To be continued

単純な日記です。

おじさんのレール

最近、テレビとか見ているとついて行けないなと思うことがけっこう多い。このことについては五日くらいに渡って考えたのだけど「そもそも、テレビに面白味とリラックスを求める方が間違えている」という結論に達した。なわけなので、以下は「テレビについて物申す」的な話ではないのだと思って読み下していただきたい。
そもそもで僕はバラエティかお笑い番組しかあまり見なくて、けど年末から正月にかけての特番とかは普段見ないものもだらだらと見てしまいがちだった。普段、テレビを付けるとしたら朝は必ずNHKだし、夕方まれにニュースを見て、あとは撮り溜めしてあるお笑い番組を見るかYouTubeでお笑いか漫才を見たりしてある。こうやって並べてみると、僕は危険なくらいお笑い番組しか見ていない。
とにかく、最近のバラエティとかテレビを平常心では見ていられない自分がいて、正月特番期なんかはにわかに狂いそうになるくらいの自分がいた。…何か、素人さん発見!みたいな感じで素人さんがなんの脈略もなく人生の苦しみの部分から語りかけてくるやつとか、こんなちょうどいい素人や小学生、いるわけねえだろみたいなクイズ番組、一度流行ったパターンを擦り切れるまでやるドラマとCM…とかいう意見もあることはあるけど、そもそも、意味もなくキャーキャーしてる感じが嫌いなんだと思う。それからさらには、もう潮時の時期なんだとも思った。もう、盆栽や花鳥風月を目でて、子どもや孫を眺めて一日終えるような心の充足、そっちの方がいま必要としている。
こういう、人生の春夏に対して「チョー楽しい!」って言える感覚がなくなった、というよりも強めの、見苦しいという意見すら持ち得たるワタシは、しかしこれは共通認識とは違うのではないかとも思った。僕は、自分の父親を思い出していた。父親も、こういう集まりみたいのがでえっ嫌いな人間で、人の集まりみたいのには出向かなかったし、外食もほぼゼロの家で僕は育った。そのうえ、別に心広いような人でもなかった父が家に帰って人の悪口とかいうのを聞いていた。 そういう、気の小さいのか大きいのかよくわからないみみっちいところが僕はずっと嫌いだった。人はこんなふうにしてたった一人で捻くれていくのだと感じていた。
とにかく…暮れから正月までの間、皆が楽しいとき、自分からすればまったく楽しくないのが何故なのか分からなかった。今日、実家の人たちと食事をしたあとで部屋に篭り、ここ最近の数年を僕は思い出してみた。そこでやや若干立ち止まって僕はもう、人生っていうのが「秋の入り口」みたいなとこに来てるんだなと思った。例えばテレビでなくともこういうパーティーにいるとき、やはり人というのは自分のハレの状態というのを考えさせられる。自分のウリみたいのとか、皆が喜んでいた瞬間…なんだったっけ…?って考えてみて、はたと思った。そんなことで自分、いま勝負するような年齢か?みたいな。俺が俺がみたいな、そういうのはっきりいってもう、無理やろと思った。もう、だから一番バッターみたいな感じにそぐわないことについてはそもそも初めからっていうとこもあるけどむしろで行くみたいなことの意味がよく分からなくなった。ハレの舞台…昔からというのもあるが年取るごとによりもっと出たくなくなる。身体中のすべてでそれを拒否っている。出たくないのはまだ分かるがその上、見たくもない。見たくもないし存在も知りたくない。逃避したい。パーティーなんかない日常に浸りたい。こういう意識、結構終わってるなと思った。若者が何かよく分からない新しいこと(自己実現、自己表現、新しいシュール)をしているのを見ていて、正直、9割方がまったく面白くはない。知的好奇心や興味の何も刺激されないフワフワとかシュールとか二番煎じの何番煎じみたいなのとか、なんの意味があるのか分からないまま近しい人もやってるの、見てたら吐きそうになる自分が居る。が、しかしけどもう役割として「ニコニコ笑って見ている」それが年寄りの立ち位置なんだと思った。幼稚園児、小学生、皆そうだったじゃないか。それでいいじゃないか。もういいじゃないか。
言っておくがこれは「どうでもいい」感覚とは少し違っている。なんでもかんでもだいたい、ちょっとおかしいんじゃない?と思うウルサイワタシが、強烈にそこに、いることはいる。けどもう、世の中の大多数の、しかも若者たちが「それでも楽しめれば別にいい」を占めているんだったとしたらもう、自分の世界に対する感覚は存在しないのだと思った。そういう、憎しみを先ずを追いやって、うっさいだけのジジイ、居なくなれやと思ったんである。