To be continued

単純な日記です。

虚妄プロパガンダを見ていて思ったこと

①思想は教育でも体験でもなく,プロパガンダとコマーシャルによって浸透する⇒生け贄の信奉論

 

これだけ民主主義は信頼がおけるという世の中にあって、表面上でだけはとりあえずみんなが当然の仲間同士みたいな空気を保ちつつ暮らしているなかで、なぜ未だに,戦争が起こったり,ずるいことをしたり,人のものを盗んだり,領土を広げようとする人がいるんだろうと自分は考えていました。で、そもそも、民主主義は民主主義っていう宣伝をされた人たちに対してのみ通じることで、今のように民主主義で代表を選び、その代表自体が腐敗しまくっているという構造の中にいてそもそも、その制度自体どこが合っているのか?という考えのなかでこれは、単なる宗教みたいなものなんじゃないかと思い始めて来たんですよね。で、目の前で脱糞しつづけるみたいなことをしつづける大統領みたいな人を見ていても誰も何も言わないのにいたっても到底民主主義を遂行しているようには見えないがマスコミがそっちをフォローするように完璧に出来ているんだと思うし,それもひとつの教育としてあって、周りの人たちがあがった舞台で大統領が受け入れられているというポーズを完璧に流しまくっているからで,実際の利益やいいことなんてしてくれてなくてもそういう虚構の空間が保ち続けられるのは、そういう本当はないけどあるような線をずっと引き続けられたのちに「そうするべき」って教育されたのちの市民が,べつに強烈にそうしたいわけじゃなくとも,「まあ、そっちの方でいいか」っていう選択権をつねにもぎ取られてるからなんじゃないかと思ったんです。

で、それで民主主義を疑っているわけではないけど、「だから、民主主義は良い」とまったく機能なんてしてないやり玉政権の中で自分が思ったのは教育以後に実際に体験して来た経験にあって、仕事をしていて結局は振り返りもせずに常日頃感情論ばかりを持ってくる野蛮な人が表面上ではボコボコの反対論者をそのへんに置いて「まあ、こうした方がいいんじゃないか」みたいな見た目でしかない平和をそれでも保ってるだけに見える状況に数多くおかされたからで、「言っていたことと本当は全然違うじゃないか」とこれを、何回も何回も刷り込まされて来たからなんですよね。だから、秩序というのはそもそも世界にあったんでなくて世界に対応した理想の世界にあるのみで,それを人間が遂行していくという現実はあるものの,実際は動物じゃないかということはなんべんも思ってきました。人間は、善に目覚めることは出来ても,限りある能力,未来,身体能力、それから家族という有限な資源を活用していくしかないということに気づかないくらいわがままで傲慢だったような人格もまだそこらじゅうにいて,そういうのに対していろんな依存症や虚妄を注ぎ込んだ結果で悪に成り代わることはできるんだと思う。で、どうしようもない事ばかりを繰り返されて来たという経験をあまた経て、誰にも期待なんてしないと思っている自分がいても、でもどうしても感情以前の理屈の方では理想のベースに立っているままの僕がいたりして、「こうするべきなのに」っていうのがいつもあるのは一体どうしてなのか、ここにいてニュースを見るだに「どうして?なんでこんなに常におんなじようなことで争ってるの???」と思っているのはどうしてなのかって思っていたんだけどそれは,自分が教育を施されて「理想の世界」を戦後の知識人達がたくさん見せてくれて来たせいなんじゃないかと僕というかわたしは今日、思ったのであります。

それで自分は、だいたい何もかもが滞って来た時は,もしこの世界が今のような当たり前のない原始的な世界だったら…と考えることがあるんですが、だいたい言語が通じるようになったくらいの時代の人が利害が合わさって寄り集まってひとつの村になったあとでとりあえず、村の性質ってなんなのかと考えてたんですが個人ていうのがそもそも、周りの人自体全員が敵という知識を持つ人たちが溢れかえっているのが初めの状態としてあり、いまもそれ自体それほど変わってないのかもしれないと思ったんですよね。改めて、この狂った世界にずっと置かれていて自分は自分は子どもころから絵本やら幼稚園やらで「みんなと仲良くしなさい」と教えられて生きてきて,「皆=自分と同じ」「仲良くするべき」みたいなのを信じるのが当たり前みたいにしてはいたが,それだって実際大人になって嘘だったと感じ始めているのがいまで、皆=仲間でもなんでもなくて利害で集まったごく最初ムラの原理と特に変わりなんてなかったんじゃないかと思いました。

 

②けどそれじゃあなんなので、とりあえず紀元前にいたパンダ先輩について考えてみた

とりあえずそれだけで終わるのもなんなので,パンダ先輩について考えてみることにした。自分がパンダ先輩から「イエスorノー」「やるorやらない」という謎かけをされ続けていた数年間を終えて,自分がやっていたことを一応で書いてみます。

 

一、白黒にかけて断罪しまくるよりも人間なのでそれ以外に大切なことがたくさんあると言いまくる

 

とりあえず,困った時に自分は根本まで遡って考えるという癖があるのですが,なんで自分がこんな質問をされ続けて居るのかと考えるに、それは向こうがフィールド自体を持ってきたいからと言うのがあります。だいたい、ヤクザとか百戦錬磨のバカみたいなのはそういうのが自分が好き好んでやってる趣味でなく世界の方があらかじめ定めている勝負なんだとアホみたいに言ってくるところがあるんですが、そんなふうに大切なこと以前の趣味フィールド自体を勝手に持ってこられた時は,必ず向こうが勝てる勝ち戦を勝手に持ってこられてると考えて良いと思います。だから僕は、イエスとノー以外にも答えは沢山あると公衆の面前で言いまくりました。そのおかげで,彼はただのパンダに成り下がりました。

 

ついでにいえば自分がこの経験をしてきて思ったのが,若い人が来て仕事お願いしますみたいな感じで来ている時に,じゃあそれは、どういう理由でしようと思って,結果的にどういう意味を持つのかと思ってやってるんだろうということです。なんでかというとこれは、僕が意地悪だというよりも別にしなくても良いことを勝手にやっている属性の場合(※YouTuber、ブロガー、小説家ナド)向こうが何も考えてない分、付き合うだにこっちの方にそのぐるぐる思考みたいなのを背負わされまくっているような気が多いような気がしていたんですよね。それで、不思議だったのがこの間そこにいる前世豚みたいな人から出会い頭に「で、いったい何がしたいわけ?」と聞かれたということがあって,自分もそれについてまじめに,自分の行いとかを思い出しながら考えたあとでハッとしたと言うことがありました。自分は、なにがしたいかと聞かれて,そもそもしていること自体そいつに全く関係がなかったという事、それから「ていうかそもそも、お前が何をしたい人間なわけ?」と感じていたということです。だからこんなふうに、本来自分が周りから山程聞かれるべき設問を他人の方に投げかけては空を飛び回ってるだけみたいなやつが山ほどいるのがこういう界隈だったりするんですが、自分の場合はそれ以外にもう長くやっている普通の仕事とかもあり、ふつうに三十ン年も生きていれば,ひとつのことに打ち込んだ結果ものごとの「わけ」「いみ」もわかり始めているのが普通だと思っていて,もう三十ン才くらいになっているような大人だとしたらちゃんと話す前から自分でそのへんを明確にして不信感を持たれないようにしてから、挨拶こみでやって来て欲しいなと思いました。

 

ーおわりー

 

 

 

 

 

ニ、親切にする

とにかく根本的に遡ってみて,クイズをやって居る以外の時間に存在して居る時,自分達は同じ人間だと思い込んでたまに親切にしてみました。

 

 

三、この状況はいつまでも続かない

とにかく今、九割がた勝ちフィールドにいるからこそ無理難題を押し付けてついでに脱糞もしまくって居るみたいなんですが当然,あなたにとって都合の良いこのフィールドはいつまでも続きません。皆さんもこのことは心しておいてください。相手に彼女がもはやできてるのに「あなたにとって俺は、白or黒?」みたいなことを言い続けていてももはやただのストーカーにしか見えなくなってしまいます。

 

 

 

 

 

 

じゃあサヨウナラ。