To be continued(お掃除期間)

単純な日記です。

「ー」になりたいワタシ

昨日は職場の人と会って来た。その小一時間あとくらいから最近ふさぎこみがちだった気分がやっとすっきりしてきた気がした。あー発散することや本音を言う事、それが曲がりくねってしまえば人に意地悪することって本当は楽しいことだったんだなって思ってしまった。そんなふうに最近は我慢して我慢して、気づかないうちに感情自体をスルーすることを繰り返ししてたんだなと思う。
それについて、sさんについて自分が語るとまたうざくて長い話になってしまいそうなのでやめるが、自分が昔から一人で考えていたーになりたいという話と関連しているかもしれないとなんとなくで思った。

他人にあからさまに打ち明けたことはないが、昔は「ー」になりたいとよく思うことがあった。なりたいというか、自分ははじめからそうだったんじゃないかと思い始め、それからはそこを掘れば掘るほど、自分の外側やコミュニケーションはそういう特徴ばかりを持っていたのだ。だから目を塞いで、なんとなくで判断してしまえば僕はまるきり「ー」だと思う。昔は性同一性障害みたいな話はドラマや漫画の中にしかなく、開けっぴろげで例えば、願望の時点から「ー」か否かについて話す人はほとんど居なかった。
これは日記だから書くが、もともと発育とかもそれ程良くなかった。考えたが、今まで一日中自分を拘束して頑張ったことと言えば勉強くらいしかなく、他の場所でも感情的になる事がほぼなくて、自分がしたいこともなければ他人にやってもらいたいことも無く、夢もなく、未来も考えず、ただぼーっとして過ごしていた。だから昔から「覇気がない」みたいな理由だけでいじめられることが今思い返してみればあった。覇気ていうか、何してるのかわかんないみたいな。それは、正直僕自身も全く分かっていなかった。ていうかそれに対しては劣等感を感じるというより、なんで周りはこんなにも色やかましく、しかも毎時間騒がしいのかなと感じていたと思う。だから蓄積されていっていることといえば、それに関して自分に対してというより、他人の自由奔放さばっかりが自分のなかに入ってきた。「ああはなれないな」ていう。そういう感覚。
僕が、ーになりたいを拗らせていて、最後の方は「なるべき」とさえ思い、ひとりで夜アツくなったりすることもあった。僕は、演歌見たいのを聴いて、しかもそれで感情移入し過ぎて、そこにいるべきはコイツでなく、僕なのだと確信していた。その確信はまるきりはっきりした意志だったと行ってよく、僕はそれに対する方法論をすべて知っていると何故か思った。誰かに聞かせたりとかはしなかったが…これは、僕と、社会的なもの、環境のせいも多くあると思いながら、でもそれを書き尽くせていなかった。数年が経ってそれが収まっているということに僕は気づいたのだが、そのとき「ー」のことはあまり考えなくなったのはなぜか、それは目の前に父性を持ったリーダーがいて、僕に対してかなりきちんとした批評をされている時、膨大な感情「「ー」になりたい」」」」」みまいのを感じることがなくなっていた…急速に。そんなふうにリーダーが上手く働いている時、自分はまったく変化(へんげ)しなくなっていた。

行動の原理として

今回エスさんと会ってから考え続けていたのだが、もしかすると理由は自分の外側だけでなく、内側の行動原理の方にもあったのかもしれない。僕はああしなさいと言われたらまあだいたいのことは、やるがそれ以上となると急激にやれなくなることがある。たいていはそこにあるなんとなくの雰囲気とか、他人が持って来る気分に対して動かされてる部下としているとき、なぜああなのか…こうなのか…とかどうでもいいことを考えだしてしだいにその中にいることに苦痛を感じ始めていた。そして「ソコジャナイこと」としてそこから出る事を考え始める。それでいて新しい事を始めるとか、他人を引き入れていくような自発性もない。いっぽうで規則があり過ぎても大抵はつまらないと感じはじめる。とにかくもとからして、感情自体がゼロに近いんだと思う。だから、はっぱをかけられるまでとにかく何をしていいのか毎回わからない。こういう人間の場合、だいたいは気ままにそこに居られないと思いながら、何故人は、他人に説明できるくらいのかっこたるルールをあらかじめ持ち得ないんだろう…みたいなどうでも良い事だけを考えだす。で、その根拠みたいな事象のようなことだけを気付けば僕からの視点のみで百パターンくらいの言葉でいっぱい書き連ねていた。そんなふうにもとから僕は、かたくなではあったのだけど一方で、自己みたいのがほぼなかったのである。過去に自分を見た人は、強制されることと、やりたくない事のはざまにおかされてうだうだ言っているだけの自分を、やさぐれてるように見ていたのかもしれない。自分は自分勝手に振る舞うことが正しく無いとか、良いと思わないとかいうより、もっと生理的な問題でそれは大抵僕は何もしたくないんだって感じていた。そのしたくないっていうのがなかなか当たり前の時点では説明出来ていないんだと思った。だから、僕は単にエネルギーの枯渇した自動車みたいに、毎回論理や説明だけでいっぱいになってゆく。でも、ここまで生きてきて思うが、だいたい社会を見てきて、そういう理由を皆は勝手に作り出していたのである。そこに席がそこにいきなりあったとして、誰から言われてなくてもなんとな〜くボクならいてもいいんじゃないかな?って思った時点で皆座り始めていた。根拠はといったって、別になくてもよかったのである。まずそれに僕は毎回、「え、ないの?」てことに驚いてた。僕自身は演技しているわけでもなく、できるときはできるんだからと劣等感ていうより諦めみたいな感情にだんだんとなっていく。吐露、主張、攻撃、それら全て自分にとってひとの前でさせられることはみな同じで、自分はどうしてそれがいまひとつしたくないのか説明がなかなかできない。川の流れみたいのがあるとして、僕だけおもみがあるみたいに立ち止まって理由を探し続ける…そうしてそれを、説明し始めると、そんなこといいからみたいにだいたいなるのだった。それで、無理をして立ってみれば自分の役とはまったくちがう演劇の舞台にあげられて、まったくちがう役に入れ込まれてキモチワルッみたいになるのが結局、赤の他人と関わるみたいな事だったりしたのだ。

あとは仕事をし過ぎて鬱になりかけている時に感じたことだが、仕事ってそのサイクルに絡め取られるせいでその川の中にいることにも理由があるので自分にとっては心地よかったんだと思う。僕は社会人になってから、やっと自分のコトバっていうのが分かったような気がする。それから過去の自分のやってることや、疑問、不満、全て意味不明だったことの意味がやっと分かったような気がした。仕事って、どんな事に対しても対価があって、働く理由もあればそこで会う人も自動的に沢山湧いて来る。だから、僕の場合今度はそこでワーカホリックになっていった。そこは、正直言ってやればやる程で道が確保されていく世界だった。今度は気づいたら、すべてを使い尽くしたあとの何かでまだ動き続けてたみたいな事にもなったりすることがあり、鬱コースってそんなふうにして作られて行くのだと思った。

皆が、やってもいいって時にどうして自分だけそれを出来ないのか。どうして、スーパーセールにせっかく行っても他人に譲ってしまったあとで、一人だけコーンポタージュみたいのを飲んでいるのか。説明する必要性が出て来ると自分も、訳がわからなくって混乱し始める。やりたいから…ではない。やってた。なんで?って聞かれて、僕もそれわかんないの時点にいる。それで自分は苦しいの果てで「ー」になりたいと考えはじめたのかもしれない。で、ーになれば、あれをやってもいいし、これもやってもいいのが世界だった。社会はそれをいろんな部分で認めているじゃないかと思った。アイドルは「ー」。それからお笑いのトップも「ー」。小説、脚本家もいろいろあるけど結局超がつくくらいに有名なのは「ー」。「ー」になれば、とにかくとりあえず洗濯できるような気がしていたんだと思う。