To be continued

単純な日記です。

自分が基本大人しい理由

生きる事は基本汚ない

たまにYouTubeとかを見るけどだいたい人があまり出てこないで、動物とか料理とかの映像を見ることが多い。人が出て来たとしても何かの作業をしてたりとか単体で「ひと」を説明している以外のものばかり見ている。料理とかのを見ていたりするとだいたい流行りの感じで編集されていたりもするけど、この間ほぼ「よく見せよう」という恣意が働いてない料理のビデオを見ていて面白かったのが、見ていると人に出すための料理というのが処理の作業ばかりで、ゴミになる部分がとても多かったのだった。例えば魚にしても食べれる部分はほんのわずかで、鱗も水を流しっぱなしにしながら削ったり、内臓は殆ど捨てなくてはならない…(調理して食べたりもするけど)そういうのを見ていても、あとは一人暮らしをしてたり、店を開けるところから→閉店までずっとやっていたりすると一体どれだけの無駄、それからゴミが出てるんだろうと思えてくる。一回鬱状態で店長的な仕事をしているとわかるけど、本当にこれが、ゴミの処理、ゴミの処理、ゴミの処理ばかりになってくる瞬間がある。そういう事に対して否定を言いたいわけじゃなく、あらためて「これがふつうなんだな」「これが生きるって事なんだな」と思わさる。食べること一つにおいても、これだけの無駄が出て捨てる作業を無視することなく行なっていて、多分そこにいる人たちは「これをなんとか、綺麗に、儀式的にやりたい」と思ったりし始めるはずである。自分はそういう、文化って実はそういうものなんだろうなと思った。人がいれば起きてから寝るまでの作業があり、ゴミやいらない部分がたくさん出てくる。そういう「不浄」のものを、一体どうするのか?システマチックなシフトで限られたアルバイトだとかでは見えてこないものが暮らしの面では絶対にあって、毎日、これから生きて行く事を想定したんだとしたら「これらすべてを含んだ上でのシステム=文化」みたいのが出来て来て当然だったと想う。で、文化の革新とかが起こるとこういうのが全て捨てられてしまう。旧システムの反省から新システムに変えて行くために、自分たちの民族にとっては合理的だった一見無駄に見えてる儀式や手間を省いてしまうのがいまの「見える化、記号化してしまう」システムに生きるってことなんだなと想う。何度も一日中手を洗いつつ、この作業はどうにかならないかなと思いつつなんかそういう事を考えていたりする。

ホットケーキミックスという合理化

日本人はほんとにこういう「合理化」が好きで、ホットケーキミックスはあれどもイースト菌みたいに発酵の手間がかかるようなミックス粉は絶対に売られてないですよね。でも味だけで言えば、イースト菌で発酵させた方が絶対においしかったりするし、この「手間=悪」みたいのはどこから来ちゃったのかなと思う。
手間とおいしいを秤にかけて、おいしいを捨ててしまう…で、トマトとかでも超、超超超トマトみたいなハイブリッドのやつを食べたがったりとかする。自分はこのホットケーキミックス界隈で一時期ブームがあった時とかも、それ以前に小麦粉とベーキングパウダーで作った方が1.5割くらい増しにおいしいと感じられていたので「なぜ、そろいもそろってホットケーキミックスでいろんなものを作りたがるんだろう」と思っていた。ただ土日も家で休む暇もないくらいになって来るとそういうのをドバーッと混ぜて焼きあがればいいっていう精神状態になったりはするけど、でも30分くらい余裕があるならやっぱり小麦粉から作りたいとは思う。そうなると小麦粉でどう、美味しく作ろう?→卵を2個にしてみるとか、バターでなくてサラダ油にしてみようとか色々考えたりするようになる。そこくらいからまた回帰して「やっぱホットケーキミックスって時間ない時に便利だな」てなるなら分かるけど、全員が入り口からホットケーキミックスで百種類のものを作れるようになれれば…みたいな「発明」、そういうタイプの導入分みたいなのに対してどうかしてるなとは感じてしまった。
どうでもいいですかね?!だからとにかく自分は、ホットケーキミックスが実は天ぷら粉とかにも使えるとかなら意味がわかる。それは、もはやホットケーキミックスを細分化して成分をわかった上ででないと出来ない「裏技」的な部分にある…と思う。けど、ホットケーキミックスでパウンドケーキか、たこ焼き機でコロコロの鈴カステラが作れますみたいなのを見てしまうと「そんなことお前に言われなくても分かる」的にどうしても感じてたんだなと思う。


寄り合いのこと

で、一方で小説を書いたりもしていたんですが、風邪をひいてからそれが寸断されてしまって、明日からまた時間が取れるので書くつもりだけど、意識的にはまた一からの作業だなという感じになっねぃした。なぜなら、流れ自体を忘れてしまっているから、、自分の「書く」作業、いつも、うまく行き始めてくるとどうしても、あちこち別のものを書きたくなって来るとこがある。これは、うまく行っているときで、もっと上手くいかせるために、①小説②小説③短文とかを同時進行であっちゃこっちゃに手をつけては気ままに書いていったりするんだけど、結局その方が、気分転換になるし何かわからないけど進みやすいと想う。あっちがうまくいかなくなっても、②の方が進んだりするとそれに釣られて①ー③が進み始めたりとかもするし、色々やり方はあるけど自分はそう。
小説界からの人からも連絡が来たりはするけど、いつものように借金の話ばかりなので、あまりホットな話題も無さそうだなと思っていた。で、ふと想うに、自分はもうこの界隈に惹かれることはあまりないが、何故この文化面が廃れてしまったのか、それは中途半端な「寄り合い」なんてものを作ってしまったがゆえな気がした。ある、グループがあって、なんとなく賞を取った人が上の立場で、教える…とまではいかないけどなんとなくでまとまっていたりする。自分も、ペーパーの頃は、それに認められたり、いろんな技術や思うところを聞いてみたいと思ってキラキラの心をもって入って行ったりしたけど、まあ、入ってみて、はっきり言ってこれは、ない方がいいですね。なんでかっていうとそれは、結局会社とかよく知らない人が集まったサークルみたいに、見張ったり、飛び出たりする事を監視するためだけの場所になっていて、上下関係も存在していて、一部をのぞけば、大掛かりなものほどそれがゲージュツをやるというものにぜんぜん、そぐわなくなってしまっていると思った。ゲージュツをやることの意義は、自分もかつては思っていたが、自浄の作業はある。自己実現の意味もたしかにあると思う。けど、やり続ける人は、やはり世間の中で折り合えない部分や、消化しきれない熱をそこにこめたいわけだから、毎回それが「わかるわかる」とその中で、はっきり言ってなるわけがないのである。で、寄り合いを作ったからには、そこで不文律であってもある程度の「評価制度」みたいのが出来て来る。なんか言わなきゃならないみたいな。なんかいうにしても、「言って良い時」と「言わないでおいた方が良くなる時」くらい先生を仮にも名乗るなら分かっとけよとは思うが、結局これもサークル的で、顔を出し続けることとか、その場に役に立つ事をした人…とかがでしゃばるのでそういう感じになって来る。で、しばらくしてから生まれたものを見てみれば、そのせっまーい人間関係の中でのみ培った話題のみ。
そんなの、他人が見たがると思いますか?
自分は、全然面白くないので、入り口の5、6ページくらいで爆笑してから閉じてしまい、批評文を書いてそれはおしまいにした。その後何か、僕に対して文句を言ったりして来る人もいたりした。


話はちょい飛ぶけど、この間キム兄がテレビに出ていた。そこは、お笑い芸人が先輩方に芸を見てもらって意見をいっていただくという番組で、怖そうなキム兄だったけど、きちんと「批評者&先輩」として助言していた。自分も何となく、それ以前にもし自分がお笑い界隈入りたてで、先輩に見ていただくみたいな場を設けられたとしたら、キム兄みたいな経験値が何万ポイントくらいか違う先輩から、何か言っていただく事に対してそれが批評とか全否定であってもとりあえずは「ありがたい」と思うんではないかと思って見ていた。思うが、自分はそこに入社したわけではないので普通にテレビを見ていて、バカだなとかアホだなと思って笑ったりはしているけど、そこに入ってどうしても「それをやりたい」と感じているなら、そこに実際にやっている人のパワーや自分みたいなぺーぺーとの格差みたいのは肌で感じなきなゃならない部分としてある、に決まっていると思って、その人から見た時点でもし、自分のやっていることがムカつくのなら何か問題があって当たり前だったんだろうし、助言をしてもらったんならどういうものであっても「わざわざ時間を割いて見てもらって、言ってもらえた…!」てなるに決まっていると思った。そこにいて、そこで圧を受け続けた人がたとえ世間から◯と言われていたとしても、それはぺーぺーの自分からしたら力量の差は物凄くあるに決まっていて、もし、気に入られなかったのだとしてもどちらが悪いとは言えないが「そういうとこ、あるんだな」くらい思えなきゃそもそもでヤバいんだろうなと思う。もはやそれは、もちろんサークルで寄り集まってきた場所じゃないし金魚のクソみたいに勝手に付いてきたのでもない、自分が、やりたくて行って、自分という人間を秤にかけてもらいたいという熱でもって行って、それでもしもごみって扱われたのなら、それはひとつの答えなんだろうなと思う。

自分はそう思った。相手が、いったいどれだけの試練を乗り越えてきたのかというのを普通人は相手の顔を見てすぐに見抜くみたいなことを。
そんな僕にももちろん尊敬しているかたがたはいて、やはりプロとして、まずそういう人は人とある程度の距離を保っているように思った。少なくともそんな評価体制などから褒めてもらおうとは思っていないように見える。

俗世と厭世があるのだとして、俗世の中でゲージュツが鍛えられる事はあっても俗世のハコの中でゲージュツは育てられない。皆が皆たった一人に戻るべきだと自分は今でも思う。