To be continued

単純な日記です。

僕が、ナザール ボンジュウを買った理由。それから…、「めっ」みたいな感じ

自分が今回、ナザールボンジュウを買ったのには一応ちゃんとした理由がありました。まず、自分は視界についてあるとき考えていて、なぜ自分たちは写真を撮って眺めたり共有したりするのが好きで、なおそれを見ている時ははっきりと風景を見ているという感覚があるのに、裸眼で景色をみているときは「見てる」というよりも景色のその中にいるみたいな感じしかしてないんだろうと思いました。こういう皮膚感覚みたいなかんじでもって、もはや切り離されてしまった単体のスクリーンを見ているときには何か安心して一つのものを見ることもできるし,それは手に取って見比べられるみたいな安心感なのかもしれないが、それで裸眼でいるときとかってほかに誰かがいるなら目の前であったことを説明はできるが、一体これはただの感覚なんじゃないかっていう気持ちがあるんですよね。だから暗いとこで見てるものは周りも誰も見えていないし,例えば絶景を見たりしたときに周りのだれかが「目でこれを全て吸い取りたい」みたいな事を言ったりするのを聞いてて、たしかに自分も目は景色を映してるだけやんみたいな不確かな気持ちだった為同じような事を思っていました。いったいそれにたいしていつ満腹感というか、分かった感が得られるのだろうというか。見てるっていう感覚はなんでこれほど不確かなんだろうっていう。で自分は写真とか,インスタとか,プリクラみたいなものについて考えていました。むかしは物凄い流行っていたプリクラとかを思い出してみても今になったらいったい何が楽しかったのかもはやほとんどわからないの領域にあるが、とにかく自分がそこでちっちゃいモノとして「ぺらっ!」て出てくるのが魔法みたいでおもしろかったからこそあれ程までに意味不明な行為を繰り返しやっていたんだろうなと思う。

で、自分は思ったんですが、風景のほうはそんなふうにものとしてはまだ認識されていないので、それについて考えるうちにもしかすると自分の目は別個のものとしてそれを見てるだけではなくて、それを見るっていうことは本当は外界へ繋がりたいという意識に近いところにあるもので、見るだけで本当は目に映り込むものとそこから直接繋がってしまっているんではないかということでした。なので、自分は世界を水に例えることが多いんだけど,それは水の中に浸かったものは実のところ本当は目はひとつの手段として外界に繋がるためにそこにあってあちこちからの影響を常にその部分から受け取る、もしくは放ちまくっているなじゃないかと思い,おのずとそれは「見る」だけにあたらずもはや目は外界への接続手段として本当はあるのではないかと思った。

だから、目っていう内臓みたいなものがあり、これも自分は思ったが,口内とかを治療されている時って不思議な気持ちがしていて、何か自分の内部を触られているっていう感じがするんですよね。その、内部っていうのははっきりと皮膚でへだてられたあとの内側にあるもので、自分も内蔵の配置とかはだいたい分かってはいないが,とにかく今,治療をされているのは皮膚以前のもので、わたしが配置も分かってないものを何故いま構築しているのかみたいな感じはしていました。それで、とにかく目が「見る」でなく外へ「繋がって居る」と思うことに対して,自分が意思を持って何かをしようとしたり、「見る」以前の現象としてなにかよくわかっていない事がもっとあるんじゃないかと思い、それで今回ナザールボンジュウを買ったのは,そう言う目を閉じてみようっていう感覚です。

スピリチュアルについて、瞑想してみる

それで、それとはまた別個の話で最近はスピリチュアルについての本を「また」読んでいたんですがそれで,自分も瞑想をしようみたいな小説を書いておきながらしようと思った時点で完璧に急停止して全くしていないみたいな期間が数年あり,この間買った天然石見たいのがすごい良かった気がしたので自分もようやく意識の方がまじめにやる気になったようで、瞑想みたいなものをしてみました。それは、オリジナルの瞑想なんですが、とりあえず人間本来の世界に遡ってみるためにはどうすればいいのかとわたしは考え,周りに建物などの風景画ない頃まで遡って、空と山、そういう風景と自分しかいない情景を思い浮かべてみました。それで気づいたのは,世界はつねに流転しているってことです。世の中にある全てのものは意思を持って居る,もっていないにも関わらずどこかから湧いて,どこかへ帰っていくんだなと何かその時に思い,無意識の世界にはもっとそういう目に見えない川の流れがゴーッて感じであるような気がしてきました。自分はこの、川の流れみたいなイメージを時折り感じつつ,自分の家の中を守るという意識を持ってイメージングを続けてみました。そうすると次の日あたりから、変かもしれませんがすごく前向きになってきたんですよね。それから、なぜかその日に一気に掃除をしてしまっていて、時間は物凄くかかったんですがそう言う時は画竜点睛じゃないけど「仕上げ」みたいのをしたいみたいな気持ちになっておりその時は綺麗になったから扇風機も回しておこうと思って天井にくっ付いている吊り下げ方扇風機の方も回しておいたせいで家にある気流の方もよくなったきがします。ほか,瞑想中にもハッキリと自分以外の声が聞こえたり,(「白ちゃん」って呼ばれた)現実としての秩序はほぼないんだけど理解の方に近いような世界観が浮かんできたりして、なんとなく面白かったのでもう少し寝る前に続けてみようと思いました。

で、ついでに書くと,自分たち人間の意味についても考えてみました。以後,わたしたちが勝手に作り出した建造物を取り払って基本的な原始的な世界を瞑想の中で思い浮かべてみるに、地球から自然発生したものらは多分エネルギー体なんだろうなと思い,自由意志を持っており独自の哲学も持っている人間ていうのは神様(地球)が作り出した神さまの子どもとか、たましいに近いものにあたるんじゃないかと思ったりします。例えば,自分らが植物とか動物を育てて居る時に、勝手に飼い始めたあとはそこで一体何を始めるのか,何を考えてるのか、興味深げに見ていたり,可愛がったり,腹が立ったりもするんだと思います。そう言う感じなんじゃないですかね。

ー不浄について

それで、スピリチュアルの本を読んでいても,日常生活でも仕事の性質からどうしても汚れ,不浄についてはよく考えることがあり、なぜ,汚れは排出されるのかという考えから最近は生きているから必ず不浄の部分は湧き出てくるという考えになりつつありました。この、毎日出てくる不浄の部分、掃除はするが一体どうするかと考えて、やっぱりそれは空とわたしだけになった時、風景+地球全体が流転していると考えるに、それはまたどこかへ流れていくものだと考えるのがいいんじゃないかと思いました。

なので総合して自分が考えたのは、とにかく「流れ」を良くしようということです。家の中でもそうだけど人間ていうもの自体が滞りみたいなものとしてあるなか、家自体も滞っているような建物としてあるんだから、その流れ→排出にあたる部分をもっと意識して、それから自分にとってよいものを取り入れていくぞっていう意識をもって守りを固めていこうと思いました。

自分が体験した不思議な出来事

◯キャンプのお土産で買った天然石のストラップがスーパーの店内で粉々に飛び散る

◯ソニプラで買ったでかいチュッパチャプスを開けようとしていたら地下街で粉々に飛び散る

ハードオフで買ったかわいい硝子の置物が買って三日後くらいに砕け散る

その後もう一つの方も砕ける

◯お祭りで買った亀の硝子の置物が一日で割れる

◯梅村さんからストーキングされて居る時に手首を骨折する

◯アパートの目の前に鼠の死骸があった

◯立派な蛾の幼虫を見て居る時に見たことのない鳥がそれを目の前でくわえて飛び去った

(ちょうど嫌な事があったときだったので神の仕業かと思った)