To be continued

単純な日記です。

アルバイト先がついに休業となった。これほどウイルスが広まっている中では仕方がないというか当然の判断でもある気がする。と言っても未だに自分の知り合い、もしくは同級生がウイルスにかかったという話は聞かないためなんとなくテレビを見ていても絵空事のような感じがしてしまった。
小説を書いてみたりもする。書いてて中頃まで来て、唐突にそういえば、オチと展開をちゃんと考えないで書き出してしまっていたなと気付いた。ぼ〜んやりと、なんとなくの印象はあるんだけどてん結の部分に対する考えがなくてひさしぶりに自分に対してびびってしまった。
文芸の人たちとも会ったりもしているけど、あの人達はひとをびびらせるのが好きみたいで、後出しじゃんけん的な行いをずっとされている感覚に陥る。何故僕だけ、普通に情報を与えてもらえないのかと昨日の夜はひとりでずっとそのことを考えていた。


買い出しなどに行ったりもするけどマスクが品薄なのほぼ全員がマスクを付けていたりする。僕はは残り二枚だったのだけどすんでのところでMさんつながりで十枚くらいマスクを入手できたのでよかった。ついに自分でマスクを手作りし始めるかと思った。

で、結局家にこもって特にやることがない日々となってしまったため、小説を読んだりして過ごす。たまに物足りなくなってきてネットでアメブロとかを読んだりしている。それで思ったんだけどこういうとき、うっすらと(皆、何してるんだろうなー)みたいな生活の部分を僕は結局求めているのだ…と思った。それは災害やウイルスに対する答えや問答などでなく、起きてあれこれして外に出たら皆こうして仕事でこうなりました。っていう生活の部分で、例えば人が体幹と顔と衣服があるのだとしたら衣服の洗濯をになう部分の音を聞いてたいみたいのもやはりなぜかわからないままにあり、そして人は何か知らないうちに「そういえば、あれしなきゃな」と思う瞬間がいつかくるような、そういう溜めの部分を人って実は持っているのじゃないだろうか。思うに、病気の人がいたりしてそれに対して問答をずっと行っていたとしてもそれは時々するのがいいのであって、それを直すのはもしかすると生活という膨大にゆるいまとまりがつかない部分だったのじゃないだろうか。もっと生活をになう仕事に目を向けてみても良いのじゃないかと思った。(そして俺は本を閉じた…!そういう理由で、僕はもう病名などつけられたくはないのだ。)
だから無理やりとりあえずの答えなんて出す必要ないのだ。そういう、こころ遊びみたいのが俺は嫌いだ。皆勝手に生きてるんであって勝手に対する名前はつかないし、もちろん商品にもならない。

この休みを利用して…みたいなことも珍しく新聞を読んでていろんな情報を得たりしていました。ネットやテレビで教育を発信してあげれば良いのじゃないか、と考えたりしてましたがそういうのはわりにすぐ出ていましたね。何かこの休みで今まであちこちに見えていなかった子ども連れの人や小学生がどういう行動パターンをして生きているのかなみたいなものにも頭をめぐらすよい機会にもなるような気がした。いるのに見えていない、ということはよくあるのはなかなか恐ろしい。

本をいくつか買ってみたけど、重いのは今はあまり読む気がしていない。簡単なエンタメ小説と、それから普段読まない雑誌みたいな文字あるものを隅々まで読むみたいなことをしている。