To be continued

単純な日記です。

日記

所属に関する話を聞いたりした。最近は何かをやるにしても必ず自分の年齢についてまず考えてしまうようになってしまった。周りの人はそれほどこれについて考えてないようで、何か今の状態が死ぬまで続くみたいな恒常性というものがいつも働いているみたいだと思った。そもそも自分が小説みたいなものを書いているのは小説が死ぬほど好きだからというのではない、みたいなこと、当たり前の呼び声でいっしょくたにされると堪らない為こういう繋がりで会う人に毎回のように言っているんだけど、だから必要がなければやらないし、そもそも面倒くさいのだから本なども積極的には読まない。これが当たり前みたいに僕の周りをずっと支配していた。他人ていうのは常に僕を支配し自分たちと同じ存在と括って来るような存在だった。けどそういう、やりたいのでなく止むに止まれずという理由、一人で当たり前というのは普通の人に対してあるわけではないんだなと思った。その上、加齢問題も加わって来てる今、自分にとってメリットが大きいものだったり、そこに良い人が居たりするのでないのに人につられてやるみたいなことはあり得ないと思う。

何かこの「良い歳して…」っていう部分に対しては最近かなり考えるようになっては来ていて、もっとその辺のことをまわりの人と話したりしたいなあと思っていても、皆が皆貝のようにそれに対しては無言になる。文芸界隈は皆これに対して「特に見ない」「もっとアバタを探す」くらいの域を出てない。こういうの、文化として本当に貧しいんじゃないって思うんですよね。だって皆、同じ速度で歳くってる事実が目の前に確かにあるわけだから。他人のシワを見て笑ってる瞬間は楽しいかもしれないけど自分だって数十年後オシッコその辺でするような人間になってたっておかしくない、そのことをなぜ考えないのだろうか。唐突に、何かに対して常にまとめろとか意見を言えとか言う人もいるけど、他に得意なことがあるのにも関わらずわざわざシフトチェンジして坂上忍のようになろうとし生きるようになる奴、この世にいると思う?
だから若さというのはパワーだったり自己の魅力だけでエンジン全開にして走っていっても許されるようなものが、中年以降になっても同じように振る舞っててもそれは単純に今持っているものを失うor黒歴史の始まりでしないように感じたのである。で、じゃあどうしても絶対やりたいと思うこと…僕ならば小説だったり文章を書くことだったりすれば、それを差し置いても得意だと思っているし足元を何度か見てもやりたいと感じるのだからそういう場合、勝手に自己責任でやってれば良いんじゃないと思う。けどそれと同意を求めるみたいのは違う。

僕の見てきたバカは何か知らないが自分のアイデンティティに同意を求めたり特になんの考えもなく足並み揃えてやってきた上で結局あたりまえにハゲてきてそれで急遽に焦りはじめるみたいな感じだった。そういう人、何か知らないけどいつも僕に対して言い聞かせるように話して来るので「一体、何?」と思っていたら、考えたところ自分よりも相手の頭が悪いと思って話しているようなんですよね。こちらからしたらその人の知らない人生を生きて来てる他人でしかないしこちらも同様に相手の態度を見下しているわけだから、互いにずっと話が噛み合わない…。なんで、普通のフィールドに乗って普通にこの人は話せないんだろう?って思ってたんだけど文芸界隈の人って基本的には皆そういう自意識でいるんですよね。で、この人の「周りの人基本的に全員バカ」っていうのは常にある内心の自意識で、だから人を諭すようなのや教訓のある物語ばかり書いてたりして、別にそんなこと今知りたいと思ってないしありがたくもないので「だから何?」みたいな返答をすると鼻血出すくらい怒りまくっててその後も死ぬまでずっと世界に同じような態度でいるので僕も同様に見下し続けています。


弁当

僕はお弁当を作る会の存在について考えたりしていた。お弁当を作る会は、見栄えがいいお弁当を作り、それを写メに撮ってSNSにアップし、どれだけのイイネをもらえるかを競って→自己満足する。で毎回行動のターンが終了するみたいな会だった。それを見せられて自分は、たしかに、見た目が華やかで「わー!」ってなるようなお弁当を作るのは良いかもしれないと感じた。しかし一緒にやってみようとか、いいよね?みたいなとこまで手を差し伸べられると実際、え…?みたくなってしまう。一瞬、「わー!」ってなったとしても、それはファーストルックの感情である。いったん落ち着いてから細部までその弁当をよくよく見てみるとその上に乗っかっているのは唐揚げとか卵焼きとかでもなく、彩りのためのパプリカ、ブロッコリー、なぜかオクラを半分に縦切りにしたもの、だったりして、タンパク質はというとハムやカニカマ、錦糸卵をカッターで切ったやつだったりする。人目見て、「わー!」って思ってたけど、ちゃんと見てみたときに僕は自分だったらこういうのよりも全部茶色い牛めし、あるいは全部紅白色のカニめし弁当の方が百倍食べたいと感じると思った。

で、存在してるのはいい。けど「どう思う?」と言われたとしたら、聞かれてから五秒後くらいからそういう「そもそも、良い歳してその行為をする目的と、実際そこにいて、食べたいと思うか」みたいな疑問で頭がいっぱいになってしまう。あたりまえに。
僕は、個人的範囲でそういう会を勝手にやって楽しむに対しては別にいいと思った。それに対して僕もイイネ!をしたり「がんばったね!」と言ったりするなどするくらい大人ではある。けど実際に「入らない?」とか、「どう思う?」みたいなさらなる行動を求められたりするのはちょっと筋が違っていると思ったのである。だからつまり、そういうのはあなたがたが個人的な範疇でわざわざやりたくてやっているようなことで、それに対して赤の他人である僕が別にいいんじゃない以外の何の感想もあるわけないだろうと激しく思った。
別に良いだろって。勝手にやってれば。

ねーねー奴


小説とかブログ、SNSで親切そうだったり明るそうだったり楽しそうにしているからといって「ねーねー」みたいな感じで話しかけられるのが僕は嫌いである。よくあるのが、「職場のおじさん」という存在に対しての印象で、職場のおじさんは無礼だし怠惰で空気が読めないので皆があたりまえに嫌っているんだけど「職場のおじさん」という存在はそういうまわりの感情というのがまったく読めないため、職場内が楽しそうな雰囲気になっている時、何か自分も入って良いパーティーだと勘違いして引き込まれるかのように入ってきて当然のように喋っているみたいな状態が各所で存在してたりする。SNSなどでもこういう人ってかなりの割合でいたりして、「ねーねー」みたいな感じであたかも他人達の雰囲気に誘われて入って来るみたいなことがあるんだけどそもそも、「ねーねー」じゃないだろと思う。
「話、はいってもよいのかな?」くらいないの?
一応返事はするけどそういう輩っていうのは他人と自分の区別が付いてない痛い社会人であることが多いため、初見から大きな壁がそこにあると思っていてだいたいが最後までずっと嫌いなことが多い。そういうふうに入り込んでこられたとしても内心では常に、ずっと「お前に関係ねーだろ」としか僕は思っていない。お前に関係ないしそもそも他人なのに僕が他人と楽しそうにしている瞬間を何故、自分のものだと思うの?そういうのができないから空気読めないクソジジイと化粧濃いだけのクソババアと見做されてて皆から内心では常に嫌われてるんだと思う。

職場のおじさんというのはそういうリアクションに対して「…今日、機嫌悪いな」「今日、天気悪いな」みたく把握しているようなのだけど、言っておきたいがそれは天気とかとは違う。それがお前の存在に対するとりあえずのアンサーなんだよ。