To be continued(お掃除期間)

単純な日記です。

自分達が当たり前に敵だと思ったこと

①民主主義を宣伝して来た

この間ふと、考えていて思ったのは,これだけ民主主義が〜という世の中にあって、表面上でだけはとりあえずみんながナカーマみたいな空気を保ちつつ皆が暮らしているなかで、なぜ未だに,戦争が起こったり,ずるいことをしたり,人のものを盗んだり,領土を広げようとする人がいるんだろうと自分は考えていたが、そもそも、「人=ナカマ」という考え自体が間違いで,民主主義は民主主義というコマーシャルで染め上げられた人たちに対してのみ通じることなのじゃないかと思った。だいたい言語が通じるようになった世界が→ひとつの村になったということだとしても、とりあえず、村の性質ってなんなのか、そもそもの始まりまで遡ってみれば,自由な状態においてはまったく知らないし言葉も通じない個人が、相手が誰なのか、何をしたいのかもわからないまま「人=テキ」という知識を持つ人たちが溢れかえっていたんだと思う。多分、人ははじめ他人同士でお互いが役に立つかどうかもわからないままでいたのが、いずれ家族で寄り集まって、家族がまたほかの近くにいた気の合う人たちで寄り集まり,身を守りあう共同体を作って村になった。はじめは他人同士だったものがちょっとずつ塊を大きくしてゆき、それが大きくなったのが国になったのだとしたら、この塊は人=他人ていうのが原則なのだと思う。だから、改めて狂った世界において、自分は子どもころから絵本やら幼稚園やらで「みんなと仲良くしなさい」と教えられて生きてきて,「皆=ぼくと同じホモサピエンス」みたいなのを信じるのが当然の病みたいにしてはいたが,それは実際大人になって嘘だったと感じ始めているのがいまで、皆=ナカマじゃなくて、それはまったく人というのは,一人一人が秩序があるのでも、おんなじでもなくて,人間は基本的に知らない奴に対して敵意識をびんびんに感じながら生きてる動物であり、それだからこそコミュニケーションを取る必要があるし、挨拶とか握手みたいなもので敵意はないってことを日頃するように教育されて居り、だからそういう、ルールすら守られてない場においては、人=自然状態において自分の利益のみ追求し続ける孤独な猿ということを教えるのがほんとうは正しい教育で,そう考えてみれば,自然状態で「人=テキ」だった民主主義のコマーシャルに染まっていない人たちにとってのちょっとでかいだけの村(国)からみた他の国は「=テキ」しかも原始状態において自分の生命を脅かしてくるような原始的思考,感情を持って居る敵とみなすのはごく当然なことなのだと思つ。自分はこの「当たり前のこと」というのがいつまでも、なんでそうなるの?みたいに感覚的に理解することができてなかったんだが、今回そんなふうに原始状態の他人ていう気持ちを持ったままでとりあえずの村を作ってゆき、それが個人ていう状態であちこちに未だあるだけと考えたら、利害が同じじゃない限りずっと敵対していてもそれはあたりまえの自然状態なんだなと思ったのだった。それは、仕事をしていて人=原始的な感情を持つ野蛮な人が,表面上で民主主義を保ってるだけに見える状況に数多くおかされたからだと思う。「本当は全然違うじゃないか」というのと人は,動物じゃないかということ、そういう経験をあまた経てもまだ、感情以前の理屈の方では理想のベースに立っているままの僕がいたりして、ここにいてニュースを見るだに「どうして?なんでこんなに常におんなじようなことで争ってるの???」と思っていた。デモこういう考えで辿っていったら民主主義というごく平和な状態は,それを大多数の側,支配する側が完璧なるコマーシャルリズムにおいて市民に流布して「これが平和」と言うことを経験させ教育しているからこそ「そっちのがいい」ってなって居ることなんじゃないかと僕というかわたしは今日、思ったのであります。

②けどそれじゃあなんなので、とりあえずパンダ先輩について考えてみた

とりあえずそれだけで終わるのもなんなので,パンダ先輩について考えてみることにした。自分がパンダ先輩から「イエスorノー」「やるorやらない」という謎かけをされ続けていた数年間を終えて,自分がやっていたことを一応で書いてみます。

一、イエスorノーとかじゃなくて,それ以外の答えがたくさんあると言いまくる

とりあえず,困った時に自分は根本まで遡って考えるという癖があるのですが,なんで自分がこんな質問をされ続けて居るのかと考えるに、それは向こうがフィールド自体を持ってきたいからと言うのがあります。だいたい、ヤクザとか百戦錬磨のバカみたいなのはそういうのを「勝負勝負」みたいに言ってくるところがあるんですが、フィールド自体を勝手に持ってこられた時は,必ず向こうが勝てる勝ち戦を勝手に持ってこられてると考えて良いと思います。だから僕は、イエスとノー以外にも答えは沢山あると公衆の面前で言いまくりました。そのおかげで,来なくなりました。

 

ついでにいえば自分がこの経験をしてきて思ったのが,若い人が来て仕事お願いしますみたいな感じで来ている時に,じゃあそれは、どういう理由でしようと思って,結果的にどういう意味を持つのかと思ってやってるんだろうということです。向こうが何も考えてない分こっちの方にそのぐるぐる思考みたいなのを背負わされまくっているような気がしていて、でももう三十ン年も生きていれば,ものごとの「わけ」「いみ」もわかり始めていると思います。知っててやる,知らないでやる,これはもう本当に、皆がだいたいのわけを知ってる世界だと思います。若い頃は周りの行動に付き従ってやっていたことも,じゃあ誰がそれをやろうと言い始めて,どれだけの人がこういった物事の最後の最後にきたる結果というを知っていて,しかも【【【責任】】】を感じることが出来るんだろうということの方が気になってしまってました。

ーおわりー

 

ニ、親切にする

とにかく根本的に遡ってみて,クイズをやって居る以外の時間に存在して居る時,自分達は同じ人間だと思い込んでたまに親切にしてみました。とにかくこんな訳の分からない世界において,敵味方ストーカーorジャンキー以前に、自然状態にいるときの自分の方がいちばん受け身が取りやすいと思います。が、そうすると問いをかけまくりたいだけだったパンダ先輩がその親切を全スルーしないと成り立たないアイデンティティの秩序が狂い出して,ただのクソパンダに成り下がってしまった。

いわば、自分でかけた「フィールド」という呪い…!

 

 

三、この状況はいつまでも続かない

とにかく今、九割がた勝ちフィールドにいるからこそ無理難題を押し付けて居るわけですが当然,この状況はいつまでも続きません。皆さんもこのことは心しておいてください。相手に彼女がもはやできてるのに「白or黒?」みたいなことを言い続けていてももはやただのストーカーにしか見えなくなってしまいます。なので、自分の場合毎回,それをやる、取り掛かる以前に「どおしてこんなことをしてるんだっけ?」と遡ってから考え出して居るため自分が心底やりたいと思えること」しか手を出さないようにしています。自分がやりたいことだったらいくらでも説明できるしやめ時もわかってます。あとは、貶されても自分の責任だと感じられるので性格も良くなると思います。パンダ先輩とかも100%やりたいだけでやってるように全世界から見做されてる時代だと思います。今,だからわたしのことバカっていうけど,わたしだってみんなが言うからやってたの!みたいな言い訳はするのをやめて,やりたかった人格で行く方が信用の面においては自分は良いと思います。

 

ちょっと重複が出てしまったかもしれませんが後でなおすかもしれません。じゃあサヨウナラ。