To be continued

単純な日記です。

文芸は生活主義の上にある。変に称えたり、こき下ろす必要はない。生活にとけこみ、使っていただくという気持ちでちょうど良いのだ。

今日は夕方、アルバイトから帰ってからご飯食べて、ゲームしたり、テレビを見たりしていた。途中ずっと前親しくしていたアルバイト仲間のHくんからLINEがしてちょっとだけ会うことに。そのあとまた帰って来てテレビを見る。それほど面白いものもなくてザッピングしまくったあとでこの間放送していた漫才の同じとこだけを観て終了。
バイトや文芸、最近は色々なことが上手く行っている。完璧とは言い難いけれど、今年の一月くらいの時期とは大分違う。
僕も色々考えたりはしたけど、やっぱ手抜きっていうのは確実にあるものだなと思う。自分が手を抜いていたのだとしたらどの辺なのかは明確に分かっていると思う。手を抜くというのは手を抜こうと思ってしているのではなく、あとで見たら「やっぱ、手抜いてたな」って思い当たるものだろう。やっぱり人は楽な方にはそれがちだと思う。頑張らないと出来ない部分というのはあるなと思った。それをやっている状態が普通になればよいのだと思う。
文芸部の人ともこの間会った。僕が今年の初めくらいからずーっと不満に思っていた事がようやく水面下から浮上して来たようで、あーよかったよかったと思った。
もう文芸の怨念みたいのとかは特にいい。

文芸至上主義とパーティーの崩壊

この辺のところは時代の変革と言っても良いと思う。今日はそのことを考えて、ひとつひとつの意味のないような発言、感想文、または、小説、そういうものを思い出して、ひとつひとつはすごく小さな形でしかなかったけれど、それがいろんな、それも想像の付かなかった場所へ届いたことで今、世間が変わって来たのだなと考えていた。
このことは、「文芸は生活のためにある」という意見とも合致していると思う。これまでずっと、文芸部至上主義みたいな世界があって、そこでは同じような出来事の生産と再生産があり、その中で十年以上もがいていたように思う。けど文芸をしている人もいち生活人で、生活や人生は周りとは比べられない個々のもので、至上主義なんてものはなかったのだというのが、今回、文芸外の世界の色々な人が意見を発してくれたお陰で少しずつ、本当にそこから日は長く経過したけれど変わって来てるんだなという実感を得た。

僕も生活の上に人生というものがある。文芸をしている時よりも生活のことを考えている時の方が多い。そのことを、東大の教授から思想を絡めて説明していただいたのは、自分の中でも変革でもあった。ちょうどその頃、こき下ろされたり嫌がらせを受けている頃だったので、ああこのまま、消えるんだなあと思っていた(それもいつもの流れで何万回目のルーティン)けれど、結局それは構造自体がパクりで中身も嘘だったというのが明らかになってしまった。僕ももともとその方の本を読んでいたし、生きている思想を持つ人と交流できたのは大きい。
思想みたいのは、はじめは批判を受けるくらいでよいのだと僕は、言おうとしたりしていた。新しいものを人はファーストタッチでは受け入れない。けど何年もかけて、それでもずっと地味に使われてゆくようなのがよい小説なんじゃないか。
本当に自分は基本一人でいるんだなあと思った。こんなことをこのあとでいうのもあれだけど、仲間が沢山いて、上の人からいつもあたりまえに頭を撫でてもらっている人がハイになったり調子に乗って小突いてくるような心理になるのも当たり前のことだろうなと思った。

文芸部の中で再生産し、恋愛、いろんな確執を経て、それを実名入りで投げ合うような行いもした事がないし、それがショーになるような空間はやはり不自然だと思う。面白いと思うこともあるけれど、面白い人が面白くない人の餌食になるような構造でもあるし、その下で消えてしまったり、被害を受けたまま声の上げれない人たちも多くいる。

けど今回のことで文芸は生活や人生のためにあり、文芸部の人に届けるのではない。その他の人にずっと届いているというのが分かったと思う。
文芸至上主義ではなく、文芸生活主義だ。
それは日本の風土にも合ってるんじゃないだろうか。

僕も最近調子が良くなってきて、文章を書けるようになってきた。集中しているときは「楽しさ」しかなくて、色々な人に見せて世界を感じてもらいたい、と思っている。やっぱり色々な人に見てもらいたいし、役に立った方が嬉しいと思う。


十倍しゃべり、十倍突っ込む

話は変わって、Hくんが何故あれほどまでに煩いのか、僕は考えていた。仕事をしていても、頭の回転が早い、常に動いてるみたいな人はいろんなとこに気がつくし、その分「何故周りもこういう風に動けないのか」という不満も溜めがちである。自分の場合もそういう人から何度嫌われて来たのかわからない。
けどこれは狭い職場内で、やっぱ人によって働き方は違うから、遅い人は遅い人でそういうフォローをしているんだってHくんが気がつくのはいつだろう、気がつくまで俺たちは傷付き続けなきゃならないのかと思うとそのあとテレビでGacktが語っているのを見てても僕はバットで後頭部ぶん殴ってやりたいような苛立ちを覚えた。

何故、気持ちが伝わる、言葉が話せるのが心地よいと人は思うのだろう。

アルバイト先に居る外国人の子は、日本語を話せない。歳も離れているし、けどなんとなく共有できそうな部分があるな、と思うとそれは思い込みなのかもしれないけど自然と話したくなる。けど、同じ日本で生まれて育った環境も大体同じはずなのに、共有出来る部分が少ないとかいう雰囲気があると、如実に例えば、内面のこととかは話しても無駄だろうなと思う。例えば久しぶりに会った友人が、交差点のど真ん中で立ち止まっていろいろ聞き出そうとしてきたらこいつばかなんじゃないかと思う。

程度の差はある。

けど看護師が如意棒持ってくるくらいそれは意味不明だと思った。