To be continued

単純な日記です。

9/2

最近、色んな女の人と会う機会があった。きっかけは、僕が何かを書いている時に「女の人っていうのは」ていう話をしてしまったからで,それ以降、周りの文学を片手間にやっている人たちがわざわざ,自分のもとにいろんな属性の女の人を連れてきてくれたからです。それで、会っていて自分は感想を抱く以前にそれよりも,とりあえず自分は不可解に思う出来事があったらまず、死ぬほど頭を使って考えて相手の行為まで遡り,行為以前の「意図」を探ろうとするところがあるんだけど、自分が、これほどチチパイをぶら下げてわざわざ人の頭を叩きにくるみたいは属性のオンナたちが集ってくるのは、まだ「文化」が生きているせいではないかと思った。その、文化=まんじゅうこわい の中に入れられて,自分は、ほとんどついうっかり…の延長にいれこまれて、ほんとにうっかりでも、こういうことをもう言わない方がいいのかもな。って思った。自分は、たしかにいろんなことを複雑に考えてしまうところはあるけど,でももう、とっくに恐怖症みたいなものも乗り越えていると思っていて,そういう時期は過ぎたのである。それを言いたかったんだけど,でも数で来られた時は結局全受け身になって,柔道のたたみにばんばん打ち当たってるしかありません。それでもって、自分がまた考えていたのは、女っていうのは、そういう比べられるためのものを沢山ぶら下げて生きてるものなんだなということ。

まあそれはいいが,とりあえずそういう「視点」もあるのはいいとして,自分の気分の方がなかなか変えられないのはあまり良くないなと思っていた。

でも改めて考えてみるにそういう「視点」っておじさん達が作ったものですよね。それで、その視点」に入れられてる間は確かに自分は息ができないとは感じているようなのである。

それから、それをなぜ書こうかと思ったかというと、随分時間も経って,生活の方からも離れている女について改めて自分が考えなおしたのは、やっぱり自分の属性について改めて考えたくなったからだと思う。それから、あまり書いたりはしていなかった自分の人生の多くを覆っている「性」について、改めて多くの行間を使って詳しく書いてみることで自分の中で何が起こるのかを知りたかったっていうのはあります。

でもいろんなものを書くにつけて、ほんとにこれは単純に「書く」「しるす」だけでなく、多くの経験,多くの人の顔を思い出して,その経験がなければ全く書けないだろうなと思うし,自分ていう存在や、誰かっていう存在がそんなふうに人の中で思いがけずに生きて,動いてるっていうことがあるんだなあというのを最近は知ったのがよかったと思います。

なので自分が書いてる間はもちろん感情移入をしてしまったりはするんだけどかなり遠い場所の出来事で,自分の場合はそれも経験をもとにつくった完璧なる「フィクション」です。なので周りの人たち人たち,自分の興味とかを丸出しにしてまんじゅうこわいを再起してやってくることのないようにお願いしたいと思ってます。

9/1

昨日は,夜間運送業のアルバイトをしていたので今日は体力を取り戻すべく午前中からずっと昼寝をしていました。最初はタイマーをかけて寝てちゃんと起きようと思っていたんだけど,自分がどれだけ寝るのか、じつはそれほど寝ないんじゃないかと思ってタイマーをかけないで寝てみたら、起きたときに既に12時15分前くらいになっていた。それで起きてからやっと着替えと朝の支度をしてみて,結局膨大にあるやろうとしてたことを思い出して、今日無理だなと僕は思った。この間もお盆休みが明けてから時間が数時間だけ空いて,そういうときも何かしようかと思っていたのに、前日まで家族や仕事にずっと拘束されていて,頭では外に出て気分転換したりした方がいいとは分かっていたんだけど何もできないでずっと掃除だけしていたということがあった。でもそれでも掃除をしたことで「掃除はできるんだ」と思ったことでちょっとだけ元気になったりしました。自分は、整理整頓をしたら運気があがるっていう話を何回も聞いたことがあって、それはなんでなのかというと、とりまで確実に何がどこにあるのか把握できるようになるからなんだなと思った。それで、何も出来ない日だと思いながらも用事を二つくらい済ませたりなどしてるうちに結局、夕方くらいになってました。仕事は、一応いつもあることくらいは済ませて、それから小説の方は何も手を付けることが出来なかった。こんなふうに一日飛んだ後とかはすぐ,何をやってたのか忘れてしまうのである。だから正直言ってこれをこのままで置いておくだに明日くらいになればそれは自分にとっての再従兄弟くらいに思い出せなくなっているだろう。話は変わるがそういう一日をすごしたあとで夜になってマスクを洗っている時に自分は、今日ぜんぜん疲れてないなとふと思った。いつもだったら、11時過ぎにマスクを洗っている時点で、今すぐにでも横になりたいと思ってる感じなのに、今日はマスクを洗うのも余裕だし、ゲームとかもできそうなくらい体力が残っていた。昼寝をしたといっても、チョイ寝じゃなくて今日は二時間半くらいは寝ていて、これほどまでに休んでからやっと「元気」を自覚するなんてほんとうは毎日、自分はかなり疲れていたんだなと思った。最近では毎日6時前に起きて,その後休憩も挟みつつだけど起きてるうち夜9時くらいに自然に仮眠してしまってたりすることもよくあるんです。

それから、元気だったので夜になったらやっとやる気が出てきてそれ以後暗い部屋で一人で調べものなどもやってみた。けど、新しいことが出てきたというよひも、検索をかけてみるに同じような記事が山ほど出てきていた。なので、だいたいは分かったけどその後はぴたりと進まなくなっていた。その後は本を読んだりしたが、昼寝をしてたので結構捗っていた。

ーーーーーー

今日は、自分が昼くらいに会った人が,毎日ゲームかギャンブルくらいしかやっていないというすごい人で、言ってることもずっと他人に粘着している、他人の話を繰り返す,別に頼んでもいないのにキモい内包をしてくるくらいなんだけど見ていて自分はどうしてこの人はそれでも自分が生きていると豪語出来てるのか不思議に思った。この人の生き方,見ていて思うのは別に大したことは言ってなくてもいつも周りの人間が8割以上は確実にいい人で,でたらめに投げたボールをばんばん受けてくれるからなんだろうなと思った。本当に声がでっかい人が言っていることは実は,虚構なのだと僕は思った。それでこういう虚構について考えてて、それでもこの人は高い地位についていて,それもあって然るべきと思ってるのはなんでなんだろうと思いつつ,何か自分はこんなでたらめに「任せてはおけない」とあらためて思ったのである。そのために、情報をとにかく沢山知っておかないとならないんだなて。

なのでその人と会ったあとくらいから唐突に「勉強をもっとしたほうがいい」という気持ちが湧いてきたので色々調べていました。

創作日記②猿を飼う

◯月●日
とりあえず今日は、まったく何もしていない。わたしは、机に向かってあれやこれやと掃除してみたり、はみ出て来た書類群をいるいらないとに分けてから新たな紙の束を作り出していた。そうして、わたしは机に向かって座り,膝をつき,ペンを持ち、考え事をしてみるが,とにかく,何もしてない日ほど「案」みたいなはまったく出てこないのである。あらゆる、空想ごと、それから誰の世界に通じるかのような詩を書く以前に,自分やネットニュースを毎日騒がせている,日常を取り巻いているものごとについてわたしは考えてみようかと思った。すなわちそれは、年老いた猿について考えるということで、わたしがそれについて読んだ時,それは実験的な行いで、何もかもが初めてで前例のない事で、トラブルの宝庫みたいに思えた。年老いた猿を取り囲んでいるものごと、それは何かを飼うという空想みたいな出来事だった。

わたしは、まず数字の面から考えてみることにした。記事を読むー年老いた猿に与えられるもの、それは一日バナナ6本と、キャベツひとつ、人参一本。それを書いてから、あとは遊び相手だろうなと思った。とりあえず文鳥が一匹。そうして猿を飼うのだが、その猿についてのスペックも書いてみる。猿は、A等B等から数えてみた群のなかで、C等に属する。Aくらいの猿は、動物園やアニマルセンターなどでショーをするか、金持ちの人間のプライベートな庭で飼われると決まっているため、その猿は実験的に優秀な成績を収めるために連れてこられたのではなく、ごくふつうのさるとして、さるの社会性と知能と感情を計測し蓄積する目的で来させられただけだったのである。

猿の感想→

猿ははじめ、すこしの戸惑いを見せる。それから、とくに餌やりの時に抵抗していたが、入れ替わり立ち替わりで人が着ていた前センターと比べて皆が同じ服を着ているこの場所に慣れてきたもよう。

猿はちょっとナーバスになってくる。そうしてごくふつうのさるが持つような社会性を発揮してみせ、コミュニケーションを取るが,それがまったく蓄積されない類のものということに気がつく。つまり、データを取るだけのものごとに、安全,安心以上のしたしみは必要がないからだった。チンパンジーもオランウータンも動物園のなかでしているようなことをさせてもらえず、猿は,物事がすべて墜落していくのをそこでまいにち毎日眺めるだけになった。年老いた社会性は、そうしてなぜ、どうして此処に自分がいるのかを考え始める。なぜ…?いまのとこ、それに対する答えはないのだった。これは、研究者Aが言っていた事だが、はっきりいってそれは、だれかが「やろう」と言い出して,唐突に川をダムと呼び始めるみたいな物事だったのである。そんなふうに、はじめから答えなどないものごとに猿および人がひたるとき、それは空想の部類に属してくる、、、わたしはそこまで読み終えて,それを書いてみる。それは一年前。それから二年前のいつもの自分にすっぽりと当てはまった。わたしはあのとき身の回りで起こる不吉な物事,それから幸福な物事をすべて、自分自身のすべてと結びつけてそれに対する因果関係をびっちりと作り出していたのだった。がんじがらめの中,あらゆる物事は墜落し,わたしは明日生きている以外のことは望んではいけないんだと強固に思い込んでいた。そうしてこまかくは、それは、神様がこう言ったから、だったり、あるいは、身の施し方が悪かった(よかった)から、ナドナド。わたしは頭を抱え込み,それもすべて,トラックが乗用車に激突するようなショックを目の当たりにみた後で,わたしはなぜか、それみたことかと言わんばかりに全てを、数日で脱ぎ捨ててしまおうとした。

そこにあるのは、からっぽの部屋。誰かからそれを指摘されても、わたしは一年間返事もしてやりたくなかった。

…猿はそのうち、限られた真っ白い部屋に入れ込まれながら,空想に浸るようになったという。わたしはその記事を読み,アンダーラインをひいて哀しくなってしまった。その部屋についてネットで調べて見たが,病院のような白い壁の建物の中に,なんと、プラスチックで出来た人工草の床,それから生活音としてのBGMが流れているようである。そこで猿はまいにち、みなが同じ服を着たセンターの飼育員にバナナときゃべつ、にんじんをもらう。そうしてそこに来てから⑤年もの間で猿はありあまる社会性と本能を拗らせたせいで、新形態の病気になったのである。精神病」とわたしは括り、猿がやった事を書き入れていく。猿は,きゃべつみたいな野菜を食べている間,そこには無いはずの山…それから海…森…そう言ったものがそこいらじゅうにあるものだと思い,それを脳内で事細かにつくってはおもちゃや残飯でかたちづくり、時に職員がすぐにそれだと分かるようないでたちで周りに説明し始める。

職員は感心するが、もちろん皆そこにそんなものが存在しないことは知っている。

一体どうやって意思疎通をするんだろう?

その時,わたしの家に電話がかかってきた。

「もしもし?」

「今,何してたの?」

ーなにって?そのときわたしは,ほぼ猿になり切って、森とか海とか山みたいのをどう配置するか考えていたのだった。それから、自分のなかにあるのが、他人とはちがう、たったひとりだけの猿の哀しみの事だった。

「音楽を聴いてたんだよ」

わたしは言い,部屋のスピーカーのスイッチを付ける。

スピーカーから前奏がながれはじめ、わたしは猿の姿のままでそれを聴くが、わたしの好きなC O C Oのアルバムの曲で,それを聴いてるだけで他人の脳内に来られてる感じがいつも好きだと思っていた。

「そうなんだ。外に出ない?」

「外に?」

「うん」

「いったいどうやって?」

「さあ。それは任せるよ」

「うん」

わたしは、なんだっていいさと思い,なんだって頼めば、やってくれるんじゃないかと思う。

「どっか、行きたい」

「うん、いいよ」

彼は言い、彼がそれにかかるであろう時間を計算しているあいだ、わたしはそれに必要な車、調べる物事、着ていく服などを想像しながら、カヌー上に立つわたしの顔にむかって流れてくる風みたいのを想像してみる。

「ねえ、わたし、出かけるの好き」

「うん」

「じゃあ,バイバイ」

「うん。バイバイ」

またね,と言いわたしは電話を切り,ふたたび音楽を聴く。それからわたしは、だれかに聞いてみようとする。猿が(ひとが)もっと幸福に生きるためには一体どうすればいいんだと思う?

そうすると彼はこう言う。それは、もっと人らしく生きれば良いんじゃないかな。

ひと(猿)らしく?いったいそれは、どういうこと?コンクリート塀の中で?仲間もすべてフィクションとわかっていて?人工の芝生の上で?彼は,お祈りも知らないままなのに?

わたしは膝をつき、考えている。それは、若い猿と年老いた猿では哀しみの度合いが違ってくるだろうと思った。

部屋に流れる音楽を聞き,わたしは音量をあげるが、C O C Oのよさは、あらゆるものの中でそれが生きている感じがするからだと思う。数あるシンガーの中で一体どれだけの人が無意識で、俗に汚される前にそれだけの魔法を見せる事が出来るのだろう。わたしは自分がいちばん好きな曲を聴いてみるが、何度聴いても、それが自分よりももっと深みがあるんだと言っているような気がしていた。

音楽とか、それは新たなけしきをここへ持ってくるし、わたしは今日もここにいて、いろんなところへ行き,話し、それから自分の目や耳で世界を感じ取る事が出来るとおもうのだが,それが果たして自分が選択している事なのか,それともセンターの中にいる猿の想像の域を出ていないのか,わたしは明日やって来るだろう束の間の自由について考えながらも、ふたたびまったく分からなくなるのだった。

創作日記①ベルトコンベア

いつもは、片付けの仕事、それから冷凍食品のベルトコンベアの中間くらいに居座る。色々な道具を持ってきて,それで窓や床を拭いて,片付けをする。たまに時計も見たりする。いろんなものが片付いて行くのは気持ちが良い。仕事は、それが終わったら帰る。真っ暗な部屋から出て,外じゃ起こらないような事があそこじゃ吹き溜まりみたいにして湧いたかと思うとまた静まって行く。でもそれはそれで補完されたことだと思う。ベルトコンベアーが流れるのを見ながら,その中に居座って自分の知っている事だけをする。そういうとき、作業はうわのそらで自分はいつも真四角の立方体のことばかり考えている。それが、外から来る時に見えているこの建物の外観だからで,自分はそこにわざわざ運ばれて来て、当たり前みたいにその場所にいるが、その中にはあり得ないほどの食べ物の量と、ありえないほどの人間が詰まっいて作業をするが、自分は、夕方になるにつれて滞る。でも帰って外に出てみるとそこはいつもどおり、補完されるまえの世界の姿があって,自分もマスクを取って息を吸う。そこに行けば何かを調理するということに何となくで自分は手を付けているが、そういう行為は,食べてしまって無くなるまでが目的で、それを片付けまでするのがひとつの作業としてあるんだとある時に思った。それに気づいたのは旅行に行った時にそういう場所があると知ったせいだった。だからそれを、自分がおわりには永遠に行けないということをそのときになんとなく知った。お葬式に出て,わたしは最後まで、そのセレモニーが取り払われるまでをずっと見ていたが、その時にやっとわたしはちゃんとしたと思った。波が寄せてきた後で帰って行き,そこには何かが積まれて行ったり、あるものがなくなったりする。そうしてこの建物の中にいるとすべてはゴミ,ゴミ,それとも生きる、生きる,そうでしかなく、それも遡ってみれば誰が決めた事なのじゃないかと思った。もしもいま、だれかが急ブレーキをふんでそうじゃなくなればわたしも家に帰るが,食物もちゃんと家に帰り,それから更地になったせいであとの物事は他のサイクルに巻き込まれて苔むしていく。わたしはそこに毎日,水をあげに来る。皆がこの工場の鉄屑をどんなふうに処理するのかを考えだし、それは慈善団体が家庭の傍らで合理的に処理する事になるのである…

わたしはそこにまた今日も入る。その仕組みのなかに,、、そうなるとわたし自身もこのポンコツなサイクルの一部になってしまったような気がし,かつてペンを取って何かを書いていたこと、調理器具を持って料理を作ってきたことを思い出し,無性に腹が立って来、それは突発的な気分でしかなかっあが、上司に尋ねるとそれはそんなことはないという。それらには大層な社訓もあるし、きちんとした法規にのっとって、利益だってあげていると言い,わたしの手の中にまったく目には見えないカネを入れてくれる。わたしも頭を打ちつけたみたいな気分になり、それなりに納得した後でまた日々に戻るが,あるひそれは待っていたように転覆してしまう。わたしは生理で、家族ともごたごたがあった後で上司の住んでいる部屋のドアをがたがたと言わせて,大声で言いたくなってくる。それだって、全部,人間の本能が決めたことでしょう!法律や国家や、食べ物の根っこが生えてくることや、あなたはいったいどれだけの人を騙し続けてるの?…自分でも何でそう思ったのかわからないが、わたしはそうしてるうち、隣の人からぽん、と肩を叩かれる。そうしてきみも、誰かにお経をあげてもらった方がいいんじゃないと言われてしまう。

それで,わたしも帰ることにした。がたんごとんー揺られながら,考えてみればわたしも彼も悪いわけじゃないのだ。けどそんな風になるくらいまで自分の行為が歪められていること,それに自分の根っこの部分までに思いを馳せてしまい、わたしもあらゆる、子作りだったり恋愛だったり,営業だったりの仕事を考えてみて、自分だってそれを選べるはずなのに,何故そんなことさえ分からなくなってしまうんだろうと思った。

わたしは帰り道で自分に子どもがいるときの人生について考えてみた。それはきっと、飲み会に顔を出す友人が話す内容のように、ある日突然ーまるで事故みたいに起こる恋愛のようにやってきては、わたしの身の回りを埋め尽くしてしまう。それからそうなるうち、わたし自身知らぬ間に人に言うことや,やる事もまるきり変わってしまい、何かを余計に買ったり用事をことわり帰ってくるようなのが幸福のかたちになる。もちろん、あらゆる不幸の形も用意されていて、それが人生の根本に絡み合い、わたしは数年,こんな筈じゃ無かったと一人で思い悩むことになる…。それからトイレの水を流す。わたしは家の中にあった,枯れきってしまった観葉植物の鉢を触ってみる。土をその鉢植えからはずすと、そこには乾燥しきった土と絡まりまくった根っこが出てきた。わたしは、ひろげた新聞紙の上でそれを眺め,さわるにつけ、あまりにかさかさしているのでそれは,もはや医者が来たとしてもどうにもならないだろうと思い、諦めてそれを処理することにした。わたしはそれで、数分間自分のことを責めていた。わたしはパキラをそだてる資格もなければ、あるいは鯱のように行動学が必要な動物を育てる資格もないし、それなのにまた植物園に出かけたり、美術館へ通うことをよしとしている。

それからいつものように,書きかけのノートを取り出して自分のことを書いてみる。

ーすべての行為には終わりがある

わたしはペンをすべらせ、考えてみる。すべての行為には終わりがあり、それを文学では昇華と言う。

わたしの昇華された行為ーそれは5、6件くらい。それでわたしもついでに、それらに居座る数人の人らを思い出すが,どうしてあれやこれやとお立ち台に乗っかってそれを昇華されているはずの人たちが、根本に回帰することもなく、単にあれだけ偉そうになっていくんだろうと思う。

擬似メンヘラ、とわたしは書き、それは良いが、とりあえず色々と考えあぐねていた。それは、詩でも良いかもしれない。それから、俳句でも良いのかも知れない。けどそれをやっていた人たちが皆,幸福そうだったかと思えば,そうでもなかったと思った。わたしを取り巻いていた人たちの顔、それからそれらの評価、うるさいくらいの人の声。そういうものを振り切ってまでやるべき事なんて、本当にあるんだろうか。

わたしはわたしの行為を,誰かに受け止めてもらいたい。わたしはそう書いていた。色んな人がおり、皆が一様に不幸せそうだったと思った。わたしは色んなことを無視し、必要以上に受け止めてはうっとおしがられたが、どれだけ歳をとっていてもそういう当たり前のことをはっきりと声に出して言ってくれる人はいなかった。それは昇華や、行為や、自然のサイクルや、すべてをはみ出してしまったあとで真っ黒い油性のペンでとうとつにそこに書かれた事みたいに見えた。

8/31

今日は特に何もしていない。でも小説を久しぶりに書いていて,それが結構書けたのでよかった。ある程度まで考えたやつを書いてて,あとは自分の中で考えつつ書くみたいにやってたら異次元のホールみたいな感じのやつがいっぱい出てきていて,この先に書くことみたいのは全く決めていないんだけど多分この調子で行けば以前みたいにずっと書けるんじゃないかなと思った。それで、自分はとりあえず一日のスケジュールとして、小説を書く以外のことも色々あるから当然,朝起きて,片付けとか,他のことをしたりもするんだけど「さあ、やるぞ」ってなってからやり終えるまでの時間がだいたい、一時間半くらいしかなくて、改めて考えて「はっ?」てなったのである。一日二十四時間あって,自由に使える時間はたぶんとびとびでも合わせれば数時間はあると思うんだけど,その中で机に向かって+集中してかける時間が一時間半だった。それで、その集中して書いた後はその中の世界に三分の一位自分は使っているため、何かぼーっとしてるとまではいかなくても「何もかも面倒臭い」「ご飯を作るのも面倒くさい」みたいになっていたりする。それで、45分くらい片付けとか(片付けが一日の終わりまである)コーヒーを飲んだりしてすごしているとだいたい、「さっきまでの倦怠感はやはり、虚構だった」みたいになってきていて、それからやっとご飯を作って食べるんだけど,これも大体合わせて45分くらいはかかっている。自分ははっきり言ってこのことに,苛立ちすら感じているんだけど,でも大体そのくらいかかるのと、周りを汚すので,YouTubeとか本とかもたいていは見ないで食べているので,とにかくボーーーーーーッとしてるだけみたいな時間&一時間半虚構をつくってるだけみたいな時間を終えて,それから午後はまるまる片付けが山ほどあるみたいな風になってたりする。ちなみに説明すると、片付けと言ってもその中に,ちゃんとした仕事みたいなもの二時間ー三時間くらいはあって、その時は「早くこんなことやめたい」と思いながらも集中して仕事をしている。それで,その後は数時間くらい立て続けに片付けがあって、45分くらい横になりながら息抜きのメルカリを見た後でまた、片付け、それからそろそろ「それじゃ一日がもったいない」と思い始めるので,ふりしぼって朝の一時間半にプラスした分の創作日記みたいのを書いたりしている。この、創作日記に対して,何の意味があるのかと思ったりするひともいるかもしれないけど,自分がなにか訳の分からない長い文を書いている間どうしても、こころのなかで(本当に書けるの…?本当に終わらせられるの…?)ていう気持ちが湧いてきて止まらなくなっているので、そういうときに短い文とかを作ってはじめ→オワリまで見渡してみて、自分の調子とかを測るみたいなデコレーションみたいな意味があったりするのである。

虚妄プロパガンダを見ていて思ったこと

①思想は教育でも体験でもなく,プロパガンダとコマーシャルによって浸透する⇒生け贄の信奉論

 

これだけ民主主義は信頼がおけるという世の中にあって、表面上でだけはとりあえずみんなが当然の仲間同士みたいな空気を保ちつつ暮らしているなかで、なぜ未だに,戦争が起こったり,ずるいことをしたり,人のものを盗んだり,領土を広げようとする人がいるんだろうと自分は考えていました。で、そもそも、民主主義は民主主義っていう宣伝をされた人たちに対してのみ通じることで、今のように民主主義で代表を選び、その代表自体が腐敗しまくっているという構造の中にいてそもそも、その制度自体どこが合っているのか?という考えのなかでこれは、単なる宗教みたいなものなんじゃないかと思い始めて来たんですよね。で、目の前で脱糞しつづけるみたいなことをしつづける大統領みたいな人を見ていても誰も何も言わないのにいたっても到底民主主義を遂行しているようには見えないがマスコミがそっちをフォローするように完璧に出来ているんだと思うし,それもひとつの教育としてあって、周りの人たちがあがった舞台で大統領が受け入れられているというポーズを完璧に流しまくっているからで,実際の利益やいいことなんてしてくれてなくてもそういう虚構の空間が保ち続けられるのは、そういう本当はないけどあるような線をずっと引き続けられたのちに「そうするべき」って教育されたのちの市民が,べつに強烈にそうしたいわけじゃなくとも,「まあ、そっちの方でいいか」っていう選択権をつねにもぎ取られてるからなんじゃないかと思ったんです。

で、それで民主主義を疑っているわけではないけど、「だから、民主主義は良い」とまったく機能なんてしてないやり玉政権の中で自分が思ったのは教育以後に実際に体験して来た経験にあって、仕事をしていて結局は振り返りもせずに常日頃感情論ばかりを持ってくる野蛮な人が表面上ではボコボコの反対論者をそのへんに置いて「まあ、こうした方がいいんじゃないか」みたいな見た目でしかない平和をそれでも保ってるだけに見える状況に数多くおかされたからで、「言っていたことと本当は全然違うじゃないか」とこれを、何回も何回も刷り込まされて来たからなんですよね。だから、秩序というのはそもそも世界にあったんでなくて世界に対応した理想の世界にあるのみで,それを人間が遂行していくという現実はあるものの,実際は動物じゃないかということはなんべんも思ってきました。人間は、善に目覚めることは出来ても,限りある能力,未来,身体能力、それから家族という有限な資源を活用していくしかないということに気づかないくらいわがままで傲慢だったような人格もまだそこらじゅうにいて,そういうのに対していろんな依存症や虚妄を注ぎ込んだ結果で悪に成り代わることはできるんだと思う。で、どうしようもない事ばかりを繰り返されて来たという経験をあまた経て、誰にも期待なんてしないと思っている自分がいても、でもどうしても感情以前の理屈の方では理想のベースに立っているままの僕がいたりして、「こうするべきなのに」っていうのがいつもあるのは一体どうしてなのか、ここにいてニュースを見るだに「どうして?なんでこんなに常におんなじようなことで争ってるの???」と思っているのはどうしてなのかって思っていたんだけどそれは,自分が教育を施されて「理想の世界」を戦後の知識人達がたくさん見せてくれて来たせいなんじゃないかと僕というかわたしは今日、思ったのであります。

それで自分は、だいたい何もかもが滞って来た時は,もしこの世界が今のような当たり前のない原始的な世界だったら…と考えることがあるんですが、だいたい言語が通じるようになったくらいの時代の人が利害が合わさって寄り集まってひとつの村になったあとでとりあえず、村の性質ってなんなのかと考えてたんですが個人ていうのがそもそも、周りの人自体全員が敵という知識を持つ人たちが溢れかえっているのが初めの状態としてあり、いまもそれ自体それほど変わってないのかもしれないと思ったんですよね。改めて、この狂った世界にずっと置かれていて自分は自分は子どもころから絵本やら幼稚園やらで「みんなと仲良くしなさい」と教えられて生きてきて,「皆=自分と同じ」「仲良くするべき」みたいなのを信じるのが当たり前みたいにしてはいたが,それだって実際大人になって嘘だったと感じ始めているのがいまで、皆=仲間でもなんでもなくて利害で集まったごく最初ムラの原理と特に変わりなんてなかったんじゃないかと思いました。

 

②けどそれじゃあなんなので、とりあえず紀元前にいたパンダ先輩について考えてみた

とりあえずそれだけで終わるのもなんなので,パンダ先輩について考えてみることにした。自分がパンダ先輩から「イエスorノー」「やるorやらない」という謎かけをされ続けていた数年間を終えて,自分がやっていたことを一応で書いてみます。

 

一、白黒にかけて断罪しまくるよりも人間なのでそれ以外に大切なことがたくさんあると言いまくる

 

とりあえず,困った時に自分は根本まで遡って考えるという癖があるのですが,なんで自分がこんな質問をされ続けて居るのかと考えるに、それは向こうがフィールド自体を持ってきたいからと言うのがあります。だいたい、ヤクザとか百戦錬磨のバカみたいなのはそういうのが自分が好き好んでやってる趣味でなく世界の方があらかじめ定めている勝負なんだとアホみたいに言ってくるところがあるんですが、そんなふうに大切なこと以前の趣味フィールド自体を勝手に持ってこられた時は,必ず向こうが勝てる勝ち戦を勝手に持ってこられてると考えて良いと思います。だから僕は、イエスとノー以外にも答えは沢山あると公衆の面前で言いまくりました。そのおかげで,彼はただのパンダに成り下がりました。

 

ついでにいえば自分がこの経験をしてきて思ったのが,若い人が来て仕事お願いしますみたいな感じで来ている時に,じゃあそれは、どういう理由でしようと思って,結果的にどういう意味を持つのかと思ってやってるんだろうということです。なんでかというとこれは、僕が意地悪だというよりも別にしなくても良いことを勝手にやっている属性の場合(※YouTuber、ブロガー、小説家ナド)向こうが何も考えてない分、付き合うだにこっちの方にそのぐるぐる思考みたいなのを背負わされまくっているような気が多いような気がしていたんですよね。それで、不思議だったのがこの間そこにいる前世豚みたいな人から出会い頭に「で、いったい何がしたいわけ?」と聞かれたということがあって,自分もそれについてまじめに,自分の行いとかを思い出しながら考えたあとでハッとしたと言うことがありました。自分は、なにがしたいかと聞かれて,そもそもしていること自体そいつに全く関係がなかったという事、それから「ていうかそもそも、お前が何をしたい人間なわけ?」と感じていたということです。だからこんなふうに、本来自分が周りから山程聞かれるべき設問を他人の方に投げかけては空を飛び回ってるだけみたいなやつが山ほどいるのがこういう界隈だったりするんですが、自分の場合はそれ以外にもう長くやっている普通の仕事とかもあり、ふつうに三十ン年も生きていれば,ひとつのことに打ち込んだ結果ものごとの「わけ」「いみ」もわかり始めているのが普通だと思っていて,もう三十ン才くらいになっているような大人だとしたらちゃんと話す前から自分でそのへんを明確にして不信感を持たれないようにしてから、挨拶こみでやって来て欲しいなと思いました。

 

ーおわりー

 

 

 

 

 

ニ、親切にする

とにかく根本的に遡ってみて,クイズをやって居る以外の時間に存在して居る時,自分達は同じ人間だと思い込んでたまに親切にしてみました。

 

 

三、この状況はいつまでも続かない

とにかく今、九割がた勝ちフィールドにいるからこそ無理難題を押し付けてついでに脱糞もしまくって居るみたいなんですが当然,あなたにとって都合の良いこのフィールドはいつまでも続きません。皆さんもこのことは心しておいてください。相手に彼女がもはやできてるのに「あなたにとって俺は、白or黒?」みたいなことを言い続けていてももはやただのストーカーにしか見えなくなってしまいます。

 

 

 

 

 

 

じゃあサヨウナラ。

詩ーーーー潜水艦

深い深い海の底に落ちていく潜水艦。進路も何もかもが分からなくなる。深い海の底は漆黒の紺色のような泥が覆い、いまはそういうこころの内にいる。次第に上下左右が分からなくなり,ああここでは、何もかもが無秩序であるばかりになった。地上はよかった…わたしは思う。地上には差別や諍いがあり、日々悲しいことだらけだったけれど、まだ秩序があった。秩序があれば、感情があった。けれど秩序がないというのは、心を闇の中にあるだけのように見せるから、ただただこれまでの自分を、蝕んでいくだけなのだ…けどわたしの兄はこういうところで生まれたはずだった。だから彼の言葉は,まだ信頼がおけると思う。わたしのからだの方はいつのまにか、とてもとても大きくなってしまっていた。だからいまや、わたしの住んでいる家といえばそこらじゅうの国の公道へつながっていて、何の囲いもなかった。わたしの吐くことばにはまったく無駄が許されなくなった。わたしは囲われている動物のような存在で、皆のために言葉を吐く。そうすると述語や目的語,修飾も無駄な紆余曲折もゆるされずに、主語がないままで動詞だけが流れだしていくようになった。それは、取り留めもなくどこかへ注がれていく川みたいに見える。わたしがどんどん流れだし,けどもうそれを、悲しいとは思わない。わたしは生きる仕組みを失ったまま流れだし、繋がるところもわからないままでさまよう。それがわたしのことばで、わたしのこころはいつまでたってもどこへも行くことが出来ない。心は,そんなふうにしていつの間にか深い深い海の底に沈んで行くみたいになった。
わたしは上下左右も分からなくなり,潜水艦は何がしたいのか,どうあればいいのかも分からなくなった。そこにいてただ、これからはずっと言葉がなんのきっかけもなくうまれてくるのを待つだけになった。