To be continued

単純な日記です。

野暮について考えていて、お笑い入信希望者のようになる

それは単なる、電卓のごとく

何か仕事をしているうえでわからないこととかはよく出てくるけど、そういうたびに自分から出てくるのって「自分」というコンピューターを通して出てくる最適解(と思っているもの)なのかなあ…と思った。人の入れ替わりも多く、価値観も一定じゃないとこでは日々がそういう、野球のノックをずっとやっているみたく感覚だったので何か落ち着きがない。やっぱりなにをやるにしても行動は「発端(きっかけ)」→考え→行動→行動の精査→結論づける
みたいなことをして初めて完了するような気がしている。記憶も定着してくるような気がする。この最後の行動の精査と結論付けるの部分は人に言ったりするのでも良いしとにかく、自分としてふに落ちるところを言葉か行動として形にするみたいな事かもしれない。その部分では自分の価値観やフィールド、それから過去の経験も伴う話になると思う、これは決して野暮なことなんかじゃない…と思う。思いたいのは僕自身がはしょってしまいがちだからである。
そういうことをもっとちゃんとやったほうが良いのかもしれない。思えば自分が信頼していた人はいやいやながらもそれをきちんとやってくれていた。今は海外へ行ってしまったけどその「結論付ける」の部分をよく聞かせてくれていた。ああいう期間は大変ながら地に足が付いていて安定もしていたように何か思い出されるのである。考えれば自分はそもそもでそれが苦手なのだった。周りの人も苦手な人が多い。
この結構多くはカテゴライズで、反省、改案、あと気持ち的な面で称賛、罵倒ももちろんこもる。「聞き流す」の対岸にあるものだと思ってくれればよい…こういうのが出来るのと出来ないのでは大きく変わってくる。
もし今、目の前に金銀財宝が常にあったりしてもそれが逆に落ち着かないと思える、それは自分の中でそれがふに落ちてないからなのかもしれない。

野暮のこと、次の流れは目に見えない


その人の気にしているのは自分の夜の姿と朝の姿が大分違う、ということで、僕自身がそれを話題にしたことは殆どないのだけどずっと気にしているみたいだった。思うに、彼は「野暮」についてずっと気にしていたのじゃないかと思う。
僕も文芸をやっていてすごく気になったのが、日本人のなかにこの「野暮」をまったく気にしない人たちがかなりいるということである。
例えばいま、コロナウイルスが広まっていて、特効薬のようなものが求められているとする。こういうことはわかりやすい問題で、誰もがその先に注目し、力を注げばよいと考える。またウイルスのことは目に見えづらく、とかくわかりにくいことが多いため、ニュースでは連日いろいろな状況、数字を流してくれ、情報がいますごく求められていると思う。
こんなふうに、時代に沿ってそれに合うことを考え出す、そう言えばわかりやすいが、実際その求められていること、それから特効薬なんかは実は常にわかりにくく気づかれないことである。見えないからわかりにくいのである。これに例えば、誰かが気づいたとする。するとどうなるかというとそれを、繰り返しコピーする。そこに続いてくる。繰り返し議論して、その議論には議長がいない。「やりたいことを感じた部分でずっとやっていて、流れの安定が全く保たれていなく、無駄が多い」日本の製造の大量生産で儲けを得る部分では、こういったことが多くあるだろうけど、これがもう国民の精神にまで染みついてしまったんだろうかと思った。けど、やはり求められているものならそれでも僕は良いと思う。それが流行るのは必要で、良いから流行っているのだ。それにツッコミを入れるのもまた、野暮だとは思う。が、「え、まだやんの?」っていうとこまでずっと続けている。何か不安なのか、一言わざわざもらわないと気が済まなくなる。

「え、まだやんの?」

僕はこれは、文芸が利益の部分に結びついてしまっていて文化を逸脱してしまっているからだと思った。そんなとこに僕が美学を持ち出したとしても失笑されてしまう。
僕が倦怠感を感じたのはこういうことである。もう、そろそろ良いと思ってるんだけどまだまだ続くこの流れ、いつ変わるの?多分皆がそう思っていたけどその中でそれを野暮だなと言ったり特効薬を見出す人っていうのはほぼでいない。

https://biz.trans-suite.jp/18227

そう言いつつもこの「野暮」も使い方が難しく、それを口頭で説明するともっと野暮になってしまうところがある。そもそもで日本人はこういう美学、それから複雑な精神のもとで文学やお笑いを生み出してきたのだと思うけど、この「野暮」文化については多分お笑いの方にしか残っていないのかもしれないなと思った。その人はお笑いに精通していたけれど僕ははっきり言って、付き合いやすくはないな…と思った。何かこういう人たちってやっていることはふざけているけど中身は実際、誰よりも美意識も高ければプライドもものすごーく高いんです。だからこその年功序列で、面白いが神とされているんですよね。とても動物的です。オールマイティな人も多いし。何かこれって攻撃性だけでもいけないし、必ずリアクションが求められますもんね。この辺はもう文芸とは完璧に噛み合わないなと思った。僕としてはその噛み合わない部分をテーブルにあげてもよかったけど、まあそれも野暮だなと感じたりはする…

僕の気になるのは「どの辺から野暮だと思い始めるのか、誰が言い出すのか」という流れ。文芸ではこういう人はほぼでいないといってよいです。それのなにが困るかというと、一人や一部に多いに負担がかかってる状態がずっと続くみたいなところ。結局、上の人の何か一言が欲しいがためにずーっと粘ってどうでもいいことをやってる、そういうことも普通にあります。たったひとこと「どうですか?」っていう、もしくは自分でやってしまえばよいのに…
既成事実のために野暮を繰り返す。本当にいやですこういうの。

お笑いの話に変わる

一方でお笑いの方では流れを変える、びっくりするような新しいのを持ってくるのがそれだけでもカッコいいとされていますね。文芸の方ではびっくりしたところを見せたくないみたいな感じなので、こういうのはあまり歓迎はされません。



ちょっとまとまらなくなって来ましたので箇条書きにしてみます。


お笑いの人        文芸の人

①突っ込む、、、、、、京都的対応

ドーパミン、、、、、タテ積系

③受け文化、、、、、、論理で喧嘩しまくる

④男社会、、、、、、、男社会

⑤水もの、、、、、、、賞もの(&売り上げ)



まず、気になるとことして文芸とお笑いで喧嘩したら一体どうなるのか?というの、近しい人を見ていたら「なぜかわからないけど手を取り合う」みたいな感じでした。男同士のビジネス上の友情が芽生えてしまったのでしょうか。

についてはなにが起きたときの基本的対応ですね。文芸の方は人間の黒い怨念が多くあり、そこで成り立っている社会なので、後ろ盾のない若い女性とかはまずこれで泣いて逃げ出すことが多いと思います。お笑いについては生活圏にまで及んできますがこれに耐えられない人はお笑い大学の入学を不可とされてハブられます。ここに見るに多分お笑いには江戸っ子文化がまだ生きてると思えますね。懐深く、いかなるときもけつ毛を抜くことが出来るのが最高に気持ちのいいおとことなるのです。(僕も別にいいんですが、ちょっと気になる子がいる前では恥ずかしいです!)

江戸っ子とは?気質、言葉、口調まで全部解説! | 大日本観光新聞

はだいたいの気質。お笑いの人は常日頃ドーパミンのシャワーを浴びているドーパミン中毒者とも言えますが、だいたいの人がユーモアと発想の転換で乗り切っているので一緒に居て基本的に耐えられない人は少なさそうです。文芸の人は地味にタテを積んで生きているだけなので話が長っだるくてたまにツッコミじゃなくトラックで踏み潰したくなることがありますね。

については自分のしていることを糾弾、批判されたときの対応。僕の思うに、本当にお笑いの人は「野暮な自分」でいたくない人が多いため受けをきっちりやってくれます。スラムダンクでいうところのリバウンドっていうやつですね。これは文芸の人にも是非やって欲しい部分です。自分の満足できる部分ではなく、あくまで社会に向けての最高値として受けをやるっていうことです。舞台でパンツを洗う感覚でやってください。いくら最高の美男だとしてもパンツは皆履いてるものなので。その「最高の美男」という意識が「パンツ洗う」まで突き落とされる瞬間、それがお笑いのバブーとして産まれたのだという実感なのです。
あ、おもしろくってことです。

これはどこもそうですね。けど大分違うのは結構お笑いは本音が多いかなってとこですね。上の人もカッコよさを保つことを気にされてる方が多いです。
ここにも美学と野暮について考える文化は残っていそうです。

これは問題とされることが多そうですが結構、あとに残らないのと残るのって人間性の部分に大きく関わってきますねー。
あと、お笑いの場合常に観客がいるものっていうのはかたちとしての違いに影響を与えていそうですね。観客がいるから、笑わせると気持ちいい→解脱する。そんなふうに日々、受けて、笑って、笑わせて→解脱を繰り返している。多分この「笑わせる」という行動は文芸のようにタテ積みしていくのとは大分違う作業になってくると思います。例えるなら最高のサービス業であり、AV男優としてイカせるテクニックを磨き続けるのと似ています。小説で読者がイカされることって、あると思いますが?逆です!おまえがイッちゃってるだけ〜〜!!(※ここ、読んだあと瞬時に忘れてください。)

お笑いというのは全方位からかかってくる突っ込みを受けながら自分がボケてさらに人が手を抜いてたら突っ込むみたいな言葉にすると意味不明なことを常にしなきゃならない作業でこれがたいへん難しく、また気難しい人が多く年功序列が激しく、別に言ってもいない生活の部分まで受けをしなければならない面倒なものです。いや、気難しい…というよりもはやこれは考え方、あるいは国籍の違いなのだと思います。そこに入れば変わる、みたいな。
お笑いの審査、それから洗礼を乗り越えるとあとは気持ちいいだけの社会がまっています。だから明石家さんまとかもあんなに阿弥陀如来的に見えるんだと思います。「合ってる」と思う人がいればぜひ、やってみてください。僕はやりません。