To be continued

単純な日記です。

今日は小説を書いていました。ただ、書いた…それだけです。それから色々な事があったので今後も、何か起こるたびに何を考えて感じていたとしてもそれがどこかに繋がると言うより他人のお楽しみの部分に毎回入れ込まれることで、自分の人格自体剥奪されてくる気持ちになっていた。そこで、もはや何かがどう言われているような事が自分に対して糧になるとも思えない。ただ限りなく現象の時点で他人があるっていう状態になっていけば、どうせそれが天気みたいに変わっていくんだしこれまでのように胸を痛めたり、頭を悩ませていちいち意味とかを考えなくてもいいような気がしていた。

何故か、はじめて会った他人を何の理由もなく信用して来たこともよくあった。でもいまから思い返せばその信頼にどれだけの意味があったのかと考えさせられた。皆、結局未来予測をして良いとこに乗るためにずっと黙っていたわけだなと思ったあとで、それに対してそれ以上の思い入れを感じられない時点に自分がいれば、それ以後超利己的に、これまで本やドラマでただしいとしてあると思い込まされていた人っていう理想の方ではなくて、自分が生き残ることを第一に考えるようになっていく。そう考えるにこれからはこれまでの普通っていうこと自体をなくしてしまって、ふつうに、誰かを信用して、約束するって言うことをする必要性がどっかに行っちゃったような気がした。もし相手になにか意味があることをするんだとしたらリターンなんだろうと思う。やってもらった分をかえす、そういう普通のことができる人と向き合っていくけど、それは多分いつも有限なんだろうなって思う。だってこれまで、全く何も返ってこなかったし。何のリアクションもないものを天気や現象以外の何として崇め奉ればいいのか…

で、そんなふうに自分の範囲内だけで考えてるときにそもそも「信用」って何なんだと思えて来て、それについて考えていた。
信頼感があるみたいな性格があったとしても色んな事がクソミソに詰め込まれているせいで、それが数時間で変わる世界にいれば何の意味もない。とりあえずの安全性とか、秩序が二十四時間くらいは保たれるっていう事を、相手に委ねてる事を信用って言えるのかもしれない。だとしたらそれ以後、自分がしたい時にしたいことをしたいだけするようになる。もう原始時代みたいに。もしかするとそうなれば自分の行動パターンって多分動物みたいに見えるんだろうと思った。それか、本来の生理か、たとえば、こなれていない国同士みたいな。動物も、見ていれば相手に要求もしないし、家族以外には愛着もあまり持たない。で、訪れるところは、それ以前に何となくいい事があったところで、そこで、もういい事が起こらなければただそこに行かなくなる。でも動物と人間と比べて、動物は圧倒的にエゴがすくないと思う。エゴがなければ相手に命令もしないし、相手の行動をわざわざ引き出す行動もして来ないと思う。


で、結局毎日はたいした動きもないのに一日の終わりに会議で結論や感想みたいのを教えてもらう集まりになる。それが毎回不毛だなとは思っていたが、べつにこれはある意味で「カベ」で、参加することが体力なのかも知らんが、そういう結論を見に行くの自体が時間の無駄だと感じ始めたわたしは、もう集まり自体を否定するようになってきました。そうして、もう何も見なくてもいいんだ…!と感じたくらいから、あとは自己責任の世界で自分の好きなものを見る、捨てるみたいな感じになる。思い返せば、いつも自分の背後にあったような他人の見方、声、それが、かろうじてたのしいって感じられていたギリギリの体力状態の自分から、自分はもう、卒業したんだと思う。
こういう会議で、未だそこまで言ってないのに結論を、批評とって血眼になっている相手に対して、感想でなくて会話っていう形式でやればいいんだと思ってみていた。おまえは早めに結論を出したいのかもわからんが、とりあえず会話を続けてください。そうすればあえてまだ何ともつかないものに対しても引き連れてくみたいに状態を維持できてく筈だったし、そんなふうに会話=相手の言うことを受けて、半分くらい返すみたいなやりとりが必要になって行って欲しいとおもったが、多分皆カネに目が眩んでいるから誰もそう言うことは考えてないんだろうなと思う。


ちゃり〜〜んッッッッ的な。



戦争はただの殺人


で、ニュースとかいろんな情報がてんやわんやで入ってくるような毎日になった。コロナの時も、それから大事件が起こった時もそうだったけど、自分もそれについて話題を追っていたが、あまりに声の方がうるさくなってきて眉唾みたいな記事も増えてこれば誰かの恣意がいっぱい働いているんだろうなと思えられて来ていた。僕は、これまで起こりそうな物事に対しても殆ど皆がシカトする状態であったことを、ニュースが、今さら怒るべくして起こった事に対して目まぐるしく変わってくる情報を逐一出して来ていて、感情論さえ湧いて来てるのを見て、こいつらはいったい何なんだと思えていた。それを言ったらあっちだってこっちだって、ミャンマーだって酷い事になっていたじゃないか。せめて民主主義について興味出して考えたり話したりしないのかと思っていたが殆どはそれに対して疑問もいだかずに事の起こりも調べずにお笑いを見たりしてゲハゲハ笑っていたんじゃないのかと思う。こんなふうにエンターテイメントみたいに流布されて初めて感情論さえも飛び出して、それだったら誰が選んだのかもわからない記事を読まされているよりも事の起こりについて個人が考えたほうが良い気がした。ハンコがどうとかおまえが勝手に考え出したのかも知らんが、もうどうでもいいわと思った。もう正直、そこで話とか合うわけがない。

「擦れる」についてシンプルな考え

多分クドい話になると思うけど、最近仕事してる人達と一度食事をする機会があった。それで、自分が話していて感じたのは東京も街の中心で働いているような人たちが株取引に講じたりもせずによくちゃんと自分の「ふつう」みたいのを持って働いているなあということで、話してて何故これ程仕事を任されてて、普通の人ができないようなこともやっているのにどうしてすれてないんだろうって思っていた。自分は、すれている人を結構見てきて、多分あれは「人ができないことをやっている」みたいな感情で見下しにかかってくるってことだったと思う。そんなことも知らないの?やったことないの?で、そもそも偉くなってくると、まず言葉っていうのを使わなくなりますよね。もう、念じただけで周りの人が動くから、例えばモテに関しても、俺ちゃんが念じればそれで、大体の女子は動くのだみたいな感じで、キムタクのずれコピーをしてきたみたいな人が、普通に、たこ焼き食べた後で「やる?」みたいなことを聞いてきたりしてくる。それが自分は東京なんだと感じていた。お前となんかやりたくないわいって言うストーリーを山ほど抱えつつ、で、思うけど、親父ギャグとかスケベ話とかも結局そういう、「念じてもいい立場」から発されてくるもので、偉くなるといろんな部分が見えなくなるのは怖いなと思っていた。そもそもですれるみたいのはどう言うことなんだと考えるに、浅い地点で説明すると大塚愛とか木村カエラがはじめはかわいい系でうってたのが、気づいたら全然挨拶すらしてこないで大地讃頌みたいのを歌い出す過程にあるような気がした。彼女らは、世間を知ってしまったのだ。特に多分、男女のかけひき、やり取りだとなぜか思った。それで、彼らは自分の持ち物が「ごく役に立つ」と感じたせいで、世間における自分の価値を勘違いした後で他人を利害に分けて見るようになり、コイツには今後も仲良くやっていく方針だから愛想をした方がいい、あるいは、「敵」だから別にしなくてもいい、それか、コッチが上なんだから自動的に勝手に何かやってくれるだろうっていう感じに経験で他人を色分けするようになったんだと思う。そうすれば、基本的にその辺のおっさんとかにも愛想をする事自体面倒になってきてあたりまえなんだと思う。オッサンに対して優しくする、平等に扱うのを未だ持って優しさ100%だと思ってる僕は、それが「すれる」だと思いました。で、もちろん若くてカワイイ男相手にだけはいつもカワイイあたしをうりさばなければならない。あーほんと、マジうざいですよね。で、それか高級レストランくらい気取って待ってればごくあたりまえの挨拶みたいな普通のサービスすらしなくなって、だいたいおんなじような仲間同士でおんなじような話ばっかり繰り返しやっているんだと思う。まあこの考え自体がまず殆ど偏見だけれど自分がいた場所のことも思った。自分のいたところはかなり偏屈だっただけど、マウント&マウントゲームみたいのも何故か知らんが日常的にありました。ほんとに、世間においてかなり地味な場所においてもそうですし、それで自分は色々考えてたが、それは「金持ち」と「成金」に分けられると思った。

金持ちは、元からしていいもんを持っている人らで、10代の終わりまですいすい生きてこれてたから初めから色々を見下している。それで、成金は初めの方は持っていない。だが途中からいきなり手に入りだすようになったそれを、方法論に対する欲求みたいのが人一倍にあるからして、いばる。女の子とかも大学に入ったあたりからこう言う成金主義みたいな子が増えてきて、自分の手持ち資金がやくにたつと感じて居る、んだろうなーみたいなのは山ほどそれは見せられて来ていた。別にそれが悪いことだとは思わないし、健全な部分では「ある」と思うんですよね。でも、何か、ウェッて思うようなのを見せられるにつけて、それがおまえのテンプレートっていうようなのがテレビとか、雑誌やSNSの格付けで持ってこられるような部分からつい今しがた、わたしもやれる感でやって来たと見受けられるのが自分は結構ヤダったんだなと思う。

だから沖田ばっかさんのとかは、新しくて結構いいなと思いながらも、とにかく自分はこの二つがあると思った。それから、そうじゃないのもあるだろうと言うことで僕は考えたが、それはあらかじめ早めにやりたいこと、目標を見つけ出して自分の属性を他人とわけ、やれることを自分の地点でやって来た人だと思う。

「やりたい事」っていう意味です。

で、話は戻るが、というかそれたが、どうしてすれてないんだろうと考えていて、多分、一緒にいる人が家族みたいな人が多いからじゃないかなと思った。現場もそうだし、会社自体がそういう雰囲気なのかもしれない。それで、これは想像だが、異性にしてもごく親しい人と遊んでるんだろうと思った。あっちこっち引っ掛けてとか誘われてみたいのをまだあまりやってなくて、地元の友達みたいのと未だ遊んでて、それでその友人の友人とかと仲良くなって→遊んで〜みたいなのをふつうにやってるんだろうなって自分は、話してて思った。だから男女の駆け引きにおいて自分の価値をわかってしまった人のその後のテンプレートみたいなのにいつもなら当てられることもあったけど、そういうの無いんだなって。

で、それで自分はそこにいて思ったが、その中で自分が今、何を発すれば正解なんだろうとずっと考えていた。自分はもちろん年上だし、「そのままでいてね」って言うのも、そんなの知らんし、それでいて「子どもみたいに思ってます」※それくらい年が離れている みたいなのも、お前は産んでないみたいな感じがするし、自分はそれでそこから、世間話をする以外の部分でまあまあ固まってしまっていた。「立ち位置」みたいな話。それで、自分は共通点だと思った。共通点を見つけ出してから行った方がはかどるに違いない。そんで、それを今から探してみるに、それは仕事だと、思ったんですよね。自分がなぜこの仕事を続けていこうと思ったが、それを話すとかなりクドくなってしまうし、それくらい遠回りした後で、なぜか僕は、「言わなくてもだいたいわかるっしょ」みたいな気持ちになっていた。こう言う事は、別に言わなくてもここまできた人なら大体、わかるっしょ。みたいな。それで、語り出した吉田栄作みたいな人を見ながら、自分はこう言う人に憧れててこう言うことをしたい。と言おうと思ったが、「いや知らんし」みたいのがどうしても拭えなくて、結局自分はどうあればいいのかわからなくなって行ったのだった。

なつかしいな。

部活終わりに友だちとマック

なんて食べた事ないのに

仕事が終わってインターホン

押して帰って来る父親の手土産に、

ミスタードーナツ

なんてあったことないのに

食べたことないのに

居間にセットになってるソファに座る妹が

居たことなんて無いのに

口に付けながら食べるようなぼそぼその生地

いっしょに

夕方仕事終わりに市営のバスを待ちながら音楽が鳴る

もうその町に住んでないのに

もう帰りなさいって

言われてないのに……

それが鳴ってるような感じがする。

どうして音楽は遠くから聞こえてくるのかな

何かに憧れてたりなんてしないのに

どうして、同じ時間が来たように思えるの

何処かへ行きたいのに

此処に居なさいって思えるの

そんなふうに考えながら時間がいつも

沈み込んで行く

沈み込んで行くみたい

買い物パンチ

もう仕事もしていて社会の流れの中でごりごりに生かされているような人間が、いきなり「体調が悪い」とか言い出しても今更うるせーよっていう受け取り方しかされない事はわかっているのだけど、最近は体調が悪いせいでずっと休んで居ました。自分は、思ったが、今までシフト制のところにいて、仕事がなくてもとりあえずいて時間を埋めながらも僕の体力が皆の体温を温めるっていうところから仕事だと思わされていたのに対して、いまは、とりあえずの成績を上げることを目的にいるところに変わってしまった。そこでいま、僕がだいたい仕事を出来ていると見做されているんだったら、体調を崩したり、疲れてきたりした時点で自己責任でもう、休んでも良いところにいるような気がしていた。
なんでかというと、自分の場合疲れて来ると相手に理由もなく当たりたくなるし、肯定的な見方が出来なくなって来る。その辺にいるババアみたいにして紆余曲折を忘れたせいで理由もなくあっちこっちを指差ししまくるみたいになる前に、とりあえずストレスが多い場所に居てそれが誰からも予測も見えるはずもないところだったんだと分かっているんだとしたらもはやそれを説明する以前にもう「疲れた」と割り切って休んで、次の日に倍くらい働けば良いんじゃない?と思うようになって来たからです。


話は変わって実家に居ると、たまにイベントごとに買い物に付き合わされる事になる。それでやってて僕は思ったが、買い物っていうのは欲求とか願望の現れみたいに未だ見えているんだと思った。例えば相手に振る舞うとしても、生活にしても、そこに居る理由が消されてる時点で、買い物と言うのはどうしてもやりたいからやっているようにしか見えない。だが自分は、これがもし仕事上の買い出しだったとしたらそれがあますことなくいずれ消費されると言うことがわかっているんだとしたら、買い物=これ程気持ちいい事はないと思う。ホームセンターで、買うべきだったシャープペンシルが五ヶ月後に全部なくなっているのを見ると、会社ではこれは気持ちがいいと思う。僕はこの間、このシャープペンシルが普段一本180円なのに、あるホームセンターで買うと5本で500円で売っている事を知って、そのレジを通った時に大正解を得た後のスーパー仁くんみたいになって叫びたくなってることに気付いた。でも、食料品だとこうは行かない。母に付き合わされて、必要なのかどうかもわからないみかんを買って、全部結局酸っぱくて食べれなくてブツブツ言いながら腐っていくのを見てると、どうしてもそれが欲求から出られていない行為に見えて来る。苦しみだと思った。いま、ここで、現生にいる事への説明なしに、自分は、大根やじゃがいもや米の、捨てる部分に対する哲学も無しに「買わされる」役だけ背負わされてそこに存在して、レジの人も何の疑問もなく、「その葉っぱは、捨てるんですよね?」て言うことも言わないで、自分もいずれ、魚の内臓がぐしゃぐしゃに腐って溶けるところをここで想像させられている。だったら、役割って何なんだと思う。そう思うと、僕は一人で、レジの前に居て怒り狂ってもいいのだと思っていた。なぜまた、ここで自分たちだけが買い物だけをやらされているのだ…みたいな。これを、僕は「仕事」にするべきだと思った。皆が、地中に根っこが生えたままで何もかもを食いたいと感じているとき、自分と母親が、親切心だけでそれを説明することも無しに買わされてる事に対して、じゃあそれを仕事だと見えるようにしていけばいいんじゃないか。
だからとりあえず

①主食を作る

これは、三食必要だから作る。この時、あんかけ焼きそばがいいとか、カレーはやだとか言う奴が居るが、殆ど無視して粗食を食わせる。


②おやつはありきとする

この時に、おやつはお母さんが決めると言うことを納得させる。


③たまにご馳走がある

ご馳走がある時は、イベント、それからお母さんが元気のある時になされる。



これに対して、ありがとうはどうしたの?とか言い始めたら、関係が悪くなっていると見なす。それよりも、全部消費された事でクリアーだとお母さんが感じるようになれば、この循環は正しかったんだという事になる。
こんなふうに会社の備品を買う→すべて皆の好奇心とやる気で消費されて、相殺が為されるようになるまで、僕がしこたまに頑張ってフォルダー分けしていく。

ただ、問題があるとすれば家庭の方にある。僕がいくら、修行のために相殺出来るようシステム化したとしても、家庭の方はいつも通りの体力だとか、それぞれに年取ったジジイとかの曲がりくねった嗜好の方に落ち着こうとして来る。
だから…






あと書くのが面倒になったのだが、そんな感じ。僕はとりあえずそれをうまくいってる仕事の或る部分として想像上でのみシステム化する事にしてみた。
だから、僕らの「買い物」は内部ではそれほど大変な事になってるんだって事、わかっていただけましたでしょうか。

急激にやる気がないワタシ


何が耐え難いかって、それは毎日毎日、拷問みたいな日々が続いて行くっていうことだけ。そこから逃げ出せれば、あとは何があったとしても興味はない。誰かが好きだとか愛だとかも一時的な幻想みたいなすべてまやかしで、いまさらこの年になって本気で恋愛したいだとかいう考えもない。だいたいは皆人間なんて中身は同じようなもので、それでも未だ人を馬鹿にしている態度を見て白けてしまう。専門的な話ができる人も居らず、当然の知識欲も永遠に満たされず、そんな場所にいれば当たり前に欲しいものなんてない。今さら誰かにわざわざ勝ちたいなんて思っていない。ただ、ここから逃げ出せるんだったら、この日々を顧みなくて済むんだったら、それからもう二度と、そいつに合わなくて済むんだったら、別にこれまでのことなんて究極的にはどうだっていいんだと思う。何が嫌か…死ぬ迄そこにいて、毎日毎日嫌いな奴のことを拷問みたいに考えなきゃならないこと。だから、それがなくなるんだったら、別に何がどうなったって、価値や歴史や存在意義みたいに、他人から付けてもらうこと、何の価値も見いだせない事なんてどうだっていい、地位もなければ恋愛もしてないし、興味があることもなければ、明日がどうなろうと、周りの人がどこへ行こうと、何の興味もない。皆が死んだって本当は何を考えてたって全部自分に影響を与えない。ただ、そいつと同じ空気を吸いたく無い。見なければ良いって選択肢を与えまくった後で、ワタシは明日そうやって自由になる………

お前、だれ?!

今日の朝Oさんと会ったとき、Oさんは、その時客からやってこられた事に対して怒っているみたいだった。自分らがまだそれほど親しくなってないときは全く知らなかったけど、Oさんはこんな風に公共心を乱すことに対してちゃんと怒ってくれる人なのである。それで、自分は何かよく分からないけどよかったなと思って見ていた。やっぱり、怒った方が良いよなって。こんなふうに何かある時にそれに対して怒りを感じるポイントって大事なところで、社会規範や礼儀みたい事に対して皆がゆるゆるだったことにこれまで腹立っていたんだと思う。何故そこで、スルーできますみたいな器用さを見せるのかとか、わざわざ嫌味で溜め込むみたいことがだんだんと人間性を悪くする原因なんだと思う。それを、我慢したとしたら、自分が我慢したいからしたんだとして忘れないと駄目なんです。あとで小出しに嫌味をするんだったら、その場で疑問として聞いておけばいいのにと思う。じゃあどの程度だったらやってもいいんですかとか。それが聞けないで勝手に拗ねてるから、子どもみたいだって皆が思ってるんだよなー。で、だから、相手がいくら良い人で常識があっても、器用が美徳としている人とかといると何故そこで声を荒げないんだって言うことに対してもっと腹が立って来たりする。逆に、何故ほめてもらえなかったみたいな事で怒るギャルみたいなおっさんが存在してるのかということや、なんか知らんが一人で勝手にわだかまってストレスだけをぶつけてくるのかというのがいたりすると、こっちからすれば何故そんなふうになっているのか事態が分からないためそれが永遠にストレスになりつづける。
自分は怒る属性の人が結局、好きなんですよね。もうこれは、性格だから仕方がないと思った。嫌味言う人とか言われてでへでへしてるとか、気持ち悪いなと思ってしまうから無理。
その後、Gさんと会う。Gさんは死ぬ迄みたいな勢いでゲームをしていて、僕が話しかけても殆どスルー。その後、話したりしたけど、ワンテンポ遅れて返事をして来たり設問を吹っかけて来ては途切れたりしていて、妙な行動に何か僕のことを試そうとしているのかなと思えて来た。思ったけど、自分もハゲてて居なくなった上司と長年過ごして来て、もう話題にも出てくる予定はなくても、その時の方法論がまだ染み付いて居るのかもしれないと思う。それで、周りのことをあらかじめ「敵」と見做してからやって行くって言う感覚が、まったく、それは全く体から抜けては居ないため、だから自分はだんだんと妙な行動を繰り返すGさんが敵なのではないかと思えて来ていた。そうして急激に塞ぎ込みたくなって来ていた僕は、「全く、やる気が出ねェ〜〜〜」ていうわだかまりを相手に集中的にぶつけることに徹し始めた。僕は急激に、死ぬ程攻撃的になれるんだと思った。自分は今日一日あったストレスや、Gが妙で、時間を一時間半くらい無駄にした事などすべての全弾をGに向かって投げつけることに集中していた。で、その後で車を車庫から出しているくらいのときから、だんだんどうでも良くなって来たのでお互いに事なきをえた。これが、ハゲが相手だったとしたらこうは行かない。
その後で、Xさんと会った。Xさんと仕事の話を和気藹々としたあとで別れたのだが、するとさっきまで自分が説明していたことを、ドアの向こうに行って戻ってきたあとでXは急激に忘れ去っていたようだった。さっき自ら事細かに説明し笑っていた事に対して物凄い剣幕で僕に向かって怒り出して来て、意味がわからない空間に一瞬なった。Xはたしかに「Aしないでね」と言って僕は「Aしたよ」と返したことで笑っていたのだ。それを、Xが「Aしただろう!!!」と怒り狂って戻ってきたのである。だから僕は、さっきしたって言ったし、何でさっきは気持ちがいいくらいに笑ってた人間が、部屋の電気を消したくらいで怒ってるのか意味が分からなくなった。今考えると、周りに人が沢山居たせいで自分の中で勝手に盛り上がってるのかもしれないと思う。
よくわからないが…




こんなふうに相手が怒りでパフォーマンスをしてくる事は案外多いので、僕の場合相手の雰囲気にのらないで徹底的に言い返すようにしています。相手も、何の理由もなく怒り狂うことでこっちが落ち込んだり、傷ついたりしたらしめしめと思うような人間なんですよね。だいたいそうなると、その後で「怒ってます」ていう雰囲気込みでだんまりをし始めるんで、それも無視して乗らないようにしてあげてます。もし、周りが母性を出してその人の機嫌をを取りはじめたらそいつがしめしめってなることを知っているので、僕は周りの人とその人の事を実況するかイジり続けるようにしています。
こう言う事をして居て、これまで相手から殴られた事はありません。

アニマくそババア

最近、数年間連絡を取り合うだけでずっと会えていなかったKくんと何度か会う機会があった。あまりまともに話したことがなかったので「ふーん、こんなこと言う人なんだ。こんなこと考えるんだ」と思って新鮮だった。だいたい会ったのは3回くらいで、じつはそれきり話してない。僕は、とりあえずKくんがこんな空気みたいなふわっとした感情で話しかけて来るひとなんだなと思ったのだが、それ以後で話していない。とりあえずKくんと会い、だいたいはKくんの話していることを聞いていて思ったけど、自分が何が嫌いで、これに対してこう思うっていう話、他人が特に聞いて来てない時点で自分はこれほどまでに人前でして来たかなとあらためて思い直させられていた。
たとえば「何々が嫌い」っていう話、あまり関わりのない他人にしてしまった場合、もしかすると共感を呼んだりするのではなく「それを話してる人」の所属っていうメッセージに成り代わってしまうんだなと思った。それで、へえって聞いていて、Kの魂胆がよく分からなくなった。裏にそんな情報があるって言っているけど、自分が浸ってるわけじゃなかったので「えー…。で?」と失礼ながらその時はおもっていた。自分は結局、演説を話されてるんじゃないかともはや思われてきていたんだけど、繰り返されるあれがヤダみたいな仕分けは、自分の信念とは合致してないってことだった。で、あれを取らない方がいい、そういうのは自分の築きたい未来とは合致していないからなんじゃないかと思えて来ていた。で、繰り返されるほど他人にもそうして欲しいから言ってるのかなと思えて来ていた。で、そうなるとこれはこういうものって思うのは、まあまあそれでも、僕はKくんが好きだったから、へえっていって、それから二度と合っていない。

今思え返せば多分Kくんは「思っているより人の種類が死ぬほど多い」っていう事を体験してきたことを言っていたんだなと思った。でもそのとき僕は、まだ地上に出てきたばかりで、Kくんがホームステイのホストみたいに迎えてくれると思っていたのに、唐突に、そんかふうにケーキを木っ端微塵に切り分け出すみたいな「技」を見せつけてこられて、だったら自分も人と会っている時にこれほどまでに、聞かれてもいない時点でナニがすき、ナニが嫌いって話してたかなと思わされていた。で、書いてきたものや、ここの日記を僕は、見直したくなってきた。たしかに、やられてこられたことに対する恨みつらみばっかり書いてはいた。それよりももっと、押しつけてある部分の方が多かったのかなと改めて思う。とくにKという人格に対して。
それで後で一人で考えた果てにこういう議論とか経験とか政治的な話をしていたりすると、お互いの違いというのが白日のもとに出てくるわけだから、それは距離のみを感じることってあるんだなと思った。僕はKと会って遊んだり話をして見たいと思っていたけど、そういう場がはじめてこうやって用意されるとこういうのがはじまってしまったこと対して自分の人生とか、性格みたいなものに問題があるのかなって思ったり、あとは、ふつうにふつうのゴキブリが湧いたみたいなどうでも良い話はしたらいけないのかなって思ったりしていた。

で僕たちがあらかじめ勉強していたそこで、アニマなんだと思う。だから…それだから僕はアニマを表して来たんだと思う。これは、必要だからやってるんだって。政治的なことも論理的なことも人間が言葉と社会性を持った時点で必要なことで特に今、どうでも良い話や人が溢れて来ているんだから、かっこたる、構造の話をしたいじゃないかってKがなっているのも、多分分かる。僕の感情がついて行かなかったっていうだけだったんだと思う。

アニマ

で、アニマの話に戻れば芸術や文学のなかで繰り返して表される部分で、それは日常を当たり前にすごして行くことで次第に消え去ってしまう自分にとって必要だった筈の領域で、英語で表すとmamaみたいな話になると思う。伝えるべくしてある以前の人格、それとの融和。アニマ。それなのに、ある人から「ピンクピンクした〜」という表現を使わされたこともあってアニマに対しては持ち出したり説明する事事態に最近は正直言って萎えていた。


そういった行き違いに対してべつに、何か自分が意見を言いたいわけじゃなくなっている。とりあえず自分はもうゼロから十まで身を持って学んでるんだから、アニマとかスーパー銭湯みたいな場所は、いますぐに必要でなくてもある時に物凄く必要になったりすることを僕は知っているんです。部屋の間取りを区切って行く時、ついいまははしょってしまうところだけど、それは存在感を意識しておいても良いところだと僕は思う。許しとして。許しがなければ人は頑張れない。そういうことを、いま僕から元気いっぱいの人達に対して、自分がそれほど元気がないのにという事に怒り狂って血管がはち切れるくらいの勢いで説明しても無駄ということを知ってるので、僕はとりあえず待つことにした。だから、誰かが、やっぱり困ってから「やっぱりごめんね。必要だったのに、アノ時わたし元気すぎてアニマがわからなかったの」てなるんだろう事を僕は知っている。

ただそういう自分の態度を見た人達は、僕が若くて細過ぎるというだけの理由で「待ちすぎ」みたいなことを言って来たりすることがある。待ち過ぎ&ピンクピンクした、ていうけど、僕がそれを、死ぬほどやりたくて死ぬまでやってるだけだって本気で多分一部思っている人がいると思う。だが、これが僕がボーリング大会11年間チャンピオンみたいな出立ちだったら誰も「ピンク…」みたいなこと言ってこないで有無を言わさずに従うだろうことも、僕は既に知っているのである。だから本当に僕は、人って本当に勝手だなと思う。



アニマとは - コトバンク