To be continued

単純な日記です。

これは、フィクションです。

仕事がやっと終わって、思い返してみて内容とか何も覚えていなくて、ただつまらない。新しい発見はなし。面白い発言もなし。面白い人、新しい、ユニークなひと、それもなし。ただ、ただ、膨大に時間とエネルギーをいつものようにキツめのメンバーで消化したというだけのことで、思い返せばそこに居たのが自分でなくても、あんな事誰にだって出来る中高生の作文でしかない。結論が初めからわかっていたのに、こんなふうになるなんて、はじめから冗談のつもりでいたんだろうか?それとも、自分は当たり前を選ばされたんだろうか???はてなであたまのなかがいっぱいになる。けどそれも明日になれば何事もなかったように皆が振る舞って、自分も積極的に忘れると思う。
最近はいつもと同じ仕事と人生を終わらせる方法をいつでも考えていて、でもそれは、もしかすると終わらない可能性があると思い、自分は毎度同じことなのにその事が分からなくなる。自分は、終わらせられるのではないかと思い、けど、周りの人も誰も終わらせる気がないかは終わらないんだなと思い、それの意味を考えるよりも、強制的に終わらせる方法を、現実的に僕は持って歩きたくて、その考えを確かめてみている。それは簡単なんだけど、現生ではかなり面倒くさい事で、面倒くさいことを終わらせたいから終わらせようと思うのに、それはもっと面倒くさいことになる。が、気持ちを落ち着かせるために、とりあえず可能と思える死に方を考えてみたりする。自殺は無理(世間体が悪い)で、他殺も無理で(好きじゃない人殺されたくない)で、事故もあまりないし、病気はあり得そうだと思う。小説にも書いたけど病気で看病されるのが羨ましい。自分はいつも、看病とか注目すらされたことがない。自分の痛みは存在して居ないのに、周りの人の感傷はいつまでも無限ループで聞かされなきゃならない。もう自分はそれらすべてを見せられ続けるのが永遠と思えることに耐えられなさそうで、それを終わらせるのは死ぬ事しかない。ちょうどいい死に方を思い付いて、そうすると自分の価値をやっと自分で付けられたようで、もうこの世をこれ以上見なくても、存在させられなくても済む方法と言い訳を自分に与えられた気がして機嫌が良くなった。
他人のやっていることが何が楽しいのかよくわからなかった。だから笑っている人たちが宇宙人みたいに不可解に見える。それをやっている楽しい人達とか、業者の人、その欲求がどこに行き着くのかを考えてみて、寸断されているじゃないかとある時は怒りすら感じたりし、そこにいる人たちが得たいものは一瞬の快楽と何が違うのかと思い、その見せ方の醜さと二番煎じにあたまがわるくなると思う。なんでこんなのすら我慢できないんだろう。それが大半の人間だと分かっているんだけど。自分のやっていることを理解されたい。もっと、話が分かる人と話をしたい。sexやテレビ、恋愛のことでなくて、生活や生物や思想のはなしがしたい。想像の中ではそれが研究みたいなものになって、誰か専門の人とそういう場所で働く、みたいな想像をしてみる。小説に出てきた◯◯や××の場面みたいに、そこで学問したり話し合ったりして、それが役に立つっていうことを自分はこれまで、死にたかったとこから意図を引っ張ってきて、そこで生活はままならなくても生き生きと暮らしてるとこを思い浮かべてみる。それが、全くあり得ない事すぎて、そうであればそれを小説にするべきなのかもしれないが、いま、その考えが馬鹿らしく思える。それも、この間までは叶っていて、その時は下を全く見ていなかったからこんなにも短期間で気分ていうのは変わるんだなと思う。人生は虚構で、そこから目を覚ました人が自殺していくんじゃないか??人生のなかにある恋愛も賞賛も友情も全部、可能性の時点で繋がっている虚構で、その箱から飛び出してしまえばすべてが終わる。きっちりと終わるそれは、本物でなくて虚構なのかもしれない。自分は本当に落ち込んでいると思った。僕は自分に掛けられる普通の言葉を物凄く頼っていたんだと思った。けど何度か考えてもそれは続けられなかったからしかたない、自分が今まで消し去ってしまった世界を思い出した。何回も自分はそこから出てきて、そうなるまでに希望は完璧に消えた後だったから、何も残らなかった。二度と戻らなかったし戻らないと思う。もう5年は戻っていないし、死ぬまで戻らない。そう考えると自分の決めてきたことは間違えじゃなかったんだと思う。で、小説を書くのはつまり、自己肯定感マックスだからなのか。この間読んだ本に出て居た主人公の人みたいに鬱とまあまあ普通を繰り返しているのかもしれなくて、鬱の時はものごとや人をままで受け入れることが難しくなる。周りの人の性格や欠点を見逃すこと、そういう生活圏でごくあたりまえのやり取り以前に、周りに流れてくるすべてを解釈したり、それを自分の中で位置付けるみたいな事として立ち向かうことから精神がもう逃げ出しかかってきて、それを引き止めるための意味を見出せていない。全てを嫌いと言ってしまえる期間があって、自分はそれに対して感情を働かせるべきでないと思っている。それをしてしまうと、感情の方ががらくただから勝手に泣いて居たりする。自分の亡霊みたいのはちょっと前の時間にもまだまとわりついていて、亡霊は、感情のかたまりみたいな自分だったりする。だから自分は何も出来ないのにまた小手先でやらなきゃいけないことを適当に払いのけているだけだから、それがつまらない。自分はそういうときは子守りと大人をやらされるを同時にしている気がして疲れる。そうでない時もあるから、というかそれはかなり頑張ってやっているからなんだけど、確かに、この浮き沈みは他人の目から見て理解されにくいと思う。迷惑をかけたなーと感じたのは目の前で寸断してしまったことで、けど「悪いな」ってずっと思えなかった。自分の中ではそれくらい溜まって来ている時は確かにある。