです。だから、これまでのことを気にせずに、というか、良いとこだけを学んでそこにいるってことも多分できるんだと思います。それも、それを許してくれている良い大人がまだ一定数残っているからで、その人たちがますコミュニケーションから配布されて来る感覚だけでなくきちんと自分の体で足場を築いて来た論理こそがいま、役に立つんじゃないかってことに気がついてくれればわたしはよいなと思ってました。自分のつくってきたのもそういうやつです。でも自分はやっぱりこれは、何も知らない世代として存在していて、あれこれ口出ししてくる親がいて、ていうとこにいても、若い自分たちはつねに「やっていくしかない」とこにいるんだなあって思わされた。やっていって、こっちの方が良いんだなって思えるようになるしかない。

で、それでそれを若い世代が見て「そういうことか。」って良い事を感じてくれればそれが役割をちゃんとこなしてるってことになるんじゃないかと思う。

 

 

 

◯差別でなくて無理解について

※これは、誰でもやりうる事なのでっていう意味です※

無理解ていうのは相手のことを見ないっていう

鉄の扉をこちら側から閉める事だと思った

そのかたくて冷たい扉は誰でも持っていて、相手が悪人でもなかった

わたしは、とくに傷ついたとも発せられないと思った。

なんでかというと相手は何もしていないから。

「理解しない」と思ってるだけだから。その

当然の中で自分のあたりまえが、ごくあたりまえに死なされるつめたさで、人はほんとうは冷たいんだと思った

戦争や虐待とはちがうけど、それみたいに

こんな冷たいことを人が、

さっきまで笑ってて、いい事をしようとして来る人が普通の素振りでできてしまった

それが人間だった前の世代だった

これまで何人もの人がこの、無理解に真実を訴えてこないのがなぜなのかわかった。

冷たいのはこわいと誰しも思う

発言小町ージャイアン

◯気づいたことまとめー本当だったこと

日本人男性の皆さん(とカンチな独身キチガイ)は世界の半分の平和は優しい人たちの我慢の上に成り立つと考えて、大人しく生きててください。

●男に対して親切にしたり、クソやブサイクや怒りっぽいや不親切や馬鹿やガキも公平に扱っていたとしても、毎回それを「トーゼン、おれの権利」として受け取られるので無意味。

(親切にするのは相手ではなく自分の為と思う。)

●店員や自分よりも下の立ち位置にいる人間にとる態度は別れ際&SEXしてくれないときの自分への態度と同じ

●自分に変な興味を抱いている全く知らない人間が多大な迷惑を持ってくる

●嘘つきは泥棒の始まり

●日本人男性はケチ臭くて基本何もくれない

①くれない。なんか知らんが機嫌いいし俺がいればそれでいいと思ってる→普通

②ちょっとくれる→かなりいい

③形にしていっぱいくれる→相当いい

●女の場合、だめなとこ、嫌だったことはタメになるとしても逐一言ってくれないが別れ際&ムカついてきた時にそれまでの「貸し」として全部持ってくる。

「なんで、いま」「そんなはずは」ってそりゃ周りのために我慢してたに過ぎない。

おまえより社会性があるんだよ、バーカ

●嫌いな人間が自分に対するひとつの真実を持って来る(教えてくれる)





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ジャイアンが増長する原理ージャイアンには言っても無駄だから誰にも言わなくなるが、そうなると不思議とジャイアンがいつでもどこでもマシマシになる理由

あとこれは何度も書いたんだけど上の立場になる程下の人の声が聞こえにくくなり、幻聴として「こんなふうに思ってるんだろうなー」と相手の気持ちを決め付けるようになる。自分が●を食べたい時、相手も食べたい…自分が●に行きたい時、●に行きたい…って思ってると感じてる。ばかというより、ジャイアンは、上に立ったおかげで自分の信仰に対して疑いの余地をいだく機会失ってずっと無邪気なままになったんだなと思う。はたから見てて不思議なんだけど「そんなふうに考えてるはずない」って思うんですよね。お前と考え、同じはずないけど9人から褒められたらそれが虚構のいいねだったとしても10人目のわたしの疑問も「いいね」だと感じるんだなーって思う。ほんとに不思議なのは「違う」っていっても「気を遣って違うって言ってる。食べろ」みたいになったり「いらない」って言っても「機嫌が悪いのか?」みたいになって、わたしの人間像自体が遠慮深くて気が弱いから、言い出せないんだ…と感じてる。違う違うちがう!wwwお前の前で大人しいのは私がお前と話したくないから!お前の前で意見言わないのは毎回面倒に遭遇するのが嫌だから!!お前と目合わせないのは気が弱いんじゃなくて気持ちが悪くなるから!!おまえに心配されなくとも仲良い人とはいっぱい喋っとるわ!って何か,書いてて自分のオヤのことまでも思い出してしまいました。つまり、永遠にすれ違ってる状態がこのよにはたくさんあるんじゃないかってことです。自分の場合、嫌いな相手に対して目さえ合わせなくなるんだけどそれをするほど相手は優しく増長するようになって来る。だから一日経つごとに嫌いな人間が五倍、十倍と増えていく事になる。あの、言っときますけど「嫌い」なんですからね。

あとジャイアンに捕まった時とかその話をまとめてみれば結局全部自分の感情の処理のみだったりして、わたしを捕まえた理由とか結局「俺のためになるにはどうすればいいだろうか」っていう話のえんえんループだったりするときってありますよね。あれ、なに?

一人で考えろや。